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その48 「聖徳太子」

2021年10月30日の活動報告より。

今回のお題:『聖徳太子』


 何と3年前、画伯を始めた当初のお題です。恐らく福沢諭吉、貨幣の流れで。

 『画伯』を投稿することになり、見返していて気づきました。びっくりした。

 ……お題提供してくださった方、申し訳ありません。m(_ _)m


 さて、私が知っている『聖徳太子』は、子供が二人両脇に立っている絵なんですけど……あれ、聖徳太子でよかったかな?

 日本史って本人じゃないものがずっと本人と認定されているケースがありますからね。足利尊氏、源頼朝あたりが有名かな。


 まぁそれはいいとして……うーん、どんな顔だっけ。

 何か絵巻物に出てくるような、細い目で薄い顔になっていたような気がするんですよねー。

 笏を持っていたと思うけど、あれってもう少しあとの時代だっけな? どうだろう?

 冠を被っていたと思うけど……うー、『日出処の天子』のイメージが強くてみずらが頭から離れない。でもあの絵では違っていたはず。


 そうだ、この絵における聖徳太子の服装は当時の飛鳥時代の服装とは違っていたはずなんですよ。

 もうちょっとあと……白鳳か、奈良時代初期だったかな。

 その辺も鑑みて……うーん、こんな感じか? φ( ̄□ ̄;)


 挿絵(By みてみん)


 ヤバッ! Σ( ̄□ ̄;ノ)ノ

 何でしょう、悪巧みしている大臣みたいな顔になっちゃったぞ。

 ちなみに、しばらく眉を描くのを忘れていて

「何か不気味だー、なぜだー」

と唸っていたのですが、眉をつけ足しても不気味な感じは払拭できなかった。無念。


 とりあえず、調べてみましょうか……。

 はぁ、何だか憂鬱だなあ。( ̄д ̄;)


「しまった、あごひげ忘れた!」Σ( ̄□ ̄;)


 あ、そーゆーレベルのミスじゃない? 確かに。( ̄▽ ̄;)ゞ

 でも、そういう記号って大事ですからね。あごひげがあればもう少し寄せられたんじゃ……。


 あと、冠の後ろのひらひら(纓[えい]と言います)、私は垂纓(すいえい・下に垂れ下がっている状態)で描いてしまったんですけど、実際は巻纓(けんえい・巻いている状態)でしたね。

 確か「天皇は立纓、文官が垂纓、武官が巻纓」と記憶していて、それで垂纓にしたんですけど、よく考えればこれも平安時代の話で奈良時代には当てはまらないのかも。

 なお、聖徳太子は『冠位十二階』を制定しているので、飛鳥時代では既に冠を被っていることだけは確実なんですけどね。

 

 で、笏は持っていますが手は出てないですねー。うー、そっか。

 そして服装。平安時代寄りになってしまったけど、奈良時代のものとはつくりが違うんですよね。

 一応、奈良時代も「ほう」と呼ばれるものを着ているのですが、形が違うし前で腰ひも結んじゃってるし……。うーん。


 まぁ、でも、そういう細々はどうでもいいか。やはり、顔……。

 本物はたいそう美しく理知的に描かれているというのに、どうしてこうなった? ( ̄д ̄;)


 さて、私が記憶していた「二人の子供を連れている図」は、正式には『唐本御影とうほんみえい』といって、「聖徳太子を描いた最古のもの」と伝えられている肖像画だそうです。


●唐本御影

・中央が聖徳太子、向かって左が殖栗皇子(聖徳太子の同母弟)、向かって右が山背大兄王(聖徳太子の子)、と言われている。

・制作時期は8世紀ごろと考えられているが、中国で製作されたという説もある。

・陰影法で描かれており、日本の肖像画では奈良時代には陰影は失われている。中国も同じ。

・文献で初めてこの作品が出てきたのは12世紀半ば。

・13世紀半ばにこの作品について色々な説があると述べられており、

 ・唐人の前に応現した聖徳太子を唐人が2枚描き止め、1枚を日本に残し1枚を持ち帰った

 ・百済の阿佐太子の前に応現した姿を描いたもの

 という2つの説を挙げている。(wikiより)


