青女房2
鴉の所には本物の客しかこない。本当に怨みを晴らしたいと思っている人間しかやってこない。それも当たり前の話だが、自分がまず痛みを受けなければ復讐は始まらないのだ。中途半端な気持ちの客はまず逃げ出すし、面白半分の客は浅田がシャットアウトする。嘘や詭弁でかためられた理由などすぐに吹き飛んでしまうほど、鴉の施術は苦痛を伴うのだ。心の底からの執念で挑まなければ、とうてい成功しない。だが、その痛みに耐えられれば必ず心は晴れる。鴉の仕事に失敗はない。失敗するのは依頼人の心が弱いせいである。
浅田は自称鴉のマネージャーである。
心に闇を抱えた人間を探りあて、助言してやるのが彼の仕事だった。
人間はたいていうらみつらみを抱えている。
本物の憎悪から逆恨みの悪意まで。からっぽの頭で街を練り歩く若者から、今夜の献立を考える主婦、テストの結果で母親にゲームソフトを買ってもらえる予定の小学生までが心の中にすくなからず毒気がたまっているものだ。
鴉は未成年お断りだし、子供は金を持っていないから声はかけないが、最近は繁華街のゲームセンターでたむろする子供の方が客になりそうな悩みを抱えていた。
浅田は鴉の的にされた側だった。
遊んで捨てた女に怨まれて、鴉の刺青に憑き殺される所だった。
ホストクラブに勤めていた頃、浅田が言った軽い言葉に本気になった女は金に困って風俗に堕ちた。貢いでも貢いでも、浅田は女の物にはならない。最初から浅田の心に女の影すらなかったのだ。女は家庭があり、夫と子供があった。少しの好奇心で行ったホストクラブで浅田に惚れてしまい、金の続く限り通うようになる。自分の貯金も夫の定期預金も子供の積み立ても、やがて借りられる限りカードでキャッシングする。その金を返すあてもなく、それでも浅田の元へ通う。その瞬間だけは浅田も優しい言葉をかけてくれる。その為だけにせっせと通うのだ。
やがてそれが夫にばれて、離婚される。子供も取り上げられる。
後悔しても時は遅く、その女には山ほどの借金だけが残った。それを返済しながら、浅田の元へ通うには風俗しかなかった。
浅田が優しければそのままみじめな思いをしながらも街の片隅で生きていけたかもしれない。それだけ女は浅田に惚れていたからだ。
だが、浅田は女に飽きていた。うんざりだった。
「好きなの、ねえ、好きなのよ。あなたの為にここまで堕ちたのよ」
こういうセリフは聞き飽きていた。
こんな貧乏ったらしいみじめな風俗女、若ければそれもいいが、四十代後半のたいして綺麗でもない女、にまとわりつかれるのにうんざりしていた。
浅田の顔と言葉に酔いしれる女はいくらでもいる。
いくらでも金を稼げるキャバ嬢に、最近はやりの女社長、手持ちの女はいくらでもいるのだ。だからたいした罪悪感もなく浅田は女を捨てた。
だがその代償は大きかった。
鴉の背中の「青女房」が浅田の元へやってきたのは女が生命保険の受取人を浅田の名前から他の男の名前に変えてからだった。
今でも浅田は不満が残る。ホストなんぞに本気になる方が悪いのだ。少しくらい優しい言葉をかけたからといって、商売男を自分の物にしようとする執念が恐ろしい。
金を持ってこいと言った覚えも、何かを買って貢げと言った覚えもない。甘い夢を見る為に勝手に女が金を出すのだ。それなのに、復讐の的にされて死ぬ所だった。
青女房は来ない男の不実さを訴え、浅田を責め続けた。
気が狂いそうだった。いや、もう自分はおかしくなっているのだ、と思った。老婆のようなしわがれた声が背後から絶えず聞こえるのだ。女の怨念か、生き霊にでも取り憑かれたのか、いや、そんなものがいるはずがない。
しわがれた声は浅田が捨てた女の身の上話をし始めた。
どれだけ怨んでいるか、どれだけ悔しいか。
鴉に依頼して、浅田に復讐をした事まで老婆は話した。
(命をかけなさって……女の怨みは業が深い……お前は死んでもその後も苦しみ続けるやろうな……ひっひっひ……鴉のあにさんは容赦ない……ひっひっひ)
引きずるようにして起き上がり、鏡で背中を見た瞬間に浅田は手足が縮こまった。恐ろしい老婆の顔に涙が出た。背中の痛さで眠れはしないが、うとうととしても老婆の顔に追い回される夢を見た。
早く死にたいと思った。死んで楽になりたい。どうせくだらない人生だった。
知っているのは酒と博打と女だけだ。学もなく、身よりもない。
自殺を考えたが、体が金縛りになってうまくいかない。
(簡単には死なせんよ……ひっひっひ)
老婆が笑う。
だが、不思議と女に関して後悔はなかった。
あの女を愛してやれば命を助けてやると言われても断っただろう。
浅田が助かったのは、酷使した体で鴉の施術に耐えたはずの女が死んだからだった。 まだ浅田への復讐が完結していないのに、女は死んだ。
自ら命を絶った、と浅田は鴉から聞いた。
安いアパートの一室で腐ったように寝込んでいた浅田の元へ鴉が来たのは、背中が痛みだしてから二週間もたった頃だった。
