鬼子母神5
病院へ来た榎本の妻はハンカチで口を押さえたまま、眉をひそめた。
看護師によって清潔な病院の衣料に着替えてはいたが、職場での失態は耳に入っている 自分を見下ろす妻の不快な表情に榎本は気がつかない振りをした。
「あ、麻子」
と妻の名前を呼ぶ。今度は声が出た。普通に話せる。
「どうしてこんな事になってしまったのか……医者はなんと? どこか悪いところがあるんだろうか」
妻はすぐ横にある椅子に座りもせずに、
「お医者様は検査では特に悪い箇所はなかったとおっしゃったわ」
「そ、そうか、じゃすぐに退院できるな」
「すぐに退院はできますけど、帰る場所があるとは思わないでくださいね」
「え?」
麻子はバッグから緑色の薄い紙を取り出して、
「離婚していただきます」
と言った。
「え?」
「背中のそれは何ですの? おぞましい」
と麻子は吐き捨てるように言った。
背中の刺青が見つかったのだ、榎本は一気に身体が冷たくなった。
「あなた会社でどうなったのかご自分で理解してらっしゃるの? 薬物でもやってるのかと社長に言われんですのよ、こんな恥ずかしい思いをしたのは生まれて初めてだわ。意味不明な言葉を叫んで、糞尿を垂れ流して暴れて。離婚していただきますから。あなたも人の親なら子供達の事を考えて、子供たちと会おうなんて思わないでくださいね。これから先は弁護士を通してくださいな。慰謝料、養育費、財産分与、きっちりしていただきますから」
「ま、待ってくれ、違うんだ。聞いてくれ。分からないんだ。俺にも何がなんだか……どうしてこんな事になったのか。突然、背中にこんな物が浮かび上がったというか、出来て、それに凄く痛くて、内臓を掴まれてるように痛くて……ちゃんと検査をしてもらって……」
「それはどうぞご自由になさればいいわ。もう私には関係ない事ですから」
と言った妻の蔑むような目に榎本は愕然とした。
「浮気の一つくらい子供達の為に我慢しなさいとお父様が言うから知らぬ顔をしていたけれど、もううんざり。あなたのお好きな若い女性達に看病していただいたらいいわ。今のあなたについてくる女性がいるとは思えませんけど」
麻子はそこで言葉を切った。
「会社の方も困ってらしたわ、あなたの扱い。復帰するのはご自由ですけど、今まで通りとはいかないんじゃなくて」
それから大きな大きなため息を一つついてから病室を出て行った。
「麻子……」
そんな、馬鹿な。
妻の雇った敏腕弁護士に家、財産、子供達、全てを奪い取られ榎本は病院もすぐに追い出されるように退院した。
調べても病気というほどの病気は見つからない。そして病院にいる間、榎本は意識もはっきりし、言葉もはっきり話せた。便や尿のコントロールも出来る。身体の調子は良い。
麻子の弁護士から渡されたわずかな金を握って榎本は病院を出たが、行く場所もなかった。
自分の実家はもう長い事帰ってない。榎本は田舎で貧乏な実家を嫌っていたし、そんな自分を家族も敬遠している。麻子と結婚した時、二度と連絡するなと言ったのは榎本自身だった。田舎の野暮ったい親族が恥ずかしかったからだ。
その代わり財産は放棄して弟が家を継ぐようにした。
人がいいだけの両親。高卒の弟は愚鈍でその妻も田舎のおばちゃんだ。
それにくらべて麻子は都会のお嬢さんだった。親も金持ちで上流で洗練されていた。
そして自分もその一員になったつもりだった。
榎本はふらふらと街を歩いていた。
病院を出た足で自分の家に戻っていたが、入れず家の中はしんとしていた。
玄関でうずくまるように座って帰りを待っていたが、いつまでも妻も子供達も戻らず、そして警官がやってきた。
言い訳を言おうとする榎本に、
