青女房
「あの……今日、少し出かけても……ええですか?」
恐る恐る須藤が鴉に声をかけた。
いつ、いかなる時が声をかけてよいタイミングかが須藤には分からなかった。どんな理由で鴉の怒りが自分へ向くか分からないからだ。
須藤にとって鴉は悪意の固まりだった。
「ああ、ええで」
珍しく嫌味の一つも言わずに鴉が答えた。
「す、すんません」
鴉は机に大きなスケッチブックを広げて、絵を描いていた。
須藤はそれをちらっと見た。
それは美しい聖母マリアの図柄だった。
端正な鴉の横顔がとても機嫌がよさそうだったので、須藤はほっと胸をなで下ろす。 そのまま仕事場を出て行こうとした須藤に、
「お前もご苦労なこっちゃなぁ」
と言った。
「え」
須藤の動きが止まる。
「いつまでもここにおらんでもええんやで。ここを出て新しい生活を始めたらどうや」
「いや……わし……は」
須藤はうつむいた。
鴉は意地の悪い人間だったが、須藤にはここを追い出された後に行く場所がなかった。一時の憎しみで鴉の力を借りてしまった。愚かにも復讐という行為に走った須藤には帰る場所などなかった。呪いに失敗して死ねればよかったが、ただこうやって生きながらえている。醜い姿をさらしながら。
ここで鴉の世話をして暮らす以外に須藤には生きる場所がなかった。
須藤がうつむいて黙ってしまったので、鴉はちっと舌打ちをした。
「まあ、ええ。行け」
鴉は財布から札束を抜き出すと、須藤に向かって何枚か投げてよこした。
「何か買うたりぃな」
「……すんません」
須藤は頭を下げて、散らばった一万円札を拾い集めた。それからまた鴉を見たが、彼はすでにスケッチブックに向かっていた。
須藤はそっと鴉の仕事場を出た。
玄関を出るとせかせかと男がこちらに歩いてくるのが見えた。
須藤はドアの横に立って男が部屋の前まで来るのを待った。
「お、須藤ちゃん、お出かけ? 珍しいな」
「あ、浅田さん、どうも」
浅田は須藤にピースサインをして見せた。
昼間から陽気な男だ。茶髪に日焼けした肌をし、耳にはピアスをいくつもあけている。 洒落た服装に尖った靴、浅田は繁華街でチラシを配っている若いホストのような男だ。
「いてる?」
「ええ、今、絵を描いてました」
「あっそ」
ドアを開けて入って行く浅田に須藤が続いたので、
「あ、出かけるんやろ? 勝手に話して帰るから、かまわんで」
と浅田が手で須藤を止めた。
「はあ、すんません」
浅田がそう言うので、須藤はそのまままた外へでた。
秋の気配が濃くなってきた季節である。
風が少し冷たく、空が高い。
須藤はゆっくりと歩き出した。
失敗した呪いは須藤の体中を蝕んだ。
まず、足が曲がってしまい、まっすぐに歩けなくなった。そして両手両足がむくんだように腫れ上がって、指が上手に動かせない。物をつかむという行為が難しかった。
骨が縮んで、背が小さくなった。顔中に疣が出来て、自分でも鏡を見るのがつらい。
喉は潰れてしわがれた声しか出せず、相手にはっきり聞こえないようだ。
死んだ方がよかったと今でも思っている。
こんな姿で一体どのように生きていけるだろう。
思いついたのは自殺だ。首を吊ってもいい。飛び降りてもいい。
だが、まだこうして生きながらえているのは、須藤が人間ではないからだ、と鴉は言う。
「呪術で人を呪ったお前がまともな方法で死ねるとでも思うてんのか? お前はもう人間ちゃうんや」
そう言った時の鴉の顔はなぜだかとても楽しそうだった。
獲物を追い詰める猫のような目をしていた。
須藤は様々な自殺を試みたが、全て失敗に終わった。
首を吊れば誰かに見つかる。飛び降りれば木に引っかってしまう。
包丁で首をかっ切ろうとすれば、刃が折れてしまう。
車の前に飛び出せば、相手がうまく急停止してしまう。
そして、助けられて、「ああ、なるほど」という目で見られる。こんな姿なら死にたくなるのも分かる、という同情の目だ。だが、死なせてはくれない。
死ぬことも叶わない今では鴉の部屋に住み着いて、世話をするくらいしか出来る事がない。そして時々こうやって外出させてもらうのだ。
バスに乗って一時間、行き先はいつも同じだ。
「どんぐりの家」