「依頼人が死んだ。怨みは未完成や」
「え……た、助かったんか……俺」
息も絶え絶えだった。あと一日遅ければもう浅田も死んでいただろうと思う。
「依頼人に感謝するこっちゃ」
「な、なんで! 俺を殺そうとしたんやで!」
かすれた声で言い返す浅田に鴉は非情な視線を向けた。
「お前を生かす為に自ら命を絶ったんや。命の恩人やで。よっぽど、お前に惚れてたんやな」
「……」
「青女房、帰るで。無駄な時間やったな」
(はいな、あにさん。ひっひっひ)
すっと浅田の体が楽になった。嘘のように痛みが消えた。体中に広がっていた気持ちの悪い疣も綺麗に消えた。
食う物も食えずにいたので、体は消耗しきっていたが、痛みが消えた。
「お前は例外中の例外や。依頼人に怨みが消えたんやったら、俺の出る幕はない。お前は生きていけばええ。そやけど俺の事を口外したら今度は俺の怨みを買うと思え」
酷く冷たい声で鴉はそう言った。
出て行く鴉を浅田はただ見送るしかなかった。
背中の痛みも毒気も消えたはずなのにそれから浅田は熱が出て寝込んだ。
夢はやはり老婆に追いかけられる夢だったが、逃げ惑う浅田に女が手をさしのべてくる。
その手を必死で払いのけて逃げる。老婆は追いかけてくる、女は手をさしのべる。
うなされて起きる。体は疲労しきっているので、また眠たくなる。そして逃げ惑う。
熱がすっかり下がっても浅田は街へ出ていく元気もなかった。
連絡もせずにずっと休んでいるのでホストクラブもすでにクビになっているだろう。
起き上がれるようになっても、浅田は動く気力を失っていた。
一人でいるのが怖かった。はっと後ろを振り返ってみたりする。老婆もいないし、女も死んだはずだ。声ももう聞こえない。
それでも始終誰かが浅田を見ているような気がして怖かった。
浅田が鴉を訪ねたのは暑い夏が終わり、乾いた季節に変わろうとしていた頃だった。
鴉はそっけなく、浅田を相手にもしなかった。
浅田も憐れんでほしいわけではなかった。だが、自分一人ではこの恐怖から逃れられないのは感じていた。事情を知っているのは鴉しかいなかった。
浅田は毎日鴉の部屋へ通い、ただ黙って部屋の隅に蹲っていた。
どこから来るのか、時々依頼人が来ては鴉にうらみつらみを話す。
鴉は無口な男で無駄な話はしない。ただ事情を聞いて、引き受けるかどうかの判断を下す。断る時はそっけなかった。引き受ける時は須藤を引き合いにだして、失敗したらこうなると告げる。それでも依頼を果たしたい客は震えながらも頷くのだ。
依頼人が帰ると途端に部屋の中が賑やかになる。鴉の背中の歴々が自分の出番だと挙手をするからだ。浅田に憑いて殺そうとした「青女房」も相変わらずしわがれた声でしゃべっている。やがて鴉が選んだ図柄が依頼人の肌に施され、また新しい怨みが可動するのだ。仕事を終えた刺青はまた鴉の体に舞い戻る。
鬼子母神も憎い男の血を吸い尽くして戻ってきた。
そして鴉はまた深い業を背負うのだ。
そうやって生活していくうちに浅田の心は落ち着いていった。
恐怖よりも不可思議な世界に魅せられたのだ。
鴉の側で依頼人のつらい話を聞いているうちに、浅田にも一緒になって腹を立てたり、修まらない憎い気持ちが生まれてくる。世の中、なんと悪人の多いことか。
よし、それなら俺も悪人退治の方につこう。
俺はもう悪人にはなれない。鴉の恐怖から逃れるには、一味になってしまうしかないと思った。
「崇高な気持ちに水を差して悪いが、悪人退治とかそんな格好ええもんちゃうで。所詮は俺も悪人や」
浅田の提案を鴉は興味なさそうに返した。
だが浅田は鴉のマネージャーと名乗り、集客に乗り出す事にした。
夜の街は得意分野で、悪い奴もそうでない奴も知っているからだ。
少しはましな街になるかもしれない。
そんなふうに少し過去を思い返していた浅田に鴉が声をかけた。
「お前、インターネットで客を集めてるやろ。やめや」
「え、何でですか。評判ええんですよ。俺の作った鴉のサイト。裏サイトやからやばい依頼も多いけど、そういうのは無視してるし」
「何か違う」
鴉ははぁとため息をついた。
「お前、ほんま現代っ子やな。ついていけん。俺はネットとかやらは嫌いやねん。あんなアホの集まる場所に俺の名前出すな。ええな」
「でも、集客しないと……」
「俺の商売は絶対必要なもんちゃうねん。需要がないほうが世の中平和や。切羽詰まって、痛い思いしてまで怨みを晴らしたいと思う人間がおらんほうがええねん」
「え……」
「返事は」
「はい」
浅田はしゅんとなって下を向いた。
鴉の背後からくすくすと笑い声がする。
怒られた浅田を刺青達があざ笑っているのだ。
それから鴉の怒りが大きくならないうちに浅田は部屋を出た。
今日のスケジュールはもう決まっていた。
次の客が待っている。
空は高く、空気が澄んでいる。秋の気持ちのいい風が浅田の頬を撫でる。
浅田は肩で大きく息をしてから歩き出した。