プロローグ
それは恐ろしい老婆の顔だった。
頭蓋骨にしわくちゃの皮膚を被せてあるようだ。歯のほとんどは抜け落ちて、黄色い前歯が一本だけちらちらと見える。顔色は悪く頬はこけ、大きな目玉がじっとこちらを見ている。目玉の下のたるんだ皮膚は隈で真っ黒である。
頭髪はほとんど抜け落ち、わずかに残った数十本の毛は白く、やけに長い。
そしてその顔中に小さい疣がぶつぶつと生えている。
老婆はしゃべりながらその疣をボリボリと掻く。疣はぶちゅっと潰れ、黄色い汁が飛び出してくる。潰れた疣の先からだらりと汁が垂れる。
その疣を掻いた指で老婆は浅田の背中を触る。茶色く、長く変形した爪で浅田の皮膚をひっかく。ガザガザした気持ちの悪い感触が背中を這う。
吐き気がするほどの嫌悪感が浅田を襲う。
老婆の指が触れた浅田の皮膚にも疣が生える。ぶつぶつとしていて、かすかな痒みがある。掻きたい衝動に駆られる。ぎりぎりまで我慢して、そして気が狂ったように掻きむしる。汁が飛び出して、また皮膚に疣が生える。
同時にそんな事など吹き飛んでしまうほどの強烈な痛みが全身に広がる。
腐った内臓を掻き回されている。きっと自分は腐っているのだ、と浅田は思った。
息をするのも痛い。声を出すのも痛い。大きな手が浅田の体をまるで雑巾を絞るようにぎゅっとつかんでいたぶる。
「いっそ……殺せ!」
(あかんなぁ、まだまだや。お前を怨む気持ちはまだこんなもんやない……ひっひ)
老婆は浅田の懇願を嘲笑う。一本しかない歯で浅田の背中に噛みつく時もある。
浅田は部屋中の鏡をたたき割った。少なくとも、それで老婆の顔が視界に入る事はない。(……弱い男やなぁ)
老婆が笑う。浅田の耳元で笑う。朝から晩まで、夢の中まで老婆が浅田を責め続ける。
もう何日こうしているのか分からない。薄くなった布団の上でのたうち回る。
泣いて、泣いて、許してくれと頼んでも老婆は容赦しない。
面白そうに浅田をいたぶる。
死んでしまおう、と包丁を手にする事も出来ない。阻止されるのだ。
体は完全に老婆に乗っ取られている。
浅田はじっと耐えるしかなかった。早く死ねますようにと願いながら。
日本の刺青の歴史は非常に古い。最古の記述は縄文時代である。部族、身分などの認証として、また通過儀礼の証として体に施されるものであった。
魔除け、護身の為に動物や呪文の言葉を入れる者もいた。
江戸時代に浮世絵師による色彩鮮やかな作品が街に見られるようになると、火消しなどの職人が好んで刺青を入れるようになり、ファッションとしての刺青が登場する。
今現在の刺青の基礎となる文化である。
やがて「金が続くが我慢が続くか」と言われるように、刺青は渡世人や博徒の度胸試しの為に彫られるようになる。どの時代でも暴力的人種は恐れられ嫌われるが、そういう人種が好んで入れる刺青は市井の者に一線を引いてしまう結果になる。
そのような歴史の中で刺青は姿も形も変える。
刺青は刑罰としての入れ墨に変化してしまい、幕府は風紀上の視点から取り締まりを敢行する。
だが自らの肌に美しく豪華な図柄を彫るという行為は、危険な物ほど人を魅了するという人間の本能に訴えかける。
最古の記述、縄文時代からすれば一万年も前から存在する刺青は、様々な制約を受けながらも決して絶滅することはなかった。
時の総理大臣である小泉純一郎の祖父、小泉又次郎も体に刺青を入れており、「いれずみ大臣」と呼ばれていた。政治家になるような、その為に民から選ばれる種の人間まで魅了してしまうのだから、刺青は素晴らしい文化であり、そこにはあがらえない何かが存在するのだろう。
そして現在ではアメリカンタトゥーの出現、アウトローな存在を好む風潮などから刺青は隠すものではなく、肌をさらけ出して見せる物だという若者が増殖中である。
