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  作者: 猫又
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鬼子母神4

「ねえ、榎本課長、なんだか変じゃない?」

 同僚の真美に耳打ちされて佐枝子は榎本を見た。

 課長席に座っているが朝から顔色がよくない事を佐枝子は気がついていた。

「そうね」

「いつもつまんないジョークで女子社員の気を引こうとするのに、今日は朝からちっともしゃべらないのよ」

「体の具合でも悪いんじゃないかしら」

 と佐枝子はそう言ってパソコンに向かった。

「それに足を引きずって歩いててさ、朝、部長に肩をたたかれたのに驚いて天井まで飛び上がったそうよ。変よね」

 榎本とはうらはらに佐枝子の体調はとてもよくなっていた。焼け付くような痛みも息苦しさももうない。何よりあれだけ憎くて憎くてしょうがなかった気持ちが少しばかり薄れてきていた。

「奥さんに浮気でも見つかったんじゃないの? 営業二課の由美子とつきあってるって噂よ」

「へえ。課長、若い子が好きなのね」

 今の言葉を聞いたのが昨日ならば怒り、憎しみ、悔しさがもっともっと膨れあがったかもしれない。だが、今日の佐枝子は機嫌がよかった。

 佐枝子はくすくすと笑った。

 榎本は襟がよれたワイシャツにしわの入った上着を着ていた。

 いつもならば髪の毛もきちんと手入れして髭もあたっているのに、今日はひげ剃り中に切ったような小さな傷があごに見える。何より目の下のくまがひどく、榎本は一気に十も年を取ったようだった。

「奥さんの方が資産家だから、浮気なんかやばいんじゃない?」

「奥さん、お金持ちなの?」

 佐枝子は真美を振り返って見た。真美は佐枝子より二つ年下であるが、高卒で入社しているので同僚になる。どこから情報を集めてくるのか分からないが、社内で彼女の知らない事はないと言われている。もしかしたら、佐枝子と榎本の事も知っていたかもしれない。

