夜を渡る火蛍
この話に登場する怪人:志骸。
悪の組織、『村』の怪人。滋賀の妖怪の子孫。
12歳から歳をとらない種族。爆弾魔。
潜入工作専門。
超小型爆弾を汗腺から大量に放出し、起爆させて戦う。起爆した爆弾は、ピンポン球サイズの光球となり、あらゆる物を抉る。
後輩たちの面倒見が良いため、組織上層部の信頼は厚い。
※※※※※※
その日は夏真っ盛りで、アスファルトからめちゃめちゃに蒸気とかが昇っていて、僕と兄は気が遠くなりそうだった。
僕は裕二といって、兄は敬一という。
僕らは双子で、中学生で、迷える子羊みたいになっていた。
14歳の僕らの目には、東京の街は途方もないダンジョンに映った。
だって、僕らは全然ぱっとしない集落で育ったからだ。
鬼怒川温泉の北、福島の手前で西にいくと、僕らの故郷がある。
温泉すらない集落だけど、水は清らかで、蛍の頃は、夜が美しい、そんな土地だった。
ちなみにここは、僕らの生まれ故郷ではない。
14年前、父は広告代理店に勤めていたし、母はデザイナーだった。
この代理店は、過酷な勤務形態と高額な報酬が有名な会社で、しばしば社会問題になる。
母の勤め先も、似たようなものだった。
だから、両親はこの頃の事を、今でも悔やんでいる。
『この頃にちゃんとした生活しなかったから……』
とか、口には出さないけれど、何か事ある度に、顔に出す。
それが親ってものなのかな。
僕ら双子は、未熟児として産まれてきた。
あと、小難しくて長ったらしい名前の病気も抱えていた。
でも、だからどうだというんだ?
僕らの病気は、当たり前の事だった。
障害を抱える多くの人がそうであるように、それは自然なことだった。
両親は、僕らのために、この土地に引っ越しをした。
脱サラというやつだ。
清らかな空気と、深い山林、自然の気に満ちた土地。
これが、彼らの懺悔に必要だったんだろうなあ、と思う。
あと、僕らの発育にも。
母はデザイナーとして独立し、東京の会社とやりとりをしながら仕事をしていた。
父はペンションをしながら、畑でトマトとかを作っていた。
これはこれでやっていけないこともなかったと思う。。
けれど、僕らの医療費もかかったし、やっぱりプライドが許さなかったのだろう。
父はペンションの経営を軌道に乗せるべく、奮起した。
東京の有名店を食べ歩いて、料理の技を盗み続けた末に、和食の隠れ里、みたいなよくわからないキャッチフレーズで、代理店のコネでテレビ出演したりした。
母は嫌がったけれど、僕らの病気もねたに使った。
僕は、何となくわかる。
同情されるために、ここに来たわけじゃない。
隠れ里といったって、そもそも隠れる以前に、人に知られてない場所だ。
探す人のいない集落なのに、何をいってるんだこの人は、とおもったのが、
小学高学年のころである。
でも、ヒットした。
ネットも無理やり引いて、週末以外も予約がたくさん入るようになった。
近くにスキー場ができたこともあって、冬の方が儲かるようになった。
こういう父のサクセスストーリーの間、僕らは入退院を繰り返しながら、13歳になった。
僕ら兄弟の表面的な変化は、そんなところなのだろうか。
父が仕事を頑張って宿が繁盛した。
でも、内面的には、もっと違う深刻な事が起きていた。
それは、僕らが双子で、こういう病気を抱えているからこそ、起きた変化だと思う。
幼い頃は、僕らはお互いに、お互いの区別がつかなかった。
僕は兄だったし、兄は僕だった。
病気の悪化も寛解も、2人は二人三脚みたいに、ぴったり同じペースでサイクルをくるくるしていた。
でも、ちょうど僕の背が、兄よりも少し高くなり始めたころ、からかな。
僕は病気がそれほどでもなくなり、つまり、病気というアウシュビッツは出口が見えるようになってきた。
反対に兄は、相変わらず定期的に体調を崩す。
崩した時の、症状がどんどん重くなってきていた。
底の無い沼。
不思議なことに、僕の方がこのことを不快に思っていた気がする。
親しみはなくても、日常として慣れていた日々が終わりを告げようとしていた。
双子の兄を置いて。
だから、水底から海面に浮上するみたいに、水面の光の揺らめきが、希望が見えてきているはずなのに、僕はいつもむしゃくしゃしていた。