と書かれた看板がついている建物だ。庭園で子供達が遊んでいるのを須藤はしばらく眺めていた。だが、姿の悪い怪しげな自分がずっと子供を見ているのは具合が悪い。通報された時もあった。なるべく怪しく見えないように、須藤は出来るだけ胸を張って歩き出した。
鴉が顔を上げた。描く事に集中していたので、浅田が背後のソファに座っている事にしばらく気がつかなかった。
「何や来てたんか」
鴉はペンを置いて、あーあと背伸びをした。
「ずいぶんと熱心に描いてたから」
陽気な顔は引っ込めて、浅田は遠慮がちにそう言った。
「芸術の秋やからな」
珍しい鴉の冗談に浅田はぷっと笑った。
「仕事の話か?」
鴉は椅子から立ち上がり、両手を広げて指の屈伸をした。
「いや、近々仕事にはなりそうなんだけど……そう言えば女の客は来た? 怨みの方で」
「ああ」
「ずいぶん迷ってたから」
鴉は佐枝子の様子を思い出した。
背中に彫り物をした後はあきらめもついたのか、さっぱりとした顔で帰って行った。
「そろそろ決着がつくやろ。まあ、今回は成功するやろうな」
と鴉が言ったので、浅田は首をかしげた。
「なんでですか?」
「女の方が神経図太いからや。出した金以上のもんを回収するまではくたばらんのが女や。そんな根性あるんやったら、怨みなんか晴らさんでも生きていけるやろうにな」
鴉はけっけっけと笑った。
「今回は誰の仕事なんですか?」
と浅田が聞いた。
鴉はアロハシャツを脱いで、浅田に背中を見せた。
背中は一面の彫り物で埋め尽くされている。いや、背中だけではない。腹も胸も脇腹も腕も。肌が見えないくらいに様々な彫り物が施されている。
しかし、一カ所、腰の辺りがぽっかりと抜けている。その場所だけ普通の肌の色だった。
「鬼子母神や」
鴉が笑いながら言った。浅田はなるほどとうなずく。
「子殺しの罪はでかい。相手の男は鬼子母神の怒りを思い知るやろ。破片一つ見つからんような目に遭わされるかもな」
浅田は鴉の背中を眺めた。施された様々な彫り物達が邪気を放っている。
これだけの邪気を身に纏い、よく普通の人間的な生活が送れるものだと浅田は感心する。
鴉の体中に施された彫り物はただの刺青ではない。全てが毒気と邪気を孕んだ危険な呪術の文様である。
鴉は怨みを晴らしたいと金を支払う客に彫り物を施す。それは鴉自身が体に入れている図柄から用途によって選ばれる。
子殺しには鬼子母神を。
鬼子母神は佐枝子の心の傷を汲むだろう。
子供を殺した憎い相手にもっとも効果的な復讐をもたらすだろう。
だが鬼子母神が佐枝子の肌に馴染み、復讐を遂げる時間がかかる。その間、佐枝子の背中は鬼子母神の毒気で燃えるような痛みを受けているはずだ。
「依頼人はこれで満足するやろ。復讐したからって幸せになれるかどうかは謎やけどな」
と鴉は事も無げに言った。
浅田が腰をあげようとした時、
(あにさん、戻りましたでぇ)と女の声がした。
浅田がきょろきょろと辺りを見渡す。
「ご苦労さん」
と鴉が言った。
「首尾は?」
ほほほほと女の笑い声ときゃっきゃという赤ん坊の声がした。
(あっけないもんですわぁ。あっさりと心臓が止まって、ぽっくり逝きはった)
「つまらんな」
と鴉が言った。
浅田は目を擦った。いつの間にか鴉の肌に「鬼子母神」が戻ってきている。
久しぶりの遠出が嬉しかったのか、彼女は微笑んでいるように見えた。
(奥方に家を追い出され、仕事ものうなってな、最後には公園で寝泊まりしてはったわ)
「へえ」
(ほんまに、男はしょうもない)
「ずいぶんといじめたんちゃうか?」
(ほほほほほ。朝から晩まで、夢の中まで、愛しい男を追いかけるのが女の業やからなぁ。ずっとずっと、まとわりついて、しがみついて、怨みつらみを耳元で囁いてやった……坊やは日々大きくなるし、その重みで骨は軋み、歩く事もかなわん……体中に毒気が回って痛い痛いと泣き叫ぶ……しまいには公園の茂みの中で蹲るしかできひんようになって、糞尿垂れ流しや……気の毒なこっちゃ……)
「ほんま女は怖い生き物やで」
(あにさん、いけずな事を言う。女子供を粗末に扱うからや。坊や、面白かったなぁ)
また鬼子母神がほほほほと笑った。そして赤ん坊が奇声を上げた。
「ご苦労はん、ゆっくり休んでや」
と鴉が言い、鬼子母神は満足そうな顔をした。
「不思議なもんやなぁ」
と浅田が感心したように言った。
鴉はちらっと浅田を見て笑った。