1,飛べない男は川に落ちる
空には箒や絨毯、召喚獣などで飛び交う多くの人々。地上を徒歩で歩くのはまだ魔法を使えない子どもくらいだ。
そんな中、度会朝光は空を眩しそうに見つめながら、自らの足を地につけ地上を歩く。何か意図があるわけではない。ただ単に彼は飛べないのだ。
朝光が学校に向かって足を動かしていると、朝光と同じ制服を着た男子生徒が三人箒に跨り近づいてくる。
「おやおや、渡会君。どうしたんですか地面に足なんてつけて。もしかして、箒の調子でも悪いんですか?」
「バーカ、こいつが箒もとべねーの知ってんだろ」
「そういやー、そーだったな! 忘れていたぜ、落ちこぼれの渡会君!」
ギャハハと三人同時に笑い出す。その笑い方は酷く下品で人の神経を逆なでするが、朝光は今更彼らに取り合う気もなかった。いつものことなのだ、いい加減なれもする。
「おいおい、無視すんなよな!」
「魔法器官だけじゃなく、耳まで悪くなったのかぁ?」
視線すら向けず、先を急ぐ朝光に彼らは箒でふわふわと浮遊をしながらなおも付いてくる。ついでとばかりに嫌みも添えて。
「そういえばこいつの妹、また高魔大会で優勝したらしいな」
両耳にピアスを三つずつ開けた男が、ふと思い出したとばかりに話題を口にした。
高魔大会とは全国高等学校魔法大会の略で、規定に則った方法で魔力の量、質。魔法の技術、発動するまでの速さなどを競う大会である。要はインターハイのようなものだ。
「マジかよ、ほんと兄貴とは似ても似つかねーな! 妹の爪の赤でも煎じて飲めば少しは魔法も使えるようになるんじゃーのか?」
同じようなことは小学校の頃から嫌というほど言われ続けてきた。耳にタコだ。気にするほどのことではなかった。それに彼が妹と似ていないのは事実でもある。顔はそこそこ似てはいるのだがそれは今は関係ない。
朝光を馬鹿にする彼らが言っているのは魔力と魔法の技術力のことだ。
朝光の妹は、果てのない膨大な魔力と、百年に一人ともいわれる魔法の才能を持っており同級生どころか、先輩、教師、果ては魔法の専門家にも一目置かれている。
一方、双子の兄である朝光は、魔力が少なく魔法が使えない。とはいっても全く使えないわけではなく、簡単な小学生程度の魔法を一日のうち一、二回使える程度だ。その一、二回もよく失敗するのだけど。
母親はそんな朝光を心配し、何かの病気じゃないかと様々な病院を当たってみた色々な治療や薬を試したがさほど効果は見られず、どの医者もすぐに匙を投げた。
それでも母親は諦めずにあれこと、時には怪しい宗教団体に引っ掛かりそうになりながらも魔力を上げる方法を探してくれた。だが、当人の朝光は中学に上がるころにはすっかり諦めていた。魔法が使えずとも、まあそこそこ不便ではあるが死ぬことはない。今のように、馬鹿にされることもあるが、騒がしいだけで手を出してくることはないので無視を決め込めばいいだけだ。だが一つだけ気がかりはあった。
先述した妹のことだ。優秀な妹と出来損ないの兄というと、世間様には仲が悪いと思われがちだが実際のところは二人の仲は大変に良い。妹は兄に懐き、朝光とて無邪気に慕ってくる妹を可愛らしく思っているし、類まれなる才能もまた素晴らしいと思っており誇りでもある。
では何が気がかりなのかというと、彼女が朝光のことで度々悩んでいる様だということだった。彼女は朝光とは違いとても繊細でひどく脆い。
朝光と妹は双子の兄弟だ。なので、母のお腹の中で自分が兄の魔力まで奪ったのではなんて考えているらしい。実際のところ、そんな事例も根拠も全くないのでただの杞憂だとは思っているのだけど、妹は本気で悩んでいる。
真面目なとこも可愛いが、朝光は何一つ気にしていないのだから妹にも気に病まないでほしいものだ。
「おい、出来損ないの癖に無視すんな!」
