③
【3】
「たけちゃん。ママね、冬に、……年が明けたら赤ちゃんが生まれるのよ。たけちゃんの弟か妹」
風のように現れて去って行った不思議な友人との別離から、すでに三か月が経っていた。季節はもう、夏。
少しずつ彼女の記憶が薄れていく中、夕食の席で突然母からもたらされた知らせだった。
「ママ、ホント!? やったぁ! ぼく、きょうだいがほしかったんだ」
喜ぶ健に、母は安心したように笑みを浮かべた。
「みゆきの生まれ変わりかもしれないなぁ」
父がぽそりと口にした名。……みゆき。
「パパ! みゆきはみゆきでこの子はこの子。違う人間よ」
「あ! ごめん、ママ。……そうだよな、『みゆきの代わり』じゃ赤ちゃんにも失礼だよな」
母が、まだ何の変化も窺えない腹部を大事そうに撫でながら咎めるのに、焦った風に謝る父。
「パパ、ママ、『みゆき』ってだれ?」
「あ、ああ! 健、あっちで話そう、な?」
健の問いに、父は息子の存在を忘れていたかのように慌てて椅子から腰を浮かせた。
「大丈夫よ、パパ。……そうね、たけちゃんにも話してもいい頃ね。もう小学生なんだし」
「ママ、悪い。つい嬉しくて口滑った。……本当に平気なの?」
「ええ」
身振りで座るよう促された父は、不安げに母を気遣う。
何が何だかわからないなりに、健はその場の緊張を肌で感じて身を強張らせた。
それを見て取った母が、宥めるように優しい声で話し始める。
「幸は健のお姉ちゃんよ。双子でね。生まれてすぐに、病気で死んじゃったの」
母に聞かされたのは、健が予想もしなかった事実。
「……ぼく、ふたごだったの?」
「そう。今まで黙っててごめんね」
伏し目がちに謝る母に、返す言葉も思いつかない。
「ママは幸を健康に産んでやれなかったってずっと苦しい思いしてたんだ。そんなのママのせいじゃないのにな。もちろん、健が気にすることなんて何にもないぞ。お医者さんだって誰も悪くないって言ってくれたからな」
横から諭すような父の台詞に、健は神妙な表情で頷いた。
「また、ベビードレス作らなくちゃね。……たけちゃんの退院用のも取ってあるのよ。ふたりお揃いで作ったの」
母が中空を見つめて何かを懐かしむように話すのを、健は黙って聞いていた。
そのベビードレスには心当たりがある。
いつだったか両親に「赤ちゃんの時の写真」として見せられた中に写っていた、お人形のようなレースやフリルの装飾の真っ白な──。
白い、服。
……みゆきはあれと同じドレスを着て旅立ったのだろうか。
──ひさしぶりに会えたね。だってずっと、すぐそばにいたじゃない。
幸。母の子宮の中で、長い時間を隣り合わせで過ごした姉。
──となりどうしじゃなくていっしょがいい。背中おして。
別々の膜に包まれて、直接触れ合うことはできなかったからこそ「接触」を求めたのか。
それが彼女のささやかな希望だった……?
「……みゆき。知らないなんて言ってごめん。思い出せなくてほんとにごめん」
自分の部屋のベッドの上。
健は膝を抱えて座り、懺悔のように何度も繰り返した。
今にしてようやく思い至る、鏡の中の健とどこか似通ったその顔。
──ぜったいに、会えるから。
彼女の魂は新たな身体を得て母の胎内で成長し、健の弟妹としてこの世に戻って来るのだろう。
転生。再生? ……何であっても構わない。
幸の『記憶』はすべて失くして、まったく別の人生を一から、……ゼロから歩むために。
【Epilogue】
「たけちゃん! 図書館行くならのんちゃんも連れて行ってあげてよ」
休日、課題のための資料を探しに図書館へ行くと告げた健に母が持ち掛けて来た。
「いいよ。望、すぐ行ける?」
「いける! あ、まって。かばんとってくる〜」
「すぐじゃないじゃんか」
七歳下の妹は、この春小学校に入学した。
早生まれのため同級生と比べて身体も小さく、友人と遊んでいても運動能力に差が出てしまうと言う。
その影響があるのかは不明だか、引っ込み思案なところがあった。
とはいえ学校でも仲間外れにされているわけではないようだ。
むしろ望の方が、足手纏いになる自分に遠慮して引いてしまうのではないか。
母も休日は大抵家にいる彼女を心配して、健に頼ってくることもよくあった。
健は去年から中学生だ。近所では「妹思いのいいお兄ちゃん」と評判らしい、と母が嬉しそうに話していた。
それは単なる結果でしかない。健にとって望は、頭で考えるより前に自然と大切にしたい存在だから。
「おにいちゃんおまたせ。いこう!」
「自転車でいい?」
「うん」
血を分けた妹。健の片割れの魂を引き継いだ彼女。
薄れかけた記憶の中の、《《姉》》の面影を残す顔立ち、同じような長い髪。服は純白ではないけれど。
約束通りにまた、会えたのだ。彼女に。みゆきの魂を持つ妹に。
「受精卵が子宮内膜に到達して、着床するまで約七日です」
保健体育の時間に教えられた、人間の妊娠の仕組み。
教室の中は照れや冷やかしの混じった含み笑いも微かに漏れてはいたが、健の意識は「七日」の一点に集約されていた。
七日。
みゆきが現れて消えるまでの期間だ。
あれはみゆきが望に、……新たな魂を持つ人間になると決まって、実際になってしまうまでの時間だったのだろうか?
日に日に大きくなる母のお腹に触れて、耳を当てて。
己のもとにやって来る弟か妹を待ち望んでいた。
正直なところ、「みゆきに会える」よりもただ生まれ来る存在が楽しみだった。兄になる自分が。
しかし、産院で生まれたばかりの妹を「のぞみちゃんよ」と見せられた瞬間、健の頭を過ぎったのは「みゆき」だったのだ。
彼女にも健自身にも、まるで似ていないくしゃくしゃの顔の赤ん坊なのに。
あれ以来ずっと、健は「姉」のことは誰にも話してはいない。
もしこの先口にすることがあるとしたら、その相手は望でしかありえないだろう。しかしそれさえも、今の健には現実味が薄かった。
「ふたりのひみつ」があってもいい。たったひとつだけの。
──みゆき。望が君じゃないのはもちろんわかってる。だけど、……あの頃の君と重なるのは許して欲しい。僕は望を愛して守るよ。君とは互いにできなかった分まで。
~END〜