 製作は8世紀。聖徳太子が生きていたのは大化の改新……じゃなかった、今は乙巳の変か(ややこしいな)、それが起こった645年より前ですから、600年前後のはず。

 ですので、確実に対面したことのない人が描いています。

 しかし「源頼朝」等と違って、描いた人が「これは聖徳太子様だ」という思いで書いたのは確かなんでしょうね。

 なお、服装はやはり8世紀頃、奈良時代のものだそうです。ですので最近の教科書などでは『伝・聖徳太子』となっているみたいです。


 そして『聖徳太子』は後世の尊称ですので、本名は『厩戸皇子うまやどのみこ』『厩戸王うまやどのおう』……とされていますが、実はこれも確かなものではないそうです。

 712年成立の古事記では『上宮之厩戸豊聡耳命かみつみやのうまやとのとよとみみのみこ』、720年成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命うまやとのとよとみみのみこのみこ』となっていて、『厩戸皇子』『厩戸王』という表記はないそう。


 んー、確か「天皇の子」が「皇子」で、天皇の孫が「王」だったはずなので、用明天皇の子である聖徳太子が「王」と呼ばれることにはちょーっと違和感を感じるのだけど。( ̄~ ̄;)

 でも歴史学界では『厩戸王』が通称になっているそうなんで、学者さんの前でこんなこと言ったら多分、すごーく長い説明を食らう羽目になるに違いない。

 (-_-;) それはイヤ。


 なお、『聖徳太子』の呼称は平安時代に成立した書物に記載されているので、この時代にはもうそう呼ばれていたんですね。

 だから本名より、もう『聖徳太子』という人、と考えた方がいいのかもしれません。

 ですので日本史の教科書などは、一時期すべて『厩戸王』になっていたようですが、その後「聖徳太子」の名前も復活しているそう。

 今は……どうなってんだろう?


 なお、推古天皇の摂政として有名な聖徳太子ですが、立場は「皇太子ひつぎのみこ」、すなわち次の天皇になることが約束されていた人でした。

 推古天皇より先に亡くなったので天皇にはなっていないんですね。当時は譲位という概念がなかったので。(初の譲位は皇極→孝徳で645年)


 あとはー、聖徳太子の妃に「菟道貝蛸皇女うじのかいたこのひめみこ」という人がいて、初めて日本史の資料集でその名を見たときは

「なぜその名前……?」( ̄□ ̄;)

とかなりびっくりしました。


~頂いたコメント~

・すごい、内容が盛り沢山。聖徳太子(笑)おもしろかった。

 (※カセユキ返信:聖徳太子は謎が多く、今回は「名前」に絞って語ってみました。笑って頂けたのなら良かったです。男性キャラは問題作が多い……。)

・聖徳太子というより藤原不比等?

 (※カセユキ返信:藤原不比等の顔、ググってみたら似ていてびっくりしました。確かに不比等の方が似ている。なぜだ?)


 日本史、特に古代が好きなために何かゴチャゴチャと重かったせいか、この回は結構ドン引きされてしまったかもしれませんねー。

 私は系図がかなり好きなんですけど、この時代って「おじ姪婚」はおろか「異母兄弟婚」もありなので、相当入り組んでいるんですよ。その辺辿るのが何か好き。(*''▽'')ノ


 見て頂きありがとうございます! (^^)/

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加瀬優妃は現在
『田舎の民宿「加瀬優妃亭」へようこそ!』
というエッセイを連載しております。
「なろう世界」での日記みたいなものです。
こちらもよろしくです。
※なお、こちらは完結済です。
『お暇つぶしに「パズル&クイズ」をどうぞ。』
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