 だが、もう終わった事だ、と佐枝子は思った。

「そうらしいわ」

 ぷくぷくに太った真美は机の引き出しに菓子をいっぱい隠してある。仕事中にいつもそれをつまんでいる。真美は佐枝子に飴の袋を差し出しながらうなずいた。

 佐枝子は袋から一つ飴を取った。

「でも、由美子はもう別れたって言ってるわ。なんだかホテルで榎本課長におかしな事があったんだってさ」

「おかしな事?」

「そうよ」

 真美はばりばりと飴を噛み砕いた。

「オカルト的な何かがね、由美子もうまく説明できないって言ってたわ」

「ふうん」

「だから、佐枝ちゃん、あんな奴の事は忘れた方がいいわよ」

 佐枝子は真美を見た。そして、優しく笑った。

「もちろん、もうきちんと終わったわ。由美子さんよりも先に終わったわ」

「それならいいけど」

「心配してくれてたの? ありがと」

「まあね、佐枝ちゃん、真面目だから。課長みたいな口のうまい奴に言いくるめられてるんじゃないかと思ってさ」

「もう、大丈夫よ」

 佐枝子の背中は少しも痛くなかった。毎晩、毎晩、風呂へ入る度、着替える度、寝返りをうつ度、どれほどの痛みと恐ろしさと闘ってきただろう。

 鴉に施された刺青は着物の女が赤ん坊を抱いている図柄だった。

 図柄は「鬼子母神」だと鴉は言った。

 背中一面に彫られた鬼子母神が佐枝子の怨みを晴らしてくれると言う。

 佐枝子の執念が鬼子母神に届いた時、復讐が始まる。榎本を憎いと思う気持ち、鬼子母神の毒気に耐えるほどの気持ち。

 今日の朝、起きた瞬間から体中の痛みが消えていた。着替える時に恐る恐る鏡に背中を映してみたが、鬼子母神は消えていた。

 二週間も佐枝子の背中を痛めつけてきた恐ろしい鬼神は跡形もなく消えていた。

 佐枝子は鏡の前で大笑いをした。隣の部屋の女子大生が不審に思って様子を伺いにやってくるまで笑った。そして泣いた。

 鬼子母神は佐枝子の執念まですべて持ち去って消えた。

 あれだけ憎いと、毎晩毎晩、悔し涙に暮れていた自分がいない。

 机の上で憔悴しきっている榎本を見るだけで笑いがこみ上げそうになる。

「ちょっと、あれ!」

 と真美が言った。視線は榎本を見ているので佐枝子も榎本の方を見た。

「!」

 榎本の顔がみるみるうちにどす黒くなっていく。

 榎本は苦しげに胸を押さえ、机に伏せた。

 営業一課の中は昼休みで社員は数えるほどしかおらず、榎本の異変に気がついたのは佐枝子と真美だけだった。二人は顔を見合わせた。

「ちょっと、大丈夫なの? 課長」

 と真美が言った。

「見てくるわ」

 と佐枝子が立ち上がった。

「課長、大丈夫ですか?」

 苦しげな呼吸が聞こえてくるので、まだ生きているようだ。

「さ、佐枝子……お前……」

 と榎本が言って佐枝子を睨んだ。

「課長、会社では名前で呼ばない約束ですよ」

「一体、何を……したんだ」

「……苦しいでしょう? 痛いでしょう? でも我慢が足りないわ。私も同じ痛みを味わったんですよ。いいえ、もっともっと痛かったわ……」

 佐枝子は榎本の耳元でそう言った。

「さ、佐枝子……」

「私はもっと我慢したわ」

「な、何?」

 榎本はどす黒い顔でぎょろりとした目を佐枝子に向けた。

「我慢よ。あなたにずっと我慢させられてきた、そして決着をつけるために背中の痛みにも我慢した。私の人生、我慢ばっかり。でももうそれも終わりね」

「助けてくれ……」

「あなたが殺した私の子供はもっと痛い思いをしたわ」

 佐枝子の瞳は冷たかった。榎本は唇を噛んだが次に言うセリフを思いつかなかった。

 今も榎本の足にすがりついている赤ん坊は佐枝子の子供だったのか……とぼんやりと考えた。赤ん坊はずんずん重たくなる。そして重くなる度に大きくなる。赤ん坊はもう榎本の体半分くらいの大きさになっている。それは足を引きずって歩かなければならないほどに重く、足が折れそうに痛い。

 そして背中の痛みも酷くなる一方だった。

「お、俺は死ぬのか?」

「さあ、すぐに死ぬ事が出来ればいいですね」

 冷たく言ってから佐枝子は席に戻った。

「どうだったの? 課長」

 と聞く真美に、佐枝子は笑って答えた。

「背中が痛いんですって。年じゃない?」

 

「榎本課長!」

 という声で佐枝子と真美は振り返った。

 昼休みから戻った社員が驚いたような声で叫んだ。

 榎本は椅子から立ち上がり、佐枝子の方へ手を伸ばしながら歩いてこようとしていた。

 ギクシャクとした歩き方で非常に遅く、不格好だった。一歩一歩、歩く度に足へすがりついている赤ん坊がきゃっきゃっと笑い、そしてその重さで骨が軋む。

 そして何より異臭が部屋の中に広がった。

「課長……便を漏らしてるぜ」

 と小さい声で誰かが言った。

 異臭の元は榎本の尻に広がるシミ。気がついていないのか、小便も糞も漏らしたままで歩いている。

「いや! 臭い!」

 昼休みから次々と戻る社員達は顔をしかめて、しかし、誰もどうしていいのか分からない。学校ならば先生に言えばいいが、ここは会社で常務や社長に「課長が漏らしてます」とも言えない。ただ単に身体の具合が悪いのとは様子が違い、どす黒い顔色で目玉だけがぎょろっとなった榎本を気遣う者はいなかった。異様な雰囲気で糞をもらし、唇や手が震えている。

 榎本が佐枝子の方へ手を伸ばしているのは分かっている。

 助けて欲しいと言いたいのだろう。

 

「課長、具合が悪そうだから今日は帰られたらどうですか?」

 と佐枝子は言った。

「それがいいわ。それに病院へ行ったほうがいいんじゃない? 漏らしてるの気がついてないのかしらね。これからオシメとか必要なんじゃない?」

 と真美が同調した。


 榎本は異臭をまき散らし、体中の骨が軋み、そして内臓をかき回されているような痛みに襲われていた。

 何より足下の赤ん坊は見る間に巨大化して榎本の身長と同じくらいになっている。

 成長とは言っても子供になり大人になったのでなく、三頭身のままで倍率だけ大きくなっている。ぷよぷよとした肌、昼夜関係なく甲高く耳障りな鳴き声、よだれでべちゃべちゃの口元、手足。さらに鉄の塊を引きずって歩いているような重み。

 そして「パパ、パパ」と自分を呼ぶ声。

 だが榎本の頭ははっきりしていた。異様な風体だが、意識は以前のままだった。自分が糞を漏らし、みっともない姿になっているのも分かっている。何故、自分がこんな目に、と思っていた。佐枝子が自分を怨んで何かをしたのは分かったが、それでも何故、と思う。

 不倫は佐枝子も楽しんでいたはずだ。結婚も出来ないアラフォー女を楽しませてやった。 誰にも愛されない、真面目だけが取り柄の女のくせに。

既婚者と知って受け入れたんだろう。同罪じゃないか。

 何故自分だけ被害者面してやがる。子供が出来たって生ませられるわけがない。愛人になるくらいしか能のない女の子供なんぞ価値がない。

 俺はエリートだぞ。一流大学を出て、一流企業に入って、出世コースにも。

 安い遊び女一人のせいで……俺は…… 


「オシメとか」

 と言った真美の言葉もはっきり耳に入った。

 かあっと頭に血が上がり、思わず手が出た。

「おお、あまぁ、おおおお」

 どす黒く色の変わった手で佐枝子の方へつかみかかろうとしたが、ろれつも回らず素早く動けない。

 真美が「きゃああ」と大袈裟に叫んで、佐枝子の身体を横に押して一緒に逃げてくれた。

 その頃になると騒ぎを聞きつけた常務が警備員を呼び、榎本の身体を毛布でくるんで押さえつけた。

「救急車を呼びたまえ」

 あまりに不快な異臭に常務は榎本をにらみ付け、そして窓を全開に開けるように指示してから去って行った。



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