だから、よく分からない理由で、よく分からない非難を、周りにしていた。
兄は僕と大違いで、穏やかな人だった。
そもそも、怒るという行為には、血気が必要だ。
僕の怒りは、結局力の顕れであり、兄には、無かったのかもしれない。
でも、彼には別の力があった。
病の苦痛を耐えぬき、物事を悲観しない力が。
こんな感じかな。
一緒だった僕らに、差が生まれて、僕がイライラして、兄は困ったみたいにほほ笑んでいた。
そういう日々。
ここを抜け出すきっかけは、ゲームだった。
オンラインゲーム。
RPGだ。
舞台は中世。
異世界と言ってもいい。
人間や、色んな種族が、剣と魔法で、モンスターと戦い、広大な世界を旅する。
オンラインの環境は整っていた。
僕らは通信教育だったから、ネットに触れるのは抵抗がなかった。
成績を下げないことを条件に、月額課金プレーヤーとして、僕らはその世界に足を踏み入れた。
ファンタジー世界では、兄はkeyという女の子だった。
小柄で、魔法が得意な種族だ。
職業は魔法使い。
僕はというと、ugという、やはり女の子である。
兄と同じ種族で、職業は僧侶だった。
2人ともネカマだったのは笑えたけどね。
オンラインの世界で、病気とかそんな制限は全くなかった。
人と差の無い、等質感。
これが僕たちに無限を感じさせた。
だから、僕らは無限の果てが見たくて、色々な所に、真っ先に飛び込んでいった。
火山、雪原、湖、砂漠……。
レベルは最先端をキープして、新装されたボスは真っ先に撃破していた。
目的意識のある日々というのは、楽しい。
そんなある日のことだ。
いつもと同じように、新しいボスが導入された。
僕は僧侶で、兄が魔法使い。
回復と攻撃にステータス全振り。
でも、打たれ弱い。
いつもは街で盾役さんを探すのだけれど、その日は見つからなかった。
ご新規さんというか、にわかさんが増えてたからね。
平日だったし、そんなディープなプレーヤーは中々いない。
いても、ギルドとかで行動している。
基本、僕らはギルドとかには入らない。
一回入りかけたけれど、リアルの事を訊かれたり、ナンパされたりするのが気持ち悪くて、やめた。
だから、とりあえず見学に行こう、ということで、新マップの氷河に行ったんだ。
近くにワープもない、恐ろしく遠い場所だった。
「綺麗だね、ここ」
「音楽いいな」
そんな事をどちらともなく話しながら、そのマップに向かった。
で、路を間違えて、ちょっと誰も来なさそうな行き止まりにきてしまった。
雑魚敵も強い。
なんせ、僕らは体力の無い種族だからね。
兄も僕も、これは無理だね、と呟いて、街に戻ろうとした時、出会ったんだ。
大きい種族のいかついおっさんが、死んで倒れていた。
見た感じの装備はかなり強い部類だ。
フレイムアーマー、フレイムハンマー、火喰い鳥の羽根つきメット、……。
僕は蘇生魔法をかけた。
いわゆる、辻ヒールである。
おっさんは立ち上がって、
「助かった」
と言った。
ありがとう、ではなく、助かった、だった。
僕らはおっさんを見上げながら、
「いえいえきになさらず」
とチャットして、パタパタと手を振った。
この種族の身振り手振りは、どれも可愛らしい。
おっさんは考え込むモーションをした。
画面越しでも伝わる圧迫感。
髪型が、短髪に稲妻の反りこみ、吊り上がった三白眼に、突き出た頬骨、ごわごわの口髭。
勧誘されないタイプだ。
いわゆるソロ。
でもこの装備を1人でそろえるのは、並大抵ではない。
「わたしたちは街にもどります。頑張って下さいねー」
とチャットしようと思ったら、兄がトレード申請を受けた。
なんか、取引したいらしい。
兄は了承する。
とりあえず、3939ゴールドを渡す。
意味はさんきゅーさんきゅー、ありがとう、ということだ。
取引画面を見て、僕らはびっくりした。
新ボスのレアドロップアイテムが、贈られてきたからだ。
もちろん、兄は断った。
いきなり、こんな高価なものは頂けない。
トレードを中止にする。
おっさんはチャットしてきた。
「何故だ」
「受け取れません。高価すぎます」
兄はそう返した。
