第一章 絶望
小高い丘の上から下方の長閑な村を見渡す一つの黒い影があった。
だが、その正体は空に広がる暗雲のせいで陽光が遮られ確認する事ができない。影はその存在感をアピールするかのように禍々しい妖気を放ち、他の影から離れた所に立っている。
やがて妖気を放つ影の主は赤い眼を光らせると、薄暗い空に向かってこの世の物とは思えない奇声を発した。
その声を合図に、後方で待機していた数え切れない程の人の形をした何かが一斉に動き出す。
ある者は自分の背丈程ある大剣を抱え、また、ある者は奇怪な刃物を右手に握り締めていた……。
夏に入ろうとする梅雨のジメジメした季節に、長閑な村の平穏は壊された。村の北側に位置する丘の上から魔族が押し寄せてきたのだ。
魔族の大群は力の源となる人間の生気を求め、村の畑を踏み荒らしながら入り口目掛けて突進してきた。。
「キティとジールは魔法で後方から援護してくれ。テラーズは右前方、ソリッドは左前方、俺が正面の敵を叩く」
入口で待ち構えていたパーティーの一人が言った。
メンバーは男の指示に従い陣形を組む。
正面に立つ黄金の色合いの髪をした、リーダーと思われる男を心底信用しているからだろうか。その行動に迷いは感じられない。
「ボウスト、気を抜くなよ」
ボウストと呼ばれたリーダー風の男は、軽く頷くと持っていた剣を硬く握り締めた。
その間も怒涛の如く魔族が迫ってきていた。
「グルオオオオオオー!」
魔族の乗ったモンスターが雄たけびをあげ、ボウストに向かって突進していく。
ボウストは、先陣を切った魔族を迎え撃つため腰を落とした。
その時、目の前の茂みが微かに動いた。小さな子供が泣きながら転がり出てくる。
「この村の住人は全員非難したんじゃなかったのか!」
ボウストは叫ぶと、茂みから出てきた子供に向かって走り出した。
「ボウスト! 駄目だ、諦めろ!」
テラーズと呼ばれた体格の良い男も叫んだ。
だが静止を振り切ったボウストが男の子を抱きかかえたのと、魔族が剣を振り下ろしたのは、ほぼ同時だった……。
ガーナ王国より勇者の称号を受けたボウストが、魔族の攻撃によって再起不能になってしまった『アークヒル村の戦い』から約一年が経過した。
人々は尚も魔族の執拗な侵略に日々怯えながら、苦しい生活を強いられている……。
秋空の下、昼だというのに薄暗い森の中を孤独に歩く男がいた。男は傷だらけの身体を薄汚れた黒いマントで覆っている。
まるで自分の汚れてしまった心までもを覆い隠しているようだ。
マントの内側からは細身の剣、マジックレイピアが覗く。この男には大きな剣を振るう力は残されていなかった。
男が歩いている森の木々は、暖かな緑色から心安らぐ赤や黄色へとその姿を変えている最中だ。
秋独特の優しい風が男を撫でた時、黒いマントから男の身体が一瞬だけ見えた。
男は右肘から先を失っていた。顔には疲労が色濃く浮かんでいる。男は生きる事に疲れていた。だが、男を執拗に狙う者達は、男に休む事を許してはいない。
森をひたすら歩く男の後方百メートル程の距離に、見覚えのある独特な眼が覗いていることに男は気付いていた。
(魔族か……)
コッソリ後ろを窺う男の視界に、人間の持つような白に黒の眼ではなく魔族特有の赤に黒の眼が一瞬だけ映る。
魔族の頭には風にたなびくような髪はなかったが、変わりにニ本の太い角が生えている。獲物を狙うような鋭い眼は、少しずつだが黒いマントの男との距離を詰めていた。
男は意を決して振り返り、黒いマントの内側から魔力を攻撃力へと変換出来るマジックレイピアを左手に構えた。
目の前には先程のニ本の角を持った魔族が迫ってきている。
