第11話 共鳴の音
診察室を出た澪奈は、紡生の後について廊下を歩いていた。静かな空気の中、わずかに薬品の匂いが漂っている。
「今回、診察を通して改めて感じたんですが……澪奈さんの器は、やっぱりちょっと特別かもしれません」
「……特別?」
「ええ。だからこそ、他の方と比べることで何か気づけるかもしれないと思いまして」
紡生が一つの扉の前で足を止める。
「こちらの方は、あなたと同じ夜会に出席されていた令嬢です。ご家族の許可は頂いてますが、無理に声をかける必要はありませんからね」
「……わかりました」
小さく頷き、扉の前に立つ。
その瞬間、ふっと胸が詰まるような感覚がした。
この先には、目覚めぬ者がいる。
ここにいる人はまだ、何かを奪われたままなのだ。
* * *
案内された部屋に入ると、そこは静かで温かい空間だった。
柔らかな日差しがカーテン越しに差し込み、部屋の中央にはベッドがひとつ。
ベットに横たわるのは、あの日見かけた顔――
夜会で言葉を交わした令嬢だった。
澪奈はその姿を見て言葉を失った。
(……こんなに……)
彼女の顔は穏やかで、眠っているだけのようだった。
呼吸はしている。肌に温もりもある。
けれど、――彼女の顔からは生気が感じられない。
ただ、器だけが残されているような――そんな印象だった。
澪奈は、無意識に喉を鳴らした。
「これが、感情を喰われた者の姿です」
(……まるで、人形のよう)
彼女のもとへゆっくりと近づく。
彼女の隣に立ったその瞬間――
ーーパキッ。
澪奈の中で何かが鳴った。
さっきまで感じなかった妙なざらつきが胸の奥を走る。
「……音が」
無意識に漏れた言葉に、紡生が静かに反応する。
「音、ですか?」
「はい。パキッって音が響いた気がして……
そういえば夜会でも、」
「なるほど。音が聞こえるのは、とても珍しいです。それは、あなたの器が誰かの欠けた器に反応したのかもしれません。欠けた器同士が共鳴しているのかも」
「共鳴……」
"欠けた器同士の共鳴"
不思議な言葉だった。けれど胸の奥に――静かに沈んでいく。
……私も、欠けている? でも、何が?
ふとそんな考えがよぎったが、小さく頭を振って思考を戻す。今は、目の前の彼女のことに集中しなければ。
「彼女は、どんな状態なんですか?」
紡生が優しく少女の手に触れると、彼の指先から淡い光がふわりと広がった。
「……器の欠け方が深いんです」
説明を受けながら令嬢のことをじっとみる。
(……キラキラしてる。これが、心の器?
視え、た?いや……でも、私にそんなはず――)
「煌めいている結晶、のようなものがあります、ね?」
「視えました、か。澪奈さん。もしかして、何か魔法を習得されています?」
「はい、癒やしの魔法を。一般的なものだけですが。……魔法を習得していると視えるもの、なんでしょうか?」
「本来はそれだけでは視えません。魔法の素質と適応能力があると視える、とされていますね。一般の方で適応能力があるのは稀ですが。澪奈さんは心の器への感受性が高いんでしょうね」
「……もしかしたら、前から素質があったのかもしれませんね。特に音が聞こえるのは、ごく限られた例しか知りません」
「そう、なんですか」
「と、話がズレてしまいましたね。
視えるのならばより、伝わりやすいかと思いますが、この器は澪奈さんにはどう視えていますか?」
「……中心に大きな穴が空いていて、ヒビも入っているように視えます」
(……かなり素質が高いな。ヒビまでしっかり視えている、か。)
「はい。そのとおりです。長くこの状態が続けば、器が自己修復を諦めてしまう可能性もある。そうなると……」
紡生が一瞬視線を落とす。
言葉を濁した紡生の表情に、澪奈は小さく息を呑んだ。
(……これが、感情を喰われるということ?)
見た目では何も変わらない。けれど、器を通して見れば、それは深い欠損として現れている。
「なので、この欠損を埋める治療を施します。少し、視ていてくださいね」
紡生の手から光が溢れる。
それは彼女に吸い込まれるように、
柔らかい緑の縁となって紡がれていく。
――植物が芽吹くさまをみているよう。綺麗。
「っ。と、今日はここまで、ですね」
ふわっと紡生が光の縁を離していく。
「ここまで、ですか?」
「ええ。一気に修復はできないんです。
一気に力を込めて埋めてしまうと、それは全くの別物になってしまうんですよ。拒絶反応が起こってしまったり、人格が変わってしまったり。それで目覚めたとしても、治療、とはいえないので。あくまで自己修復を諦めないように、手助けをしていく形です。でも、彼女のこの感じであればあと何回か繰り返せば目覚めるでしょうね」
「なるほど」
彼女の顔をみると、血色がよくなり、
少し、生気が戻ってきたような感じがする。
「あとどれくらいで目覚める予定なんですか?」
「そうですね、自己修復の時間を与えながら治療していくので……、あと三週間ぐらいですかね」
「そんなに。……自力で目覚めることはできないんですか?」
「この心の器の欠損状態だと、かなり厳しいです。
あの夜会で同じ状態になった方で他にも入院してもらっている方がいますが、皆様形は違えど欠損状態はかなり酷かったですから」
「……私はなぜ、目覚められたんでしょう。」
「澪奈さんの心の穴が、何かしら影響を与えた可能性が大きい、かと。ただ、その状態を保っているのは……。すこし、危険かもしれません」
「その、先ほど見させてもらった時に感じたことなんですが。禁忌に触れたものの心の器に、かなり似通っているんです。パッと見ではわからないほどに。
五行部隊においてはあなたを危険視する方も出てくるかもしれない」
(……危険視。)
「ただ、澪奈さんの場合誰かに守られているような感触があります。普通なら崩れてしまうはずの器が、ぎりぎりのところで保たれているんです。まるで——誰かが、欠けた器の輪郭をなぞって、支えているかのように」
「誰、か」
――キンッ。
澪奈の中で、また音が跳ねた。
(……誰? それは……)
――ふっと、どこかの風景がまぶたの奥に広がった気がした。
白い影。
涙。
差し出された手。
頭の奥が、かすかに痛む。
(……私は……何かを……)
「澪奈さん?」
視界が、一瞬だけ揺れる。
紡生先生の声が私を現実へ引き戻した。
「っ、いえ。大丈夫です」
「……僕は、感情は戻すべき、だと考えています」
「無理にとは言いません。でも、感情というのは痛みと同じで、本来感じることで守るものなんです。痛みがなければ怪我にすら気づけないように、感情がなければ、自分の輪郭が曖昧になってしまう」
「感じる……」
言葉にした瞬間、胸の奥が、凍るように冷たくなった。
――最近、私は……何を感じて生きていた?
微笑み。礼儀。立ち振る舞い。
けれど、心が動いた記憶が、――思い出せない。
(私は……)
「あの……少し、外の空気を吸っても?」
小さく微笑んでたずねる。
その指先はわずかに震えていた。
「もちろん。無理はしないでくださいね」
部屋を出た澪奈は、静かな廊下を歩きながら、そっと胸元を押さえた。
――今日、何かが、確かに心の奥で揺れた。
それはきっと、まだ向き合えない記憶。
でも。
(……私は、何を失ったの?)
その問いが、頭から離れなかった。




