鬼子母神3
「あなた、どうしたの?」
妻の麻子に言われて榎本ははっと目を覚ました。
汗をびっしょりかいている。
「いや……」
「ずいぶんとうなされてたわよ」
「あ、ああ」
額の汗を手で拭って榎本は起き上がった。
「うわぁ!」
布団の上に赤ん坊がいる。指を吸いながらこちらを見ている。
「あなた、本当にどうしたの? 変よ」
麻子がタオルを榎本に渡しながら言った。
「いや、なんでもない。少し疲れてるんだ」
タクシーの運転手に見えなかったように、麻子にもこの巨大な赤ん坊は見えないようだった。赤ん坊は榎本の足にくっついて家まで来て、そして榎本から離れない。言葉は発しない、ただじっと榎本を見上げているのだ。
「汗でびっしょりよ。シャワーでも浴びてきたら?」
妻の言葉に榎本はうなずいた。冷たいシャワーでも浴びれば具合もようなるかもしれない。ベッドから起き上がり、よろよろと部屋を出る。
階段を下りて、風呂場へ行く。電気をつけて浴室のドアを開ける。
「うわ!」
赤ん坊が風呂の蓋の上にちょこんと座っている。
「な、なんなんだ……一体……」
ぎりぎりと背中が痛む。
シャワーの栓をひねってお湯を出す。
暖かい湯が手に触れると少しだけほっとした。
痛む体を我慢してパジャマと下着を脱ぎ、シャワーの下に立った。
背中がどうなっているのか、浴室の鏡の前で背中を映してみた。
「!」
榎本は愕然となった。
「な、なんだ、これ……」
背中一面に描かれた絵。本物の刺青を間近で見た経験がない榎本だが、背中の絵が刺青だとすぐに理解した。
赤い着物の女が立っている。女の顔は佐枝子にそっくりだった。
「こ、こんな……どうして……」
呆然と鏡を見ている榎本の横で赤ん坊がきゃっきゃと笑う。
榎本は赤ん坊を見た。
「あなた」
とドアの向こうから妻の声がした。
「あ、ああ」
「大丈夫?」
「だ、大丈夫だ」
気がつくと赤ん坊が移動している。
今度は榎本の足元にいた。
ずんと、重さを感じたと思うと、赤ん坊が榎本の足の上に座っている。
「あなた?」
妻が不審がっている。
背中の痛みでまともに思考が働かない榎本ではあったが、背中の刺青を妻に見つかってはならない、と考えた。佐枝子の名前などみつかってたまるか。
生真面目な義父の耳に入ったら、即離婚を言い渡されるだろう。この家も別荘も妻の父に建ててもらったし、妻の名義だ。
浮気ぐらいでは離婚にはならないだろうが、この刺青は非常にまずかった。
何故自分の背中に刺青が入っているか、よりも榎本にはそれを妻にみつかったらまずいという思いが先にあった。
「大丈夫だ、すぐに出るよ。先に寝ててくれ」
榎本は足下の不気味な赤ん坊よりも背中の刺青よりも、妻の機嫌を損ねるのが怖かった。
シャワーを浴びて、タオルで体を拭く。
榎本はきっちりとパジャマを着込んでまた寝室に上がっていった。
「あなた、大丈夫?」
声をかけてきた妻に榎本は笑顔で答えた。
「ああ、シャワーを浴びたら楽になったよ。さ、寝よう」
あ~あと大きなあくびをしてから榎本はベッドに潜り込んだ。妻も安心したのか、ベッドに横になり、枕元の明かりを消した。
妻が寝息を立て始めて榎本は少しほっとした。
実際は背中の痛みと息苦しさで気を失いそうだったからだ。
どすん! と体に重みを感じた。
「う……」
赤ん坊が榎本の体の上に飛び乗った。その衝撃で息が詰まった。
布団から少し顔を上げてみると、
目の前に赤ん坊の顔があった。いつの間にか榎本よりも大きな顔になっていた。
赤ん坊はにやりと笑った。
ぶよぶよとした柔らかそうな頬がぶるんと揺れてた。
一瞬で、暖まった身体が冷えた。
全身に鳥肌がたち、脳髄に冷たいものが刺さったような気がして身体が震えた。
「パパ」
と赤ん坊が言った。
榎本は急いで布団をかぶり、助けてくれ、助けてくれ、と心の中で呟いた。
「パパ、パーパ」
誰かに呼ばれて榎本は意識を取り戻した。
嫌な夢だったな、と目を開ける
「健吾……? 亜里砂か?」
子供達の名前を呼ぶ。
「パパ、パーパ」
「巧か?」
ずんっという衝撃が腹の上にある。榎本の腹の辺りが重くなった。
「こらこら、パパな今、体の具合が悪いんだ……どいてくれないか」
と少し顔を上げて、子供の方を見た。
「パパ」
と言ったのはやはり赤ん坊だった。
「お、重い……」
赤ん坊は酷く重かった。
「パパ、きゃっきゃ」
と赤ん坊が笑っている。
「助けてくれ……お前、何者なんだ……」
「パパ、あ・そ・ぼ」
赤ん坊は榎本の胸の上にいた。赤ん坊とは思えない重量だった。
赤ん坊はきゃっきゃと笑いながら、榎本の胸の上を飛び跳ねる。
ずん、ずんという重みが榎本の体にかかり、胸の骨が軋んだ。
「パパ」
「パ……パパじゃない! 俺は……お前のパパじゃない! どけ!」
榎本は力を振り絞って腹の上の赤ん坊の体を掴んだ。
ぐにゅっとした柔らかい感触だった。掴んだその手で思い切り横に払いのける。
無理か、とも思ったが、意外にも赤ん坊はころんと横の床に転げ落ちた。
「びえーん、びええーん」
と赤ん坊が泣く。
(酷いじゃないかえ。赤ん坊は国の宝だってぇのに……おお、よしよし、可哀想に……酷い親もいたもんだ)
すうっと誰かが榎本の頭元に立った。足は見えない。赤い着物のような裾が見える。
白い手が下りてきて泣いている赤ん坊を抱き上げた。
「俺は……親じゃない……そんな子供など知らない……助けてくれ……背中が痛いんだ……息が苦しい……誰か……助けてくれ……」
(罪の意識もないのかえ……救われないねえ)
と誰かが榎本の耳元で囁いた。
(この子はお前の罪さ。お前が傷つけた女が流した涙で出来てるのさぁ。心当たりがあるだろう?)
「し、知らない、知らない」
榎本は首を振った。汗と涙で顔はぐちゃぐちゃだった。
着物の女は赤ん坊を抱き上げて、(憎い男だねぇ……)と呟いた。