「見つけたぞ、ボウスト……」
「おい、俺みたいな半死人の命を奪ったところで何も嬉しくないだろう?」
分かりきってはいたが、そう返す。
「てめぇの首には魔族の軍団長から多額の報奨金が懸かっているんだ、知らなかったのか?」
「……ふぅ、お前も俺の首に懸けられた報奨金を狙う魔族だったか」
ボウストはそう言うと、左手に持った剣に魔力を込めた。剣は次第に淡い光を放ち、同時に剣に力が満ちていく。
魔族は危険を察知し、右手に持った鋼の剣を両手で構え、ボウスト目掛けて突進した。
しかしそれよりも早く、ボウストは土が剥き出しになっていた地面に眩く光る剣を突き刺した! 剣に込めた魔力は地中で膨れ上がり、辺りの地面から爆発音と共に土煙を上げる。
「ぬおおお!」
魔族は眼を押さえ叫んだ。
「ボウスト! 勇者が目潰しとは情けないぞ!」
魔族は悪態をついた。
「俺は元勇者だ……」
ボウストは土煙に混じり口元で小さく呪文を唱える。
「インビシブル!」
魔法を唱え終わると、ボウストの身体は先端から次第に透明になっていった。
装備している剣や盾も例外ではなく、装備の向こう側で見えないはずの土煙の上がった地面が、うっすら見える。
辺りの土煙が引いた時にはボウストは完璧に透明になっていた。
ボウストの姿を見失い、魔族は手に持っていた鋼の剣を振り回したが、標的であるボウストはそれを尻目にその場を離れて行った。
「ちくしょう!」
ボウストは目の前の木を力任せに殴りつけた。木にはボウストの血が滲む。
魔族の言った「情けない」という言葉が、ボウストの胸に突き刺さっていた。
二十二歳という若さは落ちぶれるには早すぎた……。
ボウストは十四歳の時に両親を魔族に殺されて以来、ただひたすらに剣の腕を磨き、十八歳の時にガーナ王国から勇者の称号を得た。
その成長と出世の早さのためか、二十一歳という若さで生きる気力をも失ってしまった。
ボウストはアークヒル村の戦いで片腕を失ってからの一年間、ほとんど人と関わる事なく魔族の追っ手から逃げ続けている。
それには理由があった。
アークヒルから暫くの間は、田舎の長閑な町で心と身体の傷を癒すために静養していた。
しかし突然事件は起きた。
勇者に止めを刺そうと、魔族の軍団がボウストの静養していた町を襲ったのだ。
魔族の襲撃のような危険に全く無縁だった長閑な町は、瞬く間に壊滅してしまった。勇者を匿っていた町の住人は、魔族の手により無残に殺されたのだ。
それはボウストが近くの川に水を汲みに行っている間の一瞬の出来事だった。
以来ボウストは自分の存在により罪もない人間が殺されるのを恐れ、人との関わりを極力避けて来た。若いボウストにとって辛い選択だったのは言うまでも無い。
ボウストは幾度となく己の命を絶つ事を考え、その度に「勇者ボウストの命を狙う魔族がいる限り、一生逃げ続けてやろう」と心に誓うのだった。
自分の命を狙わせる事で他の冒険者や罪の無い住人が殺される事が少なくなれば。自虐的な思いが含まれた願いであった。
英雄と歌われていた勇者ボウストが、なぜ魔族と戦うことなくひたすら逃げ続けているのか。それにも理由はあった。
恐怖心である。
年月をかけて身体の傷を癒やそうとも、あの戦いで受けた恐怖心という傷が癒える事はなかった。
この事実こそ、勇者ボウストが「再起不能」と噂されている大きな原因だった。
辺りが暗くなり始めていた。ボウストは背中に背負った鞄から残り少なくなった干し肉を取り出し、簡単な食事を済ませた。
これからの旅の道程を考えると、近くの村で食料などを調達する必要がありそうだ。