朝光が妹のことをつらつらと考えている間にも、三人組は何かしら朝光に話しかけていた(バカにしていた)ようで、無視されたと思ったピアスの男が怒りながら朝光の目の前に立ちふさがり道を塞ぐ。別に何を言われても構いはしないが、進路妨害するのはやめてほしかった。ただ単純に邪魔だ。
退いてくれないかな、という気持ちを込めてピアスの男に視線を向ける。
「お、なんだやんのか!?」
ようやく視線のかち合ったことが嬉しいのか、嬉々としながらずいっと距離を詰めてくる。正直鬱陶しいので横道にはいって回り道でもしようかと視線を横に向けたところ、朝光の視界にあるものを捉えた。
マンションのベランダから身を乗り出して外を見る子どもの姿。子どもの年齢的には、魔法はまだ使えない年頃。近くには大人はいない。子どものいるベランダは十階くらいだろか、高さ的に落ちたら間違いなく死んでしまう高さだ。
ここから声をかけても聞こえはしないだろう。かといって今からマンションの中に入り、親に知らせるというのは時間がかかりすぎる。第一オートロックだった場合確実に詰む。
悩んでいる間に、子どもは手にしていたぬいぐるみを手放し落としてしまった。それを拾おうと、子どもはさらに乗り出す。危ないと思った瞬間にはもう遅く、子どもは勢い余ってベランダの柵から滑り落ちた。周りの人々は誰一人と気が付いていない。朝光はとっさに駆け出した。
「あ、オイ!」
ピアスの男がなにやら叫んでいるが構っている暇などない。手に持っていたカバンを投げ捨てがむしゃらに走る。歩行者はほとんどおらず、視界も良好。予測落下地点の目指しひた走る。落下地点がそれほど高くない。これでは普通の人は間に合わないだろう。しかし、朝光は間に合わせられる自信が確かにあった。
後数メートルというところで両腕を伸ばし、滑り込む。アスファルトの地面を滑るのには少々向いていないが今はそれどころではない。
さきにとさりというぬいぐるみが落ちる軽い音が聞こえた。次に降ってきた子どもが勢いよく、朝光の腕の中にすっぽりと飛び込んだ。
「間に合ったー……」
子どもは何が起きたのかいまいちわかっていないようで、じっと朝光の顔を見つめている。
子どもがどこも怪我をしていないことを確認すると、朝光はホッと息をつく。
「光ちゃん? どこ行ったの光ちゃーん!?」
先ほどまで子どもがいたベランダで母親らしき女性が叫んでいる。間違いなくこの子の名前だろう。
「……マ、ママ―! うわーん!!」
ようやく事態を把握したのか、それとも母親と離れて淋しいだけなのかは判別つかないが子どもが大声で泣き出した。
「だ、大丈夫だから! な! ママすぐ来るから!」
ベランダにいる母親に身振り手振りで子どもが無事なことを伝えると、慌てながら母親はベランダから姿を消した。すぐにここまで駆けつけることだろう。それまで泣きじゃくる子どもをあやすために、朝光は奮闘する羽目になった。
◆
子どもはすぐに駆け付けた母親に抱かれると、すぐに泣き止んだ。
ぜひお礼をさせてくれと言われたが朝光は「学校があるので」と丁重に断る。とは言ったものの、もう既に学校に行く気はなくなっていた。今から走れば、まだギリギリ間に合うがそんな気は起きない。先ほどまで朝光を馬鹿にしていた三人組の姿も既にない。
高校に入って今まで一度も休んだことのない朝光だったが、今日くらいはサボってやれと進路を変え学校とは別の方向へと向かって歩き出す。
「いてて……」
両腕がずきずきと痛む。いくら三歳くらいの子どもと言えど、十階から落ちた時の負荷は結構なものだ。素手で受け止めた朝光の腕が痛むのは当然のことだろう。むしろ、肩が脱臼しなかっただけでも儲けものだ。
