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  作者: 猫又
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鬼子母神

 その日の客は若い女だった。適齢期を過ぎたOLだろうと鴉は想像した。

 クリーム色のスーツに、ナチュラルなメイク、どこにでもいそうな娘だった。

 高価なブランドバックをしっかりとつかんでいる。

 須藤に勧められて女はおずおずとソファに腰をかけた。

 鴉の仕事場をきょろきょろと見渡す。

 二十畳ほどはある、広い作業場だった。

 女は窓際に置いてある、寝台と機械類を眺めた。

 そして鴉が部屋に入ってきた。

「どうも」

 と言う、鴉を女は見た。須藤を見た時よりも衝撃だった。

 鴉は想像範囲を超えた綺麗な男だったからだ。

 だが、女が頬を赤らめる事はなかった。端正な顔立ちは酷く冷たい顔だった。

 黒髪に切れ長の瞳。その視線が女を見た瞬間に女はぞくっとした。

 それは本能が訴えたものだった。この男は酷く危険だ、と何かが頭の中で囁いた。

 部屋の温度が下がったような寒気がした。

 一瞬、今すぐ走って逃げたいと思ったが、女は我慢した。

 鴉は名刺をだして客に渡した。

「ど、どうも。岸田と申します」

 岸田佐枝子は立ち上がって、おどおどと一礼をした。

 鴉はドスンと向かいのソファに座って、

「で、どんなんやりたいの?」

 と聞いた。

「あ、あの……」

 佐枝子は口ごもって鴉を見た。

 まだ若そうだ、と佐枝子は思った。三十五歳の自分よりは若いかもしれない。

 長身ですらりとした手足。しかし、半袖のTシャツから出た腕は余すところなく刺青が施されている。五本の指先も首も耳の後ろも。

 肌が見えるのは顔だけだった。

「あの、浅田さんに聞いてきたんですが」

 と佐枝子が言った。

 鴉は「ああ」、と言った。

「そっちの人か」

 鴉の仕事は紹介制である。浅田という自称鴉のマネージャーが次々と客を捜し出してくる。その人脈の広さに鴉も舌を巻く。そして何より復讐したい、怨みを晴らしたいと思う人間の多さに驚く。

「そっちは高いで。あんたいくつ?」

「三十五です」

 三十五……金をしこたま貯めてそうやな、と鴉は思った。

「男に振られたからとかそういう理由やったら、やめといた方がええで。金も時間も無駄や。次の彼氏見つけたがええ」

「……どうしても怨みをはらしたい理由があるんです」

 と佐枝子は言った。

 どうして鴉が止めるのか理解出来なかった。鴉にしたら客のはずで、金のはずだ。自分の覚悟を見極めているのかもしれない、と佐枝子は考えた。

 かたっと音がして、須藤が盆を手にして入ってきた。

 かちゃかちゃと震える手でテーブルに二人分のコーヒーを置いた。

 そこで鴉はいつも客に言うセリフを繰り返して言った。

 失敗のなれの果ての須藤を見て、佐枝子は怯えたような顔になった。

 さらし者の須藤は悲しそうな目で佐枝子を見て、

「わ、わしもやめた……方が、え、ええと、思います。あんたは……まだ若い……」

「消えろ。辛気くさい」

 須藤のセリフの途中で鴉が言った。

「す、すんません」

 盆を手に須藤はよろよろと出て行った。

「ま、あんなふうになる危険もあるっちゅうこっちゃ」

 と鴉は言った。

 同じやるならば、男の肌よりも、若い女の肌の方がやりがいもある。

 怨みを晴らしたい層は老若男女様々だが、数でいえば圧倒的に中年の男が多い。

 おっさんの汚い背中に彫りものをするのにも飽きた所だ。

 鴉は最後のセリフを言った。

「次の日、新聞見てみ。笑いが止まらんで」

 一瞬だけ見せた鴉の笑顔は効果覿面だった。



「さえちゃん、どうしたの? 具合が悪いの?」

 同僚に聞かれて、佐枝子は薄ら笑いをした。

「ちょっと背中が痛くて」

「大丈夫? どうしたの?」

「うん、平気。筋でも違えたかな。何だか痛くて」

 と佐枝子は気丈に笑ってみせた。

「病院に行ったほうがいいんじゃない?」

「うん。ありがとう」

 かつかつとハイヒールの音をさせて同僚が去って行ったので、佐枝子は息をついた。

 佐枝子はぼんやりと自分の席に座っていた。。

 背中に焼け付くような痛みがある。夕べからずっとだ。

 服を着るのもつらく、息をするのも、動くのもつらかった。

 今日は一日中ぼんやりと机の前で過ごした。

 鴉には痛み止めなどは効かないと言われているので、飲んでもいない。

 ただ、じっと嵐のような痛みを我慢するだけだ。  

 パソコンの前に座ってはいるが作業がはかどらない。かといって茶汲みや他の作業も出来そうにない。まだぽつぽつとパソコンのキーボードをたたいているほうがましだった。 課長は朝から不機嫌そうにそんな佐枝子を睨んでいる。

 仕事をするだけが取り柄の中年女が仕事が出来ないとなったら、どうしようもない。それは佐枝子も分かっていた。この会社に入って十五年、誰よりも真面目に過ごしてきたつもりだ。だが、仕事が出来る、というスキルはたいした事ではないという事実を最近知らされた。会社には、無駄話ばかりで、コピーの取り方も知らず、口のきき方も知らない、けれど若くて、すらっとした体つきを惜しげもなく見せつける、そんな女の子が必要なのだ。寿退社を夢に見ていた事もあったが、出会い系サイトにはまるほど馬鹿ではないし、結婚相談所に駆け込んで大枚をはたく事も抵抗がある。