ボウストは遥か北の大陸にいるという腕利きの鍛冶屋を目指していた。その鍛冶屋は変わり者で、人間との関わりをほとんど持つ事なく、山奥の小屋に独りで暮らしているという。
人間を避けているという共通点から、ボウストはその鍛冶屋に頼んで鋼鉄の義手を作ってもらおうと考えていた。
急ぐ旅でもないのに夜の森を探索する事は自殺行為と同じである。ボウストは近くにある崖の側面に小さな洞窟を発見すると、そこで野宿する事を決めた。
「来ないで!」
突然森の中に高い声が響き渡った。
叫び声で目覚めたボウストは洞窟を飛び出して辺りを窺った。
左前方で月の光に照らされて、剣らしきものが輝くのが見える。周りの空気に緊張が走った。ボウストは、気配を消しつつその光の元に近づいた。
森の木々の隙間から見える真っ暗な空には、三日月が怪しく輝いている。
その光に照らされ、崖を背にした少女の前にニ本の角を持った何者かが立ちはだかっているのが見えた。
「あ、あいつ、さっきの魔族か……」
ボウストは剣を構えると少しずつ魔族との間合いを詰めた。
しかしその足は恐怖に震えていた。魔族の放つ独特なオーラを肌で感じる事により、アークヒル村の戦いを思い出し恐怖しているのだ。
「こんな森深くでパワーを充電出来るとは思っていなかったぞ」
魔族は今にも噛みつきそうな勢いで目の前の少女に話し掛けていた。
一方、少女は身じろぎもせず魔族を睨みつけている。
ボウストは向き合っている二人に悟られないように大きめの木の陰に身を潜め、静かにマジックレイピアに魔力を込めた。
魔力が入るにしたがって、刀身が淡く光る。
ボウストは昼間この魔族に会った時と同じように、剣を地面に突き立てた。
爆発音と共に大量の土煙が上がった。
既にインビシブルの魔法を唱えて透明になっていたボウストは、土煙に紛れ込み素早く少女の目の前に踊り出る。
「ボ、ボウストか! どこだ? どこにいやがる!」
ボウストは魔族の声を聞きながら、少女を抱きかかえる。
「きゃああああ!」
透明な何かに抱き上げられた少女は、再び叫び声を上げた。
悲鳴に気づいた魔族は、宙を漂いながらこの場を去ろうとする少女の姿を見つけ走り出した。
「そうか! インビシブルか! 小賢しいマネを!」
魔族は鋼の剣を腰の鞘に収め、代わりに背負っていた鉄製のボーガンを両手に構える。
そのボーガンには既に鉄の矢がセットされていた。
「逃がさねぇぞ! 臆病者め!」
そう言うと、少女の身体の下の一見何もないように見える空間に向かって鉄で出来た矢を放った。
「ぐっ」
ボーガンの矢が太腿に突き刺さり、ボウストの口から苦痛の声が漏れる。
だが痛む脚を引きずり尚も森の中を走った。
「させるかっ」
今度は少女の身体に狙いをつける。矢が見る間に少女に迫った。
「ぐわっ!」
だが、苦痛の声を上げたのはボウストだった。
ボウストは矢の反動で前のめりに倒れ込んだ。背が焼けるように痛む。ニ発目はボウストの背に命中していた。
一方、少女は倒れた勢いで放り出され、目の前の崖へ向けて転がっていく。
「きゃああぁぁ!」
少女は慌てて手を伸ばし、見えないボウストの服を掴んだ。
しかしボウストは既に気を失っていた。力ないボウストは少女に引きずられ、共に崖の急斜面を落ちて行った。
「ボウストォッ!」
魔族は崖に走りより、転がり落ちていく少女を見つめた。
ボウストの使った魔法の効果は、ボウストが気を失った後も消えていない。
「一緒に落ちやがったか?」
辺りを執拗に探し回った後、魔族はもう一度崖下を確認した。
そこには、既に少女の姿も見えない。
「ちくしょう! 奴の身体は必要だ!」
魔族の軍団長が出している条件は、生死を問わずボウストの身体を差し出す事だった。