こんな時に魔法が難なく使えたら簡単に助けることが出来たのかもしれないが、どんな形であれ助けられたのだから問題はない。
この程度の痛みなら一晩寝ればすぐに治るだろう。
朝光は子どものころから体だけは頑丈だった。風邪なんてひいたこともない。雪の降りしきる中、五時間ぶっ続けで遊んだ時もピンピンしていた。一緒に遊んだ妹は風邪をこじらせ肺炎になってしまい、一か月ほど入院してしまったのだけど。
あの時は、妹は朝光ほど体が丈夫じゃないのだからと後で母親に散々怒られたものだ。
朝光は昔から、体の丈夫さだけでなく魔法以外の能力は同年齢の子たちに頭一つ比べて抜き出ていた。視力も聴力も人並み以上。かけっこをすればいつも一番。逆上がりも保育園の頃は既になんなくできたし、自転車は四歳の頃に補助輪無しで乗れるようになった。
勉強は人並みだが、記憶力は良かった。コミュニケーション能力も高く、しっかりものでいつも皆の輪の中心に居た。しかし、それは九歳までの話だ。十歳になり、小学校で魔法を習い始めてからは皆に置いて行かれる方になってしまった。いつも朝光のやるとこを見よう見まねで真似していた妹にも初めて追い抜かれた。
最初こそ落ち込みもしたが、驚異的能力を得る代わりに魔力が雀の涙程度しかないのだと思うことにしてからは随分と気が楽になった。
まあ、なにが言いたいのかというと朝光はそれなりに今の状況に満足しているし、妹を恨むことなど一生無いということだった。
「ど、どうしよー。誰か呼んでこなきゃ!」
どこからかひどく焦った声が聞こえ来た。何があったのかと朝光が視線を向けると、ランドセルを背負った子どもが二人橋の上から川を覗き込んでいた。
「そんなこと言っても、誰もいない……。あー!」
そのうち緑色のランドセルを背負った方の子どもが、人を探すように辺りを見回すと後方から歩いてきた朝光を見つけ、大きな声を張り上げた。
いったい何なのかと朝光が身構えていると、緑色のランドセルの子が息を切らせ焦った様子で駆け寄ってきた。
「お兄さん! 大人なんだから魔法使えるよね!」
「え? いや、俺は……」
突然のことに意味もわからず首を傾げていると、子どもは有無も言わせぬ勢いで朝光の手を強引に引く。その手は振りほどこうと思えば簡単に振りほどけるが、切羽詰まった様子の子ども相手にそんなことをする気は起きず引かれるままに身を任せた。
「マドカ! 大人の人連れてきた!」
「ユーキよくやった!」
今まで一人橋の下をジッと見ていたマドカと呼ばれたこどもが、緑色のランドセルの子ども――ユーキに連れられた朝光を見てっパと顔をほころばせると二人に駆け寄ってきた。そして、
「お兄さん! 猫ちゃん助けて!」
真剣な表情で、朝光に助けを求めた。
「え?」
訳が分からず、首を傾げる朝光。口で説明するより見せた方が早いとばかりに、二人は橋の下を見るように言った。
「何かいるのか?」
子どもたちに言われるがままに橋の下を覗き込んだ朝光が見たのは、橋を支える脚の張り出した部分に子猫が座り込んでいる様子だった。いったい何があってそんな場所にいるのかさっぱり想像がつかないが、長い時間そこにいるのか子猫は力なくミーミーと鳴くばかりだ。確かに、魔法もまだ習っていない子どもだけではあの子猫を助けるのは無理だろう。だから、丁度歩いてきた朝光に助けを求めたのだ。
朝光の年齢ぐらいにもなれば、あのくらいの小さな子猫を浮かせ安全な場所に移すことなど簡単だろう。しかし、朝光にはそれは物凄く困難なことだった。
運よく子猫を浮かすことが出来たとしても、ここまで運ぶのはおそらく無理だ。動かしている途中に魔力が切れ、川に落としてしまうことが安易に想像できる。
橋から川までには随分な高さがあり、落ちたら即死まではいかないまでも重症化するだろう。その上今は真冬である。川に放り出されてしまえばこの子の体力では持たない。
