①
【Prologue】
「ねえ、ぜったいひみつだからね! だれにも言わないで!」
初めて逢った日。
何も考えられずに走り去る自分の背中に掛けられた声が、今も耳の奥に残っている気がするのは気のせいか。
……すべてを反芻しすぎて、己の一部になってしまったからなのだろうか。
彼女の存在の記憶が。
【1】
「たける」
四月も終わり掛けたある日、小学校から帰る途中だった。
他に人通りもない通学路を歩いていた健を待ち構えていたかのように、声を掛けて来た少女。
真っ白なひらひらしたワンピース、腰まである長い黒髪、細い手足。
身長は健と変わらない。おそらくは年頃も。
「ひさしぶりね、たける。ねぇ、わたしのことおぼえてる?」
「わかんない。だれ?」
健は何も考えずにあっさり訊き返した。
少女の「久しぶり」という言葉は、初対面の相手に向けられるものではあり得ない。
つまり相手が自分を知っている、しかも「会ったことがある」らしいことに、疑問を抱くこともなく。
「みゆき。……わすれちゃったの? ずっと二人でいたじゃない、すぐそばで」
名乗った彼女の少し寂しそうな様子にも、健はなんとも返しようがなかった。
顔には少しだけ見覚えがあるような気はする。しかし、名も含めてやはり知らない相手だ。
健の「人間関係」は、まだそこまで広くはない。
幼稚園時代も、今通っている小学校にも、こんな子はいない。……やはり覚えがなかった。
「ぼく、女と二人になんかならないし!」
彼女が一歩踏み出すのを合図のように、健は身を翻して駆け出す。その場からとにかく離れるために。
知らないもの、……恐怖を誘うなにかから逃れるために。
特に驚きは滲まない声で彼女が発したあの言葉、──「ひみつね!」を受け止めた背中で、不相応に大きいランドセルがカタカタと音を立てていたのも覚えている。
「ただいま! ママ」
インターホンに答えてドアを開けてくれた母の顔を見て、健はようやく安心した。
母に打ち明けなかったのは《《口止め》》されたからではない。その時の健の頭にもう「あの言葉」はなかったのだ。
「おかえり、たけちゃん。おやつ食べる? 今日はクッキー焼いたのよ」
母の優しい声に大きく頷いてみせる。
「食べる! チョコもある?」
「ええ。……学校はもう慣れた?」
「うん、楽しいよ! お友達もできたし!」
健は今年、小学校に入学した。ピカピカの一年生。
「たける、思い出した?」
翌日の下校中、健はまたみゆきに呼び止められた。
今日も同じ、……かどうか健には判別できないが、やはり白一色のワンピースだ。子どもの日常着には相応しくない、気がする。
もちろん、そんな「難解な」表現ではなかったものの、遊んだらすぐに汚れそうだな、というのは真っ先に浮かんだ。
「だから知らない。おぼえてないんじゃなくて知らないんだよ」
他に応えようもない健のぶっきらぼうな返事に、みゆきは特に表情を変えることもない。
そして「誰にも言わなかったか」を確かめることもしなかった。
「遊ぼうよ、たける」
いきなり話を変えた彼女に誘われて、健は帰り道にある児童公園に足を踏み入れる。
両親にも学校の教師にも、日頃からしつこく「知らない人に着いて行ってはいけません」と言い聞かされている。「知らない人に話し掛けられたら逃げなさい」とも。
しかし、みゆきは同年代の子どもだ。「知らない『人』」には当たらないだろう、と健は迷いもしなかった。
「たける、ブランコ! わたしのるから背中おしてよ」
一気にブランコに駆け寄ったみゆきが、両手で左右の鎖を持ち座面に腰掛けて催促する。
「え~。じゃあ交代な」
「わかってる!」
健が何度か背を押したことで反動をつけて宙に高く舞い上がり、長い髪を靡かせたみゆきが涼やかな声を立てて笑った。
健は決して学校でも孤立しているわけではなかった。
通い始めた小学校には、幼稚園から一緒のメンバーも含めて親しい友人もきちんといる。
日々繰り返される「みんな仲良くしましょうね」という教師の言葉通り、クラスメイトとは楽しい日々を送っていた。