ニ本角の魔族は慎重に崖を下り始めた。
ボウストは暖かな光で眼を覚ました。目の前で、先程の少女が傷の手当てをしている。
「あ、お目覚めですね。今、治療をしているところなので動かないで下さい」
少女はボソボソと呪文らしきものを唱えていたが、ボウストには聞き取れない。
だが少女の掛ける魔法は心地良かった。傷があっという間に塞がっていく。ボウストは黙って、少女が回復魔法を掛け終わるまで見守っていた。
少女は既に自分にそれを掛けたらしく、痛々しい傷は見当たらない。しかし、ボロボロに擦り切れドロだらけになった服が、崖から落ちた事を物語っていた。
ボウストは一度崖を見上げ、その後少女に目をやった。
年齢は十六、七と言ったところか。ピンク色の髪。服装はジーンズに白っぽい長袖のブラウス、あと小さな鞄。
回復魔法を唱えられると言う事は、職業が司祭の冒険者だろうか? その割りにはかなりの軽装で、しかも若い。
魔法の効果で痛みも去り、ボウストは自分の身体を確認した。
黒いマントはめくれ、肘から先の無い右腕が痛々しく見えている。ボウストは目をしかめると、左手でマントを動かし身体を覆った。
「再起不能なんて嘘ですね」
目の前の少女は言った。
ボウストは何の事だか分らずに少女の次の言葉を待った。
「世界は勇者ボウストの復活を待っています」
少女の言った台詞に、驚きと怒りを感じる。
「お前に何が分かる!」
そう言い放つと、ボウストは勢い良く立ち上がった。
だが失った体力がそう簡単に回復することはなく、足元のおぼつかないボウストは近くの木に寄り掛かるだけに留まった。
「私は秋留。近くの村に住んでいます」
「頼むから、俺の事は放っておいてくれ」
ボウストが秋留と名乗った少女の前から立ち去ろうとした時、比較的近くの場所で草の根を踏み分けて進んでくる足音を聞いた。
ボウストは身を低くし、辺りを窺った。秋留も場の緊張感に気づいたのか、同じようにその場で体勢を低くする。
先程のニ本角を持つ魔族の姿が、二人の視界に入った。
「なんてしつこい奴だ。一体、俺の首にはいくらの懸賞金が懸かっているんだよ……」
「きっと眼の色が変わっちゃうくらいですよ」
秋留は悪戯っぽい顔で言った。
この緊迫した状況下でも冗談を言える、秋留の余裕ある態度にボウストは少し安心した。
「お前に透明になる魔法を掛ける。今度はさっきみたく、大声で叫んだりするなよ」
小声でそう言うと、インビシブルの魔法を掛けた。
秋留の姿が瞬く間に透明になっていく。
完全に透明になったのを確認すると、ボウストは自分にも魔法を掛けた。
「ちっ、どこに行きやがった、ボウストめ!」
魔族は鋼の剣を構え、辺りの木の陰や草むらを調べながら歩いていた。
しかし一向にボウストの姿を確認する事が出来ない。
「インビシブルか。厄介な魔法を覚えてやがる……」
暫く魔族はその場で立ち止まり腕を組み考えにふけった。
そのすぐ隣には透明になり息を潜めているボウストと秋留が居た。
「出直す必要がありそうだな……」
魔族はそう言うと、その場を立ち去っていった。
それから暫くしてボウストの魔法の効力が切れ、二人は再び姿を現した。秋留は落ち着いていたが、ボウストは極度の恐怖のためか顔に大粒の汗をかいている。
ボウストは静かに立ち上がり秋留に背を向けた。
「これが今の俺の姿だ。勇者ボウストは再起不能になったんだ」
「魔族が怖いんですか?」
先程冗談を言った時の秋留の顔とは違い、今は真剣そのものだった。
「そうだ。敵と戦う事が怖くて仕方が無いんだ……」
「なら、どうして私を助けたんですか?」
秋留の台詞にボウストは思わず振り返る。
反論しようとしたボウストを制