人生一からやり直し
どこからか、大きな赤子の泣き声が聞こえる。周りからは沢山の祝福と拍手が。
きっと分娩室で赤ちゃんが生まれたのだろう。おめでたいではないか。子供は国の宝だからな。
そう一人の男は思うと、そっと心の中でささやかな拍手を贈る。
五十年近く生きた男にも子供が二人いた。五歳離れた男兄弟。長男は社会人で、次男も成人し手元を旅立った。親バカながら、立派に育てたつもりの自慢の息子たちである。
そんな愛する長男に先日、紹介したい女性がいると言われた。男親としてこれ以上ない至福の人生を歩んでいたと思う。いや、実際そうだったのだろう。
ギギーッ……!
アスファルトを擦るブレーキ音。視界を奪うヘッドライト。男は薄れ行く意識の中、遠くに消えていくエンジン音を聞いていた。
「おぎゃあああ!」
元気な赤子の声だ。母親は安堵したことだろう。周りを囲む声も喜びに溢れている。命が生まれる瞬間と言うものは、いつ経験しても尊いものだ。
「奥様、おめでとうございます! 元気な男の子ですよ!」
「ありがとう、セレン。……ああ、可愛い私のおちびさん、我が家に生まれてきてくれてありがとう」
メイド服を着た高齢の女性の腕から、汗に濡れた柔かな腕の中に赤子が移される。女性の瞳は水気を帯び、口元が我慢するように横に結ばれていた。
美しい女性だった。まだ生まれたばかりの赤子にははっきりと見えていないが、自身の子供をいとおしそうに抱くその姿はまるで一枚の絵のようだ。
男の意識は浮遊感に揺れていた。いや、正確に言うと横にゆっくりと揺られているというか。しかし視界は依然としてぼやけたままだ。
男は遠い記憶を呼び起こす。ずっと昔に感じたことのあるこの浮遊感。気持ち悪い浮遊感ではない。落ち着くような、あやされているような浮遊感。
その瞬間、男の頭の上に感嘆符が浮かんだ。
「おぎゃあああ!(母親が子供をあやすときにやるやるやつじゃねーか!)」
「あらあら、我がシュタイン家の長男坊は元気ね」
「ふふ、将来はきっと大物になられますわ。この領地を素晴らしい方向へと導いてくれましょう」
「違いないわね」
男の心は嵐が吹き荒れる。いつの間にか赤子になっていたことにも驚きだが、それよりも問題なのが、発言が全て赤ちゃん言葉に変換されてしまうことだ。五十年近く生きてきてきて、初めて受ける屈辱である。
だが男の視界は不良を貫くばかり。自分を抱いている女性の外見すら分からない。だんだんと男の精神は不安に苛まれた。どうやら心も外見に引っ張られてしまうようだ。
不安な赤子が取る行動は一つ。
「おぎゃあああ!」
赤子になった男は疲れて眠るまで泣き続けた。