休み時間のたびに席を立っては集まって好きなアニメの話に興じ、昼休みは給食を競うように平らげてグラウンドへ飛び出す。
幼稚園でも聞かされていたように、多くの友人に囲まれた明るく刺激的な毎日。
勉強も、心配していたほど大変ではない。
クラスには授業中じっと座っていること自体が苦痛だという友人もいたようだが、健は幼稚園でも座学の時間はあったので特に困りはしなかった。
ただ、入学後しばらくの集団下校期間が終わると、学校を一斉に出たとしても曲がり角を経るごとに仲間は少しずつ減って行く。
それが寂しいわけではないが、帰宅後に遊ぼうにもクラスメイトには習い事をしているものも多く時間の都合がつかなかった。
学区はたいして広くないにも拘らず、少子化の影響もあってか健の家のすぐ近くに同学年の子どもはいない。
ご時勢なのか、自宅に他所の子どもを呼ぶのを嫌がる家庭も珍しくなかった。
そのため、健は校外で遊ぶとしたら近所の上級生や未就学児になってしまうのだ。
その場合、遊ぶというより「遊んでもらう」「遊んであげる」形になりがちだった。
そこへ現れた、みゆき。
彼女は自分のことを話さないので、実際に同じ一年生かは不明だ。しかし、健は同級生と何ら変わらず気軽にみゆきと遊ぶことができた。
グループならともかく、女子と二人きりで遊んだことも、遊びたいと思ったこともまったくなかったのに。
初めて顔を合わせた際、「女とふたりになんか」と自ら口にしたことさえ意識にも上らない。
驚くほど自然に打ち解けて夢中で彼女と遊んでいる自分にも、健は気づいていなかった。
「あ、たける」
学校帰り、ちょうど健が一人になったタイミングで待ち構えていたみゆきにも、もう驚くことはなかった。
おそらくは、と予想していた通りに姿を見せた彼女にむしろ安心さえする。
「わたしのこと思い出した?」
「ううん、知らないって」
同じ会話。
健の返事に頷きはするものの、みゆきが何事もなかったかのように話題を変えるのも、白い服もまた、同じ。
「ね、たける。こうえん行こう」
「いいよ」
これも同じく、昨日遊んだ公園に連れ立って向かう。
「たける、ブランコのろうよ」
このこぢんまりとした児童公園には、遊具と呼べるものは二連のブランコと滑り台に四角い砂場位のものだった。
砂場遊びは子どもっぽ過ぎる気がするし、道具もない。滑り台も、幼稚園児やそれ以下の幼児専用というイメージが強かった。
それに比べればブランコは、たまに大人が休憩がてらか腰掛けているのを目にすることもあり、もう小学生の自分でも大丈夫、と思えたのだ。
「いいけど。二つあるから、きょうはどっちが高くこげるかきょうそうしようよ!」
健の提案に、彼女はふと視線を落とした。
「……やだ。となりどうしじゃいっしょに遊んでないもん。きのうみたいにいっしょがいい。じゅんばんに背中おすの」
「えー? そうかなぁ、きょうそうだって、──まぁいいや」
静かな声だがはっきりと主張するみゆきに結局は折れて、健は先にブランコに座った彼女の背後に回った。
◇ ◇ ◇
「たけちゃん、最近ちょっとゆっくりね。お友達と遊んでるの?」
帰宅した健を迎えた母に訊かれ、咄嗟にどう答えていいか迷ってしまった。
「……うん。公園、でね、ブランコとかぁ」
嘘は吐きたくない。
両親にも学校でも「嘘だけはだめだ」と教えられているし、健自身が友人に嘘を吐かれて嫌な思いをした経験もある。
しかしみゆきのことはなぜか話す気にはなれなかった。「女子と二人きり」などと口にするのも知られるのも気恥ずかしい。
もし相手を問われたらどうしよう、と内心動揺した健に、母はそれ以上何を言うでもなかった。
「ブランコ? いいわね、楽しそう。たけちゃん、小学校でお友達いっぱいできたんでしょ? よかったわ」
詮索ではなく、ただ健の友人関係を気にしていただけなのだろう。
母の笑顔に、とりあえず胸を撫で下ろす。
「うん。ママ、ぼくごはんのまえにしゅくだいするから」
「あら、えらいわ。ママがなにも言わなくても自分でちゃんとできるのね」
感心しながらリビングルームへ戻って行く母を見送り、健は玄関を上がってすぐの自室に入った。