「なるほど。オレは今絶望していた。こんなところで、こんな死に方をしてな。だから、礼がしたい。が、文無しなんだ。それしか、やれるもんがねえ」
……なんか、ぶっきらぼうだけど、いい人だな、て思ったんだ。
リアルの僕は、隣の兄を見た。
兄は頷く。
「では、良ければ、手伝って下さい。新ボス」
兄、keyはおっさんにパーティ勧誘を送った。
兄がリーダーだったからだ。
おっさんは了承し、僕らはその日、新ボスのアイスドラゴンを77回討伐した。
まあ、サンドバッグともいう。
この日、ログオフの前に、僕らはフレンド登録をした。
こうして僕ら2人は、オンラインでは、3人になった。
不思議と、僕らがログインするころには、いつもおっさんはインしてて、ボスに瀕死の戦いを挑んでいた。
で、僕らが駆け付けるのである。
おっさんの名前は、fire/crafterと言った。
花火職人という意味だ。
大きい種族は、力が強い。
HPは数ある種族でも一番ある。
けれど、スピードが遅いもんだから、盾役が一般的だ。
けれど、花火さん(ぼくらはおっさんを、そう呼んでいた)は、スピード特化装備を無理やり作って、ドーピングをしまくって、めちゃくちゃな速度で、ハンマーを振り回し、ボスを瞬殺するのである。
しかも、必殺技は使わない。
なのに敵を引き付けるヘイトはマックスという、とても変わったプレイヤーだった。
「ストレスたまってるのかなあ、花火さん」
「プレイ時間はやばいよね。ニートかなあ」
僕らはよく、花火さんのそんな壮絶な戦いっぷりに感嘆しながら、そんな会話をしていた。
こんな日々が一年ほど続き、僕らは14歳になった。
この頃は、僕はもちろん、兄も調子が良かった。
重症化の波は遠ざかっていた。
だからかな。
「オフ会しませんか?」
兄が、パーティチャットでそう言った時、僕は
「バンされる!」
と叫んだ。
馬鹿兄貴、何言ってるんだ。
オフ会?
こんなおっさんと?
そりゃ、花火さんはドロップ譲るのも気前がいいし、強いし、話も時々楽しいけど、こんな、おっさんと?
混乱する僕は、無駄に抗毒魔法を発動したりしていた。
この時のボスはガチムチで、状態異常なんか使わないのに。
ちなみに花火のおっさんは、返事をせずに、ひたすらハンマーを振り回していた。
リアルで横の兄は、何故か寂しそうな顔をしていた。
いや、心配するべきは、チャット内容だろう。
運営に垢ばんされたら、ログインできなくなる。
一通りの戦闘が終わって、ドロップアイテムの山分けが終わり、ログオフの直前。
花火さんが、ぽつりと言ってきた。
「オフ会、やり方知らねえ。やったことがねえからな。だが、どうやるんだ? やり方教えてくれ」
僕は、こんなに嬉しそうな、兄の顔を見たことが無い。
蛍を眺める時も、重症化した病気が寛解した時も、こんな嬉しそうな兄は知らなかった。
チャットを打とうとする兄から、コントローラーを取り上げる。
「だから、バンされるってば!」
僕は必死で、話をとりまとめた。
運営のばん、利用規約を説明して、隠語を伝えて、僕らが双子のネカマであることも明かした。
花火さんは、
「そうか」
とだけ言った。
僕らは話しをすすめ、夏、新宿でオフ会をすることにした。
この前の日は眠れなかった。
おそらく兄もだろう。
僕らは朝早くに、自宅を出た。
神奈川の祖母の宅に、夏は遊びに行くのが通例だったから、特に怪しまれることは無かった。
けれど、直前まで、兄の体調を、母に心配された。
まあ、調子がいい時は大丈夫なのだ。
薬も飲み忘れなければ、普通と変わらない、ふり、くらいはできる。
つまり、僕がしっかりしていればいい。
僕は母に、大船を約束し、駅まで車で送ってもらい、電車に乗った。
日光と宇都宮で乗り換え、上野に向かう。
つつがなく到着。
僕と兄は電車で爆睡。
それはそうだ。
寝不足だったから。
上野から山手線に乗り、新宿に向かう。
で、絶望した。
広すぎる。
待ち合わせ場所の東口を探していたら、西に出てしまった。
でも、なんとか、東口にたどり着く。
けれど。
大量の人人ひとひと……。
どうすればいいのだろう。
服装は前もって伝えていた。
容姿を伝えるのは迷った。