だが、一度入れてしまったら二度とは消えないのが刺青である。現在では外科手術によりレーザー治療や皮膚切除などで刺青を消してしまう事も可能ではあるが、巨額の費用と醜い傷跡が残る。
相当の覚悟と思いが必要であるが、気軽に恋人の名前を入れたりする者もいるようである。タレントや女優が肩や腰に入れたのを真似てみたり、再びファッションとしての刺青が復活しつつある昨今である。
刺青の図柄として梵字やトライバル文様などを入れる若者は多いが、それは自己満足の世界に過ぎない。実際にその文字や文様が己を守ってくれるなどと信じている者はないだろう。それはただのファッションであり、美しく、格好よく、鮮やかに表現されればそれが一番すばらしい事である。
鳳凰、昇り龍、虎、大日如来、唐獅子牡丹、様々な見栄えのよい図柄。
自らの強さを誇示するかのような屈強なイメージ、または華美、美しく鮮やかな柄を身にまとい満足する。
それらは洋服を選ぶように、自分に一番相応しい柄を考える。
一生、肌に刻まれて二度と消えないのだから、美しく、格好よくありたい。
格好よくありたいのならば、タウンページで調べられるスタジオへ行けばよい。または洒落たホームページを開設している、アーティストを調べればいい。作品も多数展示されその場で見るようにできばえを確認する事ができる。
イメージを伝えれば、デザインもしてくれるし、自分のデザインを持ち込みも可能だ。
親切丁寧にアドヴァイスしてくれるし、いくつかの店を回って相談し、自分にあったスタジオを探すのも手だ。
それらのスタジオでの刺青は身体的ファッションであり、文様は象徴的な飾りである。
葛飾北斎の時代から受け継がれてきた刺青文化を継承する日本の伝統であり、由緒正しい「文身」である。
だが地下に潜り、闇の中で生きる「闇文身」も存在する。
呪術的流れを受け継ぎ、本来刺青が持つ意味とは違う効能を狙う。
日本で唯一の呪力を持つ彫り師「鴉」
彼の刺す針で彩られる、様々な文様、柄、文字にはすべて呪の力が込められる。
それも美しい柄ではない。汚らしく、おぞましい生き物、およそ普通の人ならば肌に残そうとは思わないような文様。呪言。物体。
彫り代は普通の刺青の十倍の額をとり、気に入らない客はぴしゃりと断る。
それでも、「鴉」の店は客が途切れる事がない。
呪力を持つ手に彫られる様々な模様は、酷い痛みを伴い、高熱の為に三日三晩苦しむと言われている。柄が大きければ大きいほど苦しみは長引き、痛み、己の浅はかさを噛みしめる。あまりの痛みに耐えきれず、鴉の店に駆け込む客がいる。
痛くて眠れないからどうにかしてくれ、と訴える。
だが鴉はあっさりと答える。
「恨みはらす為やったら死んでもええん違うんか? 一度針をいれたら後戻りは出来ん、そういう契約や。我慢し」
焼け付くような痛みは何日もおさまらず、気が狂ったようになる。
傷が綺麗になるまでは酒も飲むなと鴉は言う。
心を紛らわすのは、復讐したい一心だ。どれだけの屈辱に耐えてきたか、どれだけ怨んだ相手か、ただそれだけを考える。
ほんの少しでも後悔する心を持てば自分が崩壊してしまいそうになる。
これくらい痛み耐えて見せると何度も呟く。
どんな目に遭っても復讐をすると誓ったはずだ。
この痛みが相手に移るまで耐えてみせる。
しかし、いつまで、いつまで。
心臓がどくどくと鳴る。
それとともに痛みが増す。
一晩のうちに何度も気を失う。そして痛みで目が覚める。
何をやっているのだろう、と思い始める。
恨みが晴らしたい。だから鴉の店へ行ったのだ。
確実に恨みが晴らせると聞いて。それなのに、痛めつけられ、苦しんでいるのは自分ではないか。恨みを晴らしたい相手はぴんぴんしているではないか。
やがて気持ちは騙されたんじゃないだろうかという猜疑心に変わる。
