第9話 響く
外へ出ると、ひんやりとした風が頬を撫でる。 朝露に濡れた庭の草花は、きらきらと陽光を反射していた。
(……ここも何も変わらない、はずなのに。)
けれど、何かが違う。
空気が妙に澄んでいる気がする。
言葉にできない違和感。 まるで、何かが消えたかのような、妙な感覚。
――だがそれよりも、まずは後ろについてきたこの男だ。
「それで?さっきのはどういうこと?情報屋って何。紅哉って名前は本物?……それと、視えるのかって、あれはどういう意味?」
「おっと、一気にきたな。……にしてもさ、本当に見つかるとは思わなかったなぁ」
「本当に、って」
「普通の人間には見えないはずなんだよ。俺のこの姿、気配ごと消してるからさ」
「……それなのに、私にはみえた?」
紅哉は肩をすくめて、軽く頭をかいた。
「そ。お嬢ちゃんは感覚が鋭いってのもあるんだろうけど……実はちょっと視せてみたくなったってのもあったんだよね」
「……視せてみたくなった?」
「なんか、気になったんだよ。君の目。普通に見るっていうより、こう……見抜く感じがしてさ。だからちょっとだけ姿を揺らしてみた。そしたら――ガッツリ反応された。いやぁ、驚いたよ」
男は軽く笑って答える。
「改めて俺は紅哉。ま、紅哉さんって呼んでくれてもいいぜ?お嬢ちゃん」
「んで、情報屋はそのまんま。ここにはこの前の事件の情報を集めに来たってとこかな。で、特技は紛れること、なんてな?」
(特技……? 他の人から視えなくなるなんて――そんなこと、本当に……)
「……あなた」
澪奈はほんの少し、間を置いた。
「もしかして、妖怪?」
紅哉の口元が、ゆるく笑みの形に歪む。
「ほぉ。なかなか鋭いなぁ」
「……本当に?」
「ははっ。まぁ、そうなるよな。あぁ、俺は妖怪――って言っても、半端モンだけどな」
半端モン。 そう言って、紅哉は軽く笑う。
「猩々と妖狐のクォーター、って言えば分かりやすいか?」
「……。」
「おまけに、人間の血も入ってる。だから、妖怪の世界でも混じりものって扱いでさ」
「妖怪の、世界……」
「あぁ。幽世って聞いたことあるだろ。現世と幽世は重なっている世界っていわれてる。現代となっては交わることのない世界になっちまったけど。だからこそ、信じられないのも無理はない。ま、俺みたいなどっちつかずの存在はこっちに紛れてることが多いんだわ」
琥珀の瞳が、じっと澪奈を見つめる。
「……どちらにも属さない、ですか」
「お? 何か引っかかる?」
「……いいえ。ただ、本当にいるんだ、と思って」
「あぁ。いるよ。昔からずっと、な。」
澪奈は小さく首を振る。 だが、"どっちつかず"という言葉は、妙に心に残った。
(私も……そうなのかしら。)
貴族として完璧に生きている。 理想の令嬢として振る舞い、誰からも疑われることのないように。
けれど。
(……私の本当は?)
(私は、何者なの?)
そんな考えを巡らせたその時――
「……なぁ、お嬢ちゃん」
紅哉の声が、妙に低く響いた。
「お前、感情を喰われたんじゃねぇの?」
「……っ。」
澪奈の心臓が、跳ねた。
「……何を、言っているの?」
「ま、人間には視えねぇことでも――妖怪には、感じることがある。とくに混じりものの俺みたいなやつはな」
「器そのものは見えなくても、欠けた奴の匂いとか響きとか――そういうの、なんとなくわかるんだよな」
「お嬢ちゃん、なんか変だぜ?」
「変?」
「なんつーか……生きてるって感じがしねぇっつーか」
紅哉は、少しだけ真剣な目をする。
「人形姫、ね」
「……。」
「それ、気にしてねぇように振る舞ってるんだろうけど――実際、なんか違うだろ?」
「……違う、とは」
「何かが足りない、って思ってんじゃねぇの?」
「……。」
澪奈は、一瞬だけ息をのんだ。
「あなたに、それが分かるの?」
「さぁ? 俺はただの情報屋だぜ?」
紅哉は、軽く肩をすくめる。
「……けどな。」
紅哉は、ふっと小さく笑う。
「欠けた奴の顔ってのは、案外すぐ分かるもんさ」
「……。」
「俺も、ずっと何者でもなかったからな」
琥珀色の瞳が、澪奈をじっと映す。
「……ま、お節介だったな。忘れてくれ」
紅哉は軽く手を振り、踵を返す。
「っと、そろそろ俺も帰らねぇと」
「待って」
澪奈は、思わず彼の腕を掴んでいた。
「……あ?」
「……。」
掴んだはいいが、何を言えばいいのか分からない。
(……なぜ、私は。)
だが、心がざわめく。 胸の奥で何かが、かすかに震えている。
「……紅哉、さん」
「……なんだ?」
琥珀の瞳が、ゆっくりと瞬いた。
「……。」
澪奈は、小さく唇を噛み、手を離す。
「……いえ」
「……そっか」
紅哉は、小さく笑った。
「ま、いつでも話くらいは聞くぜ?」
「……ぁあ。あと俺を視えたって時点で、あんた普通じゃないってことは……自覚しとけよ?」
(……普通じゃ、ない)
「まぁ、そんな重く考える必要はねぇけど」
「んじゃ、またな?
……あ、そうだ。"火の玉注意な"」
紅哉がニヤッと笑って指を鳴らす。
ぱちんっ
澪奈の目の前に、小さな狐火が一つ、ぽっと灯る。 薄紅色の光の粒がふわっと宙を舞い、澪奈の頬をかすめて――
「きゃっ……」
思わず一瞬、目を閉じた。
……そして、すぐに目を開けたときには――
そこにはもう、誰の姿もなかった。
残されたのは、ほのかに漂う焚き火のような香りと、微かに揺らぐ草の葉だけ。
(……今の)
澪奈は、そっと胸元に手を添えた。 さっきまで確かにそこにいたのに、まるで幻のように消えてしまった。
――狐火のように。
その場に取り残された澪奈は、そっと胸元に手を当てる。
(……私、何か……おかしい、の?)
そう思った瞬間――頭の奥で、音が響いた気がした。
パキッ。
「……。」
心の奥が、軋む。
(……違う。)
(私は……私よ。何も、変わってなんか……)
言い聞かせるように、澪奈は目を閉じる。
だが――その感覚は、消えなかった。