「はいはい、でもね、あなたもうここの家の人じゃないんですよ。皆さんねえ、引っ越しされて、この家は売りに出てるんです。だからね、待ってても無駄なんですよ」
警官は言い聞かせるように優しく榎本にそう囁いた。
それから妻の実家へも行ったが、麻子や子供達は顔も見えず、義父が出て来て汚らしい物でも見るような目で榎本を見た。
「迷惑だ、二度と顔を見せるな。恥さらしが」
そう言って水をかけられた。
榎本の災難は身体中の激痛でもなく、だんだん酷くなる顔や腕、足の麻痺感でもなく、そのはっきりとした頭の中だった。
自分の言いたいことは伝わらないが、相手の侮蔑感は伝わる。嘲笑、冷遇、そして自分が弱者になってしまったという事実さえ理解しているという事だ。
言葉を発するのがだんだん難しくなり、物をつかむのも出来ない。
片足は曲がり、巨大な赤ん坊が乗っかっている。
助けを求める事も出来ない。伝わらない。
誰か助けてくれ。
頭の中も麻痺してくれればいいのに。もう何も考えたくない。
それをあえて邪魔している者がいる。
「許さない、許さない」
と呟く者がいる。
「パパ、パパ」
と足下にすがりつく赤ん坊がいる。
とぼとぼと榎本が身体を引きずってたどり着いた先は佐枝子のアパートだった。
佐枝子ならきっと優しくしてくれて、力になってくれるはずだ。
優しい女だったから情に訴えれば助けてくれるはずだ。
「課長?」
佐枝子が会社から戻る時間まで榎本は辛抱強くゴミ置き場の中で待っていた。
ゴミ置き場の中は広く、積み上げてあるゴミの後ろに丸まっていた。住人は扉を開けてどさっとゴミを投げ捨てるだけなので、奥の方に丸まっているよれよれの榎本には気がつかなかった。扉がステンレスだが格子戸で、前を通る人間の顔まで判別できる。
そして会社から戻ってきた佐枝子の姿を見つけて榎本はゴミ置き場から飛び出した。
「佐枝子……」
夕暮れ時、佐枝子は久しぶりに榎本を見た。
驚くほど人相が変わっていた。痩せこけて髪の毛や無精ひげが伸び放題、着ているシャツもコートのもよれよれだった。背中は丸まり、足が酷く曲がっていた。何日も風呂に入っていないような臭い匂いがした。
「助けて……くれ。助けてくれ!」
丸まった背中でぞりぞりと近寄ってくる榎本に佐枝子は寒気がした。
「課長、私、あなたのそんな姿を見たらさぞかし溜飲が下がると思ってましたけど、ぜんぜんそんな事ないわ。あなたの事、凄く怨んで怨んで憎んでた私のそんな気持ち、全部あの鬼子母神様が持って行ってくれたみたい。もうあなたの事、何とも思ってないの。それにあなただけのせいじゃない。私もバカだった。離婚なさったんですってね。私はあなたの子供達から父親を奪ってしまった。それを反省して、二度と他人様に迷惑なんかかけないようにひっそりと生きていくつもりです。課長もそうなさって下さい」
佐枝子はそう言って榎本の横を通り過ぎた。
佐枝子の腕を引き戻そうと手を伸ばしたが届かず、女の笑い声と赤ん坊の声が榎本の耳の中でいっぱいになった。
その夜、佐枝子は一人で祝杯をあげた。アルコールには強くないので、小さな缶ビールを一本だけ飲んだ。手には産婦人科で貰った超音波の写真が数枚。これが佐枝子の赤ん坊だ。画像ではどくどくと動く小さい小さい心臓も確認できたのに。一生懸命生きようと動いていた小さい小さい赤ちゃん。三センチ程で精一杯生きていた赤ちゃん。
「ごめんね……」
あんな男でも佐枝子の犯した罪は罪だ。いずれ自分も地獄へおちる。逝ってしまった子供は天国にいるはずだ。佐枝子はもう二度と子供と会えないだろう。
「ごめんね……」
その夜、佐枝子はいつまでも泣いていた。