中学生2人とか言うと、疎まれるかなと思ったからだ。
向こうも、教えてくれなかった。
「まあ、見ればわかるさ」
と言われたとき、いっかついおっさんなんだろうなあ、と思った。
「keyとugか?」
心臓が跳ねる。
後ろから声をかけられた。
振り返ると、ワンピースの女の子が1人、立っていた。
新宿の人込みを、汗ばみ行き交う人々を、全部水墨画にしてしまうような、そんな
存在感のある女の子だった。
歳は12~13.中1か小6。
夜の闇みたいな黒髪。
透き通ったおでこ。
フランス人形みたいに整った鼻と口。
こぼれそうに大きく、黒々とした瞳。
美しいという言葉が、とても陳腐に思えるほどの、強い美を、僕は感じて、目をそらしてしまう。
「はい、keyです。こっちは弟のug。花火さんですか?」
「ああ。花火っつうか、fire/crafterだけどな」
どぎまぎする僕をはために、兄は滑らかに言葉をだして、花火さんも、落ち着いたものだった。
「オフ会ってのは、初めてなんだが、照れるな。で、どこに行きゃあいいんだ?」
小首をあどけなく傾げる彼女に、僕は、通りを渡ったスタバを提案した。
僕らは、スタバで涼みながら、とてもとりとめのない話をしていたと思う。
あまり覚えていない。
緊張しすぎていたからだ。
兄は普通に、穏やかに、でも饒舌に話していたけれど、これは彼が異常なんだと思う。
だって、こんな綺麗な子が、花火のおっさんだったなんて!!
ありえないだろう?
まあ、花火さんも、少しびっくりしていたみたいだけど、すぐに、彼女なりの打ち解け方をしてくれた。
つまり言葉はぶっきらぼうだったけれど、よく笑ったり、ほほ笑んだりしてくれた。
そのたびに、世界がきらきらする錯覚を覚える。
あ、これ、初恋かな?
と、思った時、兄が会話に水を差した。
ポーチを取り出して、中から薬を取り出して、錠剤をつまみだし、飲む。
その姿を、花火さんは、黒く大きな瞳で、じっと見た。
それから、とても長い病名を訊いてきた。
これにはびっくりする。
ほとんどの人は知らない病だからだ。
兄は、はい、と言った。
それから、僕も弟もそうですが、僕のほうが注意がいるんです、と付け加えた。
「そうか。いや、込み入った事情に頭突っ込んだ。すまない。保育所でな、遺伝病理学を取ってたからな、覚えがあったんだ」
僕も兄も、きょとんとした。
花火さんは苦笑をして、なんでもない、こっちの話だ、と言った。
兄は、おしゃべりになる。
気にしないでください、とか、産まれた時からこれが普通なんです、とか、この病気じゃなかったらゲームやってないです、とか、生きるってことは普通のヒトより大変だけど、大変なだけです、とか言っていた。
要約すると、僕は病気を受け入れていますから、気にしないでください。
ということだった。
花火さんは、視線を下げて、
「ま、オレも遺伝病っちゃあ遺伝病だかんな」
といって、ストローをぎゅっと潰した。
それから、視線を上げて、口元に微笑みを浮かべる。
「お前らは、タフなんだな。タフな男は好きだ」
僕は、赤くなった。
兄が、ありがとうございます、と言った。
……僕らはその後も、色々な話をして、電話番号とかを交換したりして、オフ会は解散になった。
これが、僕と兄と花火さんの鮮烈な記憶だ。
花火のおっさんは、花火の美少女で、本当の名前は、しがいさんと言うそうだ。
僕らはそれからも、相変わらずオンラインで、行動を共にしていた。
けれど、それから2年後。
兄の病状が悪化した。
裏腹に僕は完治と言っても良く、薬も飲まなくなってよくなっていた。
兄を侵す病気は、目も悪くした。
だから、ゲームも禁止された。
自宅療養も厳しくなり、専門の、長期療養施設に入所することになる、前の日、僕らはその事情を、
花火さんに話した。
「そうか、辛いな」
「まあ、病気は進むものですから」
「まあ、それもそうだ。だが、寂しいだろう」
「そうですね。ゲームができなくなるのも寂しいですし、施設は都会ですから、蛍もいませんからね。家の近所では蛍が見れるんです。とても綺麗で」
「そうか。それは寂しいな」
こんな会話を、兄と花火さんはしていた。