だがしかし、ここで無理だと言って無碍に断ることはしたくはなかった。ほとんどの大人たちが空中を飛び交う道で、別の大人を探し出し声をかけるというのは難しい。そうこうしているうちに子猫が川に落ちてしまう可能性もあった。
「ずっとそこにいるみたいなんだよ! このままじゃ死んじゃう……」
「ねえ! 猫ちゃん助けて!」
無垢な二対の瞳に見つめられ、いよいよ断りにくくなる。断ることによってこの二人が顔を曇らせる様など見たくはない。第一このまま去って行った後、子猫が死んでしまったなんてこの橋を通るたびに罪悪感に苛まれることだろう。ならば、少々無茶でも引き受けてしまった方がいいかもしれない。
それに朝光は魔法で助けることは無理でも、驚異の身体能力をもってすれば子猫を助けることは可能かもしれないと思ったのだ。
「わかった、やってみるよ」
「ほんと!?」
「お兄さんありがとう!」
朝光が了承すると、子どもたちの強張っていた表情がパッと明るくなった。
「悪いけど、これ持っててくれるか?」
肩にかけていたカバンをユーキに預け、朝光は欄干に足をかけた。
「え、っちょっと! 魔法は!?」
それに焦った声を漏らしたのはマドカの方だった。ユーキも同じような焦った表情をしている。
「悪いけど俺、魔法使えないんだ」
「え、大人なのに?」
「なんで?」
子どもの無垢な質問というのは時には残酷だ。だが朝光はその問いににかりと笑顔で答えた。
「でもその代わり、兄ちゃんは運動神経めっちゃいいから! 子猫すぐに助けるから安心して待ってろ」
それでも不安そうに見上げてくる子どもの頭をわしゃわしゃと撫でてから、朝光は橋の脚へと飛び移った。
「「うわーー!」」
子どもたちの悲鳴を背に朝光はひらりと着地する。五十センチもないその場所には今は子猫がおり、さらにスペースは狭い。それでも、平衡感覚の発達している朝光には難しいことではない。ひょいと足元の子猫を拾い上げると腕に抱く。暴れるのではないかという不安もあったがそんなことはなく、先ほどまで不安そうにミーミー鳴いていた子猫は安心したのか途端に大人しくなった。
ここまではなんてことなくうまく行ったが、問題はここからだ。何せ片手に子猫を抱いたまま橋の上に戻らなければならないのだから。
ちらりと下を見ると、かなりの高さがあり背筋が寒くなる。それでもやるしかないと、朝光は子どもたちの待つ橋の上を目指して跳躍する。
イメージ通り寸分狂わぬ高さまで飛ぶと、欄干へと手を伸ばし片手で掴む。欄干に片手でぶら下がった。そしてもう片方の手で子猫を鷲掴むと欄干の間から捻じ込む。
「猫ちゃん!」
「良かったー」
ようやく橋の上まで戻ってくることのできた子猫をユーキが抱き上げ、大事そうにその胸に抱いた。
「ありがとうお兄さん!」
「お兄さんも気を付けて戻ってきて!」
「おう!」
軽く返事をすると、自分も橋の上に戻るために空いた左手を欄干に延ばす。しかしその時バチリと、朝光の手に電気が走る。
「痛っ!」
予期せぬ静電気の痛みに思わず、掴んでいた右手放してしまった。
「あ……」
しまったと思ったときにはもう遅く、朝光の体は宙に投げ出されていた。いくら驚異的な身体能力を誇る朝光でも、空中に投げ出されれば無力だ。こんな時魔法さえ使えればと彼は心底思った。
「「お兄さん!!」」
子どもたちの声がどこか遠くに聞こえる。
落ちる朝光は泣く妹の姿を見た。それは今よりずっと幼く保育園の時の妹で、すぐにこれが走馬灯なのだと思い当たる。
目が溶けそうな程に泣きじゃくる妹に手を伸ばすも当然触れることはない。空ぶった手をぎゅっと握りしめると、朝光はそっと目を瞑る。体が川に叩きつけられる直前に、謎の光に包まれたことなど知らぬままに。