第12話 日記の頁
日が傾きかけた頃。
澪奈は公爵家に戻っていた。
暖炉の前では兄が椅子に腰掛け本を読み、その足元では
しろがくるっと丸まっている。
その側では机に向かう妹が、真剣な顔でペンを走らせている。
「ただいま戻りました」
「おかえり」
「お姉さまおかえなさい!」
「ええ。何をかいていたの?」
「今日はねー、お日様記録書いてるの!」
妹の声が、ふわりと響く。
「お日様記録?」
「うん! 今日は晴れだったからお日様マークですよ!それと、お兄様とお出かけしたこととかー、お母様とお菓子作りしたこととかー、あとねあとね、今日のお昼に出たプリンのことも書くの!」
「ふふ。大切な記録ね。」
自然と微笑む。その光景は、どこか懐かしく感じられた。
(日記かぁ……そういえば、昔私もこんなふうに書いていたような。)
ふとした衝動で、自室に戻り、机の引き出しを開く。
そこには、きちんと整理された日記帳が並んでいた。 装丁はどれも綺麗に整えられ、年ごとにラベルも付いている。 そこから最近の巻を取り出し、開く。
* * *
20XX年 3月14日
《一日記録》
08:00 起床
08:30 朝食(卵料理、トースト)
09:30 書類整理
10:00 読書(政務論文)
11:00 妹の舞踏練習付き添い
12:30 昼食
13:30 公文書確認
15:00 客間対応
17:30 夕食
20:00 就寝準備
《特記事項》
・夢は見なかった
・予定通り過ごせた
* * *
(……必要なことだけ。)
次の冊子も、その次も、ほとんど変わらない。 ただの業務記録。感想も感情も一切ない。 ここ三年ほど――いや、もっと前から?
めくる指先が、止まる。
(そういえば、奥に――)
ふと、一冊の日記帳が目に留まった。
引き出しの奥、やや古びた装丁の一冊。 表紙の端がすこしだけ擦り切れていた。
開いた瞬間、文字の熱が違った。
* * *
20XX年3月28日(☀)
今日はお兄様と本屋に行った!
新しい童話の本を買ってもらったの!
すごく面白そう! 夜読むのが楽しみ!
帰り道で桜が咲いてて、花びらがいっぱい髪にくっついた。
お兄様が笑って取ってくれたの、ちょっと恥ずかしかったけど、嬉しかった。
----
20XX年6月20日(☁)
今日はちょっと失敗しちゃった。
お客様にお茶をこぼしてしまって、すごく恥ずかしかった……。
でも、お母様が「次は大丈夫よ」って優しく言ってくれて、ほっとした。
泣かないようにって思ったけど、泣いちゃった。
でも、泣いたら少し、すっきりした。
* * *
にじむような喜びが、小さな悔しさが、ページの中に溢れていた。
(……これが八年前。)
(まだ、ここじゃない。)
何冊か飛ばして新しいページをめくる。
* * *
20XX年10月3日
今日は初めて舞踏の練習でうまくターンができた。
母様が「上達したわね」と褒めてくださって、すごく嬉しかった。
もっと綺麗に踊れるようになりたい。
いつか、私だけのドレスで、皆の前で美しく踊れたら……。
----
20XX年 2月15日
今日は空がすごく綺麗だった。
昼下がりに母様と散歩に出かけたら、梅の花が咲いていた。
少しだけだけど、香りもして、春が近づいてるなって嬉しくなった。
帰り道で見かけた猫がまるまるしていて可愛くて、
ずっとこっちを見てきたから、思わず笑ってしまった。
こんなふうに、理由もなく幸せになる時間って、好き。
明日も、同じような午後が来たらいいな。
* * *
澪奈は、無表情のままそれを見つめる。
(……これが、私?)
そこにいるのは、誰かに褒められることを心から喜び、未来を思い描く少女。
そこには確かに、感情があった。
(どうして……こんなに、遠いの?)
ページをめくる指先が、ぴたりと止まる。
(こんなことに、私は――心を動かされていたんだ。)
胸の奥が、じわ、と熱を帯びる。
今の自分なら、こんな言葉は出てこない。
嬉しかった。楽しかった。幸せだった。
その実感が、どこにもない。
「……今の私なら、書けない。」
自分の声が、小さく響いた。
心が軋む。
けれど、それは 懐かしい とも 悲しい とも、思えなかった。何も、浮かんでこない。
なのに、なぜか胸だけが、痛んだ。
――その空白が、怖かった。
(……いつから、私は感じることをやめたの?)
パラパラとページをめくっていく。
次のページ。
そのまた次のページ。
さらに次のページに進んだ瞬間――
止まった。
(……ここだ。――五年前。)
ページが、破れていた。
まるで、何かを剥がし取るように、乱暴に引きちぎられた痕跡。 バリバリと裂けた縁が、無言のまま何かを訴えてくる。
隣のページには、――わずかにインクの滲みだけがある。
にじんだ文字の断片。線にもならない軌跡。
……そこに何かを書こうとして、やめた跡だけが、残っていた。
その次の数ページも、真っ白だった。
記録が消えている。 感情が、切れている。
そしてその先から、機械のような業務記録が始まっていた。
(……ここに、本当は……何かがあった?)
ページの端をそっと指でなぞる。
破れた繊維が、指先にざらりと触れる。
破かれたのは紙だけじゃない。
何かを刻もうとして、でも刻めなかった。
その"痕跡"が、皮膚の奥に染み込んでくる。
(……私、自分で……これを?)
信じたくない。けれど、そうとしか思えない。
なぜ。なぜ、書けなかったの。
なにを、書こうとして――書けなかったの。
もう一度、ページを見返す。
……だが、何もなかった。
ただの、空白。
何もかも、喰われたように。
何が書かれていたのかすら、もう分からない。
――呼吸が浅くなる。手が震える。
「……。」
思わず手を握りしめる。
胸の奥が、わずかに軋んだ。
(いったい私に、この日……何があったの?)
思い出せない。
でも、確かに何かが、あった。
誰かの囁きが耳の奥で揺れた気がする。
――『感情なんて、煩わしいだけだろう?』
(……私は、何を失ったの?)
けれどその問いに、答えられる記憶はどこにもなかった。
澪奈は、そっと日記を閉じた。
――その瞬間。
キィン……
頭の奥で、何かが強く張り詰めて、軋む音が響く。
耳鳴りではない。外からではない。
確かに、自分の中で鳴った音。
まるで、封じていた蓋の奥から、何かが目を覚ますような。
「……っ。」
静かだったはずの部屋が、急に冷たく感じられる。
けれど――
その音が、今は怖くなかった。
それは、どこか自分の内側と繋がっている音。
(思い出せるかもしれない。少しずつでも。)
澪奈は、日記帳を両手で包み込むように抱きしめた。
そのとき、ふと――
背中に、やわらかな温もりを感じた気がした。
振り返ると、そこにはしろがいた。
彼は、何も言わず、ただ小さく澪奈を見上げていた。
その金の瞳には、どこか哀しみとも慈しみともつかない、穏やかな光が宿っていた。
「ふふ。来て、くれたの?」
澪奈は、かすかに笑う。
(……まるで、安心させに来てくれたみたい)
そっと腕を伸ばして、しろを引き寄せる。
今度は、日記と一緒に、しろも胸に抱きしめた。
まるで、大切な何かを、そのぬくもりごと、守るように。