 大体、もう佐枝子には結婚相談所に払う金など残っていなかった。

 鴉に支払った刺青代金が二百万円、それが佐枝子の全てだった。

 それで怨みをはらしてもらう。

 もしかしたら、あの須藤という男のように醜くなってしまうかもしれない。鴉に見せられた新聞記事のように深夜に苦しみながらひっそりと死んでいくかもしれない。

 それでも構わなかった。どうせ、死んでしまおうと思っていたところだ。

 あの男に復讐ができるなら本望だ。失敗しても、復讐という行為に後悔はない。

 鴉は我慢が必要だと言った。

 確固たる信念と我慢があれば確実にあの男に復讐できると言った。

 今の佐枝子は相手の男を憎いと思う気持ちだけで生きている。

 その思いだけが佐枝子を支えているのだ。

「岸田さん、これ十部ずつコピーして、昼から会議で使うから」

 と課長が佐枝子を呼んだ。

「はい」

 佐枝子は笑顔で立ち上がった。痛みに耐えながら、ぎこちない動作で課長の前に立った。

 課長は書類を佐枝子に渡し、

「怪我でもしたの?」

 と聞いた。

「ちょっと、日曜大工で」

 と言って佐枝子はお愛想笑いをした。

「結構、うっかりしてるんだね。それくらいしてくれる彼氏いないの?」

 と課長が言った。

「課長、それ、セクハラですよ」

 佐枝子はくすくすと笑った。

 今の佐枝子は憎いと思う気持ちだけで生きているのだ。

 復讐を遂げるまでは何があっても笑顔を絶やさない。

 ましてや憎い相手の前で絶対に弱ったりしない。 

 自分に都合のいい時だけ呼び出して佐枝子を抱き、そそくさと家庭に帰る男。

 家では愛妻家と評判の男。

 部下の面倒見もよく、上司の受けもいい男。

 子供が出来たと告げた途端に佐枝子をやっかい者扱いした男。

 その子供を殺した男は目の前にいる。

 その男は何事もなかったように、笑顔で佐枝子にコピーの原本を手渡す課長の榎本だ。

 佐枝子は手も震えず、表情もにこやかに榎本に背を向けた。

 その足でコピー室へ向かう。ずきんずきんと背中は痛む。

 何かの拍子に頭痛もする。だが、佐枝子は耐えた。


 自分を正当化するわけではない。自分はおろかな女だと分かっている。

 妻子がある人を好きになってしまうような馬鹿な女だ。そして将来があると期待していたわけでもない。

 妊娠した時、一人で子供を産んで育てようと決心した。

 シングルマザーもいい。自分だけの子供。父親などなくても愛情いっぱいに育てれば良い子に育つはずだ。

 決心してしまうと、暗かった自分の未来に子供が加わるだけでぱっと明るくなったような気がした。

 愛妻家で子煩悩だと評判の榎本には四人の子供がいる。一番下はまだ三ヶ月らしい。

 携帯電話の待ち受け画面も子供の画像だった。

 妊娠したと打ち明けた時、喜んでくれるとは思ってなかった。

 だが、まさか、階段から突き落とされるとは思っていなかった。

 迷惑はかけないときちんと話をしたつもりだったのに、榎本は恐怖におののいた顔で佐枝子を見た。これほど器の小さい男だと思ってみなかったと、悔やんだ所で遅い。 

 階段から転がり落ちた佐枝子は子供を失った。

 あんな男の子供など生まなくてよかったと思えばいいのか。

 だが子供が佐枝子のお腹に宿った瞬間から佐枝子は母親になっていた。

 検診の度に見られる超音波写真は小さい小さい蠢く生き物だったが、愛しい愛しい存在になっていた。

 子供と二人で幸せになりたかった。だが、もう失った。

 入院した佐枝子の元に榎本は見舞いにもこなかった。

 体の傷が癒えて、出社した佐枝子を榎本はほっとしたような顔で見た。

 佐枝子の出方を伺っている様子も見せた。

 榎本を一時でも愛しい男と思った自分すら怨んだ。

 この怨みはどうしても復讐しなければおさまらないと感じていた。

 自分が死ぬか、榎本が死ぬかだ。

 榎本を社会的に抹殺して、何もかも失わせてやりたい。

 仕事も家庭も全てだ。

 十五年、真面目に働いて貯めた佐枝子の貯金は浪費家の榎本の口座に移動して、出産資金ほどしか残っていなかった。

 出産資金が怨みをはらす資金に変わった。

 それも全て鴉へ支払ってきたが、惜しくなかった。

 佐枝子はコピー機に原本を挟んだ。枚数をセットしてスタートボタンを押す。

 そして光が走っていくのを眺めていた。

 背中の痛みが増してきた。

 ずきんずきんずきんと痛む。

 真っ赤に焼けた鉄を押しつけられているような感じだった。

 だが、女は痛みに耐えられる。

 出産の痛みはこんなものではないはずだ。

 女は命がけで子供を産み出すのだ。

 痛みに耐えられないのは、男だけだ。

 命の尊さを知らない男だけだ。

 榎本にどんな痛みが訪れるのだろう、どんな結末が待っているのだろう。

 憎い、憎い、榎本が憎かった。佐枝子の子供を殺した男が憎かった。

 鴉のマネージャーという男に出会わなかったら、佐枝子はあの男に灯油をかけて火をつけただろう。あの男の家も妻も子供も燃やしたかもしれない。

 鴉に失敗はない。マネージャーはそう言った。

 その言葉を信じて、鴉が復讐してくれるのだけを心待ちにして、我慢する。

 きっとあの男は地獄に堕ちる。

 そう考える事でやっと理性を保てる佐枝子だった。


 

 最初に現れたのは鱗のような物だった。


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