三百万も払ったのに、騙されたんじゃないか。恨みを晴らしてくれるなんて嘘だったんじゃないか。ただ金だけ取られて、死にそうに痛い目に遭わされただけじゃないのか。
猜疑心はすぐに大きくなる。それにともない怨念も増加する。
怨んでいるのは頼んだ相手か、彫り師か、もう、分からなくなってくる。
ただ背中が痛い。そして騙された、という思い。悔しくて悔しくて。
やがて身動きが出来なくなる。
ベッドに横たわったまま、息をするのもつらい。
息が詰まる。
背中が痛い。
あの男が憎い。
激痛がした。
へそから手を突っ込まれて、内臓を掻き回されているようだ。
むき出しの神経の束をぎゅうっと捕まれているような気がする。
あまりの痛みに悲鳴を上げた。ぎりぎりと痛い。突き刺さるような痛みが広がる。
汗をかいているのは分かるが動けないので拭く事もできない。
そして傷に汗がしみる。
また痛みで唇を噛みしめる。口の中に血の味が広がった。
そして、また意識が遠くなる。
今度はもう少し気を失っていたい、と思う。
そして、意識が真っ黒になった。
「やっぱり、あかんかったか」
鴉が言った。
目を引いたのは会社員が夜中に心停止で死んだという小さな記事だった。
三百万も投入して、自分が死んでしまってはしょうがない。だが、そのリスクはきちんと説明したはずだ。考える時間も与えた。すべて承知で鴉の所へ来たのだから、鴉に落ち度はない。
自分の精神力の弱さをきちんと把握していなかった依頼者の負けだ。
怨みを晴らす相手もぴんぴんしているだろう。夜分に苦しみもがきながら死んだ男に、死を望むほどに怨まれているなどと思いもせずにこれからも生きていく。
「さぞかし悔しいやろうけど、まあ、しゃあないな。人を呪うって事はそんだけリスキーな事や」
そう呟いて、鴉は新聞をたたんだ。
「お、お客様です」
助手の須藤が足を引きずりながら、顔を出した。
鴉はちらっと須藤を見たが返事をしなかった。頬杖をついて、コーヒーカップを取り上げた。
「あの……」
「聞こえてる」
「す、すみません」
一瞬須藤は怯えたような顔をしたが、また怒られるのを恐れてそうそうに引っ込んだ。
ずるずると足を引きずる音が遠ざかって、やがて玄関から人の声がする。
須藤が客を作業場へ通したのだろう。
大抵の客は驚く。
須藤の化けもののような顔を見て酷く驚く。悲鳴を上げる客さえいる。
須藤は不細工な男だった。顔面が大きく平べったく、イボガエルのような顔をしている。
姿勢も悪く、足を引きずって歩く。
いつも鴉の機嫌を伺ってばかりの気の小さい男だった。
卑屈な気味の悪い男だが、鴉には必要だった。
須藤は呪いに失敗し、自らの身にすべてを被ってしまった失敗作品だったからだ。
「呪いに失敗するのは本人の意志が弱いからや。憎うて憎うてしゃあない、命かけて復讐したい、今はそう思うてるかもしれんけど、実際、相手を殺すほどの呪いはよほどの我慢がいる。人間、そうそう我慢強うないで。泣いて、もうやめる、いうんが関の山や。実際、ここにいる化けもんがその失敗のなれの果てや」
そう言って鴉は須藤を客に見せる。
客は驚いて須藤を凝視する。
「このおっさんはまだましやで。命まで落とさんかった。でも、失敗は死につながる。憎い相手はぴんぴんして、あんたが死ぬことになる」
大抵の客は迷うような表情を見せるが、鴉の次の言葉で決断する。
「そんかわり、成功したら面白いもんが見られるで。殺してしまいたい憎い相手の最後を高見の見物っちゅうやっちゃ。俺の刺した彫りもんがあんたに最高の夢を見せてくれるで。今までの地獄の日々にさよならする最高のショーや。そんで次の日、新聞見てみ。笑いが止まらんで」
鴉の笑顔に魅せられて、客はうなずく。大枚をはたいて、命を賭けた復讐劇が始まるのだった。