僕は沈黙していた。
僕らのパーティは、当時の最強ボスを、77回瞬殺して、解散となった。
翌日兄は入所した。
僕は定期的に兄を見舞うことになった。
随分と、離れたなあ、と思い、妙に寂しくなる。
寂しすぎて、オンラインゲームも、疎くなってしまった。
兄がいなくても、花火さんとのチャットに差し障りは無かったけれど、決定的な何かが欠けてしまった。
画面の向こうには彼女がいて、その事を思う時には、胸の奥に甘いものがもたげた。
けれど、それは違う気がしたんだ。
花火さんが美少女だって知る前から、彼女との会話を求めていたのは、兄だった。
もちろん僕が、花火さんと良い中になっても、兄なら、静かに笑って、祝福してくれるだろう。
だからこそ、気がとがめて、そういう後ろめたさは結局、寂しい、てことだったんだろうな。
花火さんは何も言わなかったけれど、そこら辺を全部分かった上で、僕と冒険をしてくれていた。
でも、ある日彼女はこう言った。
「しばらく顔がだせなくなる」
「忙しくなるんですか?」
「まあ、そういうことだ」
受験を頑張るように、とか、お前は地頭が良いから大丈夫だろう、とか、タフに生きてれば大概の物事は大丈夫だ、とか色々励ましてくれた花火さんは、最後に、
「じゃあな。keyにもよろしく伝えてくれ」
と言って、ログオフした。
僕は国立大学を受験し、運良く受かり、留年することもなく卒業して、フレックス制の、在宅勤務が可能なプログラマーになった。
この間に彼女ができたりした。
大学の1年後輩で、卒業後も2年つきあった。
彼女には、僕が24歳の時に、プロポーズをしたけれど、あっさりと断られた。
職場に気になる人がいる、というのが理由だったけれど、僕は何も言えなかった。
というより、何を言っても、何も変わらない気がして、結局関係は消滅した。
合わせるように仕事が忙しくなったのは幸いだったと思う。
何かをしていれば、忘れられるからだ。
痛みも、幸福も。
それからさらに4年たった。
冬のある日、携帯に着信。
知らない番号だったので、でなかったら、ショートメールがきた。
『花火だ。電話に出ろ』
僕は掛けなおした。
「かなりお久しぶりです。ugです」
「ああ、久しぶりだな。元気か?」
「はい」
「keyはどうだ?」
「良くはないですね。あ、蛍が見たいって、いつも呟いてます、最近」
とても長い時間をかけて、兄の病状は悪化していた。
寝たきりに近い。
不思議と回復したのは視力だけだ。
病室の天井しか見ない、視力。
酷い皮肉だ。
でも、その皮肉も終わりに近い。
色々な数値が、死が近い事を語っている。
でも、28まで生きてくれたんだ。文句は出てこない。
けど、そんなことは言えなかった。
でも、伝わったのかな?
病院と号室を訊かれたから、答える。
でも、見舞いには来ないそうだ。
代わりに、贈りものがあるから、と、日を指定された。
この日の19:00に、南の窓を見るように、と。
僕が答える前に、電話は切れた。
もう一度かけたら、この番号は使われておりません、という無機質な音声が流れた。
その日、僕は19:00に、兄を車いすに乗せて、南の窓、その向こうの景色を二人で見た。
病室は5階にあった。
夜でも眺めはいい。
闇に浮かぶビルの木立。
家々の灯り。
暖色のテールランプの行列。
50mほど先の向かいのビルの屋上の闇に、光が生れた。
小さな、丸いサイリウムのような。
それは1つからはじまって、次々に増殖していく。
クリスマスのイルミネーションみたいな、温かい光。
その点滅。
柔らかな動き。
それは、蛍みたいだった。
僕は、その光の群れに唖然としながら、思う。
蛍?
冬に蛍?
この夜に至るために、蛍はいくつの夜を渡るのだろう。
渡ったのだろう。
嗚咽が聞こえた。
窓ガラスに映る兄は、泣いていた。
彼は蛍をじっとみている。
いや、違う。
蛍の奥の、人。
彼女は蛍たちに照らされている。
黒髪。
黒のロングコート。
あどけなく、美しい目鼻立ち。
黒々とした、こぼれそうな瞳。
花火さんだった。
あの夏の日の、14年前の花火さんが、そこにいた。
魔法使いみたいに、両手のひらをこちらに開いて、佇んでいた。