MICE
「…美容も健康もたった3錠で手にはいる。スーパーサプリメント『M-ICE』の効果は、この私が保証します!」
「カット、カット!その営業スマイルじゃ駄目じゃないか。」
監督の駄目出しに、新人が引きつった笑顔を引っ込める。
「うちのイメージに合うのは埼京さんしかいないな。埼京さんに代えてくれ。」
社長直々の指名。
そうよ、新人なんかにこの大役は任せられない。私は自然な笑みとともに前へ進み出た。
カメラの前に立つ時、私、埼京裕美は女優になる。スタイル、顔立ちはもちろん、肌のハリや髪のツヤまでカメラにさらす全てが魅せるためにある。私がカメラの前に立てば、それだけで宣伝になる。
私は堂々と宣言する。
「『M-ICE』の効果は、この私が保証します!」
* * *
「埼京さん、お疲れ様です。」
『M-ICE』の通販進出のための番組撮影が終わった後、さっきの新人が声をかけた。私は鏡越しに彼女を見た。
──ほんと、若さだけが取り柄って感じね。
たった10分の宣伝番組と言えども、撮影はスタジオで行われる。
ここは番組出演者のための部屋。土壇場で降ろされた者が出入りする資格はない。
私は私が美しい私である事をじっくり確認するために鏡を見る。
新人はまだそこにいた。
「私に何か?」
「あ、あの…すいません。」
新人は慌てて頭を下げた後、遠慮がちに「あのう…」と声をかけた。
全くはっきりしない娘だ。今度の新規採用では、はきはきと応答できる子を取るように会議で提案しよう。
「さっきの撮影のことはもういいわよ。」
私は鞄からスーパーサプリメントを取りだした。ストレスは美容と健康の敵だ。ストレスへの特効薬は、赤のサプリ。
「そ、それは…?」
「新しいサプリメントよ。」
この子ったら信じられない!新作のサプリも知らないなんて!ほんとにMICE社の社員かしら?
「新しい…、新作ですか?でも、さっきの宣伝では…」
「ええ。まだ表には出してないわ。」
私はMICE社西日本支店の営業課長、且つ宣伝モデル。消費者はこの私に魅了されてサプリメントを買っていく。目に見える効果、会社の実績、それは則ちこの私。
「市場に出る製品はね、全て私が試した後で出回っているの。」
* * *
次の日、6:30きっかりに私は目を覚ました。
毎晩寝る前に疲れを取る緑のサプリを飲むので、すっきりと朝を迎えられる。
美容と健康に疲れは敵だ。
私は、紅茶に黄色の粉末サプリを溶かしながらテレビをつけた。MICE社が通販でサプリを売り出すことが話題になっているようだ。
私は紅茶をかき混ぜた。鮮やかな黄色がクルクル渦まいて、すっと溶けてゆく。
一段と明るくなったカップの中に、私の顔が映った。
ゆらり。
カップの中の顔が歪む。
思わず頬に手を当ててみる。
ぐにゃり
頬の肉が手に貼りつくように、力なく垂れてきた。
──嘘でしょ?
私は肉が落ちないように、掌をぎゅっと押し当てた。
落ちる、垂れる、流れてゆく。
まるで水のように、頬の肉は形を変えて指の隙間からこぼれ落ちる。
どろり、たらり
ティーカップの中に落ちてゆく。そこに映るのは、もう私ではなかった。
「そんなっ!私…の…」
口を開けば溶けた舌が溢れ出し、言葉が続かない。瞬きをすれば目玉が滑りだし、ティーカップの中の醜い顔が拡大される。
──私の顔がっ!誰よりも美しい私の顔がっ!私の…私の…私のっ…!
だんだん頭がぼんやりしてきた。意識が遠のく中で、私は脳みそが溶けているのだと悟った。
ティーカップの中に目玉が、ぽちゃん、ぽちゃんと落ちていく。視界に広がる霧を払うように、私はやみくもに腕を振り回した。
* * *
がたん
硬い感触と鈍い痛みが右手を襲い、私は腕を引っ込めた。
目を開けると白い天井が広がっていた。
──今のは、夢?
頬に手を当ててみると、いつもの弾力がかえってくる。
──夢で良かった。いいえ、夢から覚めて良かった。どうしてあんな恐ろしい夢をみたのだろうか?もしかしたら、疲れているのかもしれない。昨日の撮影は、夜遅くまで続いた。新聞などでよく話題になるように、MICE社の発展は目覚ましい。
美容と健康に疲れは敵だ。
私は、紅茶に黄色の粉末サプリを溶かしながらテレビをつけた。MICE社が通販でサプリを売り出すことが話題になっているようだ。私は紅茶をかき混ぜようとして、さっきの夢を思い出した。
カップの中をのぞくのが、なんとなく躊躇われる。
──まぁ、いいわ。顔から洗いましょ。
* * *
三面鏡に映る私は、やはり綺麗な私だった。きめ細かい泡が、顔だけでなく気持ちまで洗ってくれたようで、フローラルの香りが心地良い。
私はリビングに戻り、紅茶のカップを持ち上げた。
『…シワが…』
不意にテレビから嫌な単語が聞こえ、思わず手を止めた。
──シワ?
頬に手を当てて、テレビの音量を少し上げる。
『…株式会社カシワが食品部門から撤退し…』
大手企業でも食品業界で生き残るのは難しいらしい。そんなニュースなのに、ホッとした。頬の確かな弾力よりも、このニュースが美容と関係がない事にホッとした。
私は衰えない、シワやシミとは無縁だ、と今まで強く信じてきたものが、どうしてこうも不安にさせるのだろう。
──大丈夫、さっきの夢で敏感になっているだけだわ。
この仕事に就いて長い。きっと、それが知らないうちにストレスになっているのだ。
私は赤いサプリメントを取り出して、3粒を口に含んだ。
しかし、水を用意していない。私は、サプリを舌で転がしながら水を求めてキッチンへ向かった。
その時、1つのカプセルが口の中で小さく弾けた。
苦い。カプセルの中身は、まるで生き物のように舌に絡みつき、感覚を麻痺させる。
苦い、苦い。
痺れが舌からこめかみへと伝染する。
私はたまらず、目の前の紅茶へ手を伸ばした。
ごくり、ごくり
息を止めて紅茶を流し込む。口から喉、胃へと痺れが走る。同時に吐気が込み上げて、私は手で口を押さえた。
ぐにゃり
顔の形が変わる。
──どういう事?
急に頬が弾力を失い、引力に従うようにシワを刻みながら皮膚が垂れてくる。
「い、一体、どういう事なのっ!?」
気が付けば叫んでいた。その声は自分のものとは思えないほどかすれていた。
私は頬を押さえていた手を離して、さらに驚いた。一切の家事から守ってきた手が、徐々にひび割れ、かさつき、シミが現れたのだ。その、広げた掌の上に、パサリ、と灰色の塊が降ってくる。
髪の毛だ。
私は、背骨がミシミシと音をたてて丸まっていくのを感じながら、髪の毛の雪の中で倒れた。
胃から喉へと逆流する熱いものを感じたが、歯のない口はそれを止める事はできなかった。
私は、床に吐き出された血の海の中で、テレビが取り上げているMICE社の話題を聞いていた。
* * *
社内食堂のテラスで一服していると、
「社長」と後ろから声をかけられた。
「抗ストレス剤の開発期間をもう少し延ばして下さい。」
振り返ると、我が社の傘下に入った株式会社カシワの研究部の男がいた。
「ほう、君が申し出るという事は、何か安全上の問題が起きたのだね?」
「はい。服用によりサンプルA-025が死亡しました。」
男はそう言ってカルテを回した。
サンプルA-025…元々健康的で上質のサンプルだった。入社と同時に実験体として使っていた彼女が、体調不良を訴えた事など一度もなかった。それどころか、年を重ねるごとに美しさを増してゆく様子は、全ての人間を魅了した。
まさに最強のサンプルではあったが、まぁ、仕方ない。
「原因は?」
「まだ特定していませんが、副作用か他の薬との化学反応なのか、確認中です。」
研究部の男は、白衣のポケットに手を突っ込んだ。研究員と言うより医学生のように見える。
「この事は表に出すな。埼京裕美は海外の支店に転勤した事にでもしておけ。」
「…分かりました。」
男は一瞬躊躇った後、小さく頭を下げた。
それで良い。
食品部門に手を伸ばしたカシワ社が失敗するのは目に見えていた。
だからこそ、傘下に入れたのだ。
食品部門で赤字が出たら、MICE社の開発に携わる事。赤字が30億円以上に膨れあがったら、すぐに食品部門から撤退する事。
我ながら巧い取引きだ。
カシワ社が傘下に入る事で、また新たな事業が展開できる。
健康食品、ジェネリック医薬品、化粧品…誰もが求める『美容と健康』を売り物にする。将来的には病院やエステにも事業を広げるつもりだ。
私はテラスから下界を見下ろした。この本社を頂点に、子会社が点在しているのが分かる。
我が社はネズミの様に社員の数を殖やしてゆく。そして、それは立派な実験体になる。
実験体、そうマウスだ。
「…君は、我が社のネーミングをどう思うかね?」
白衣の男に訪ねる。
「MICE…ネズミですか?」
分かっているじゃあないか。
口角が自然と上がる。
「今度、若い男性をターゲットにしたサプリメントを売り出したいんだが…どうだね?」
私は次のサンプルのネームプレートを素早く盗み見た。
* * * END
社員が実験台となる事で、安全確認とサプリの効果を宣伝をしていたのですね。
こんな会社は嫌だ〜(汗)
埼京さんは急に老婆になって…実年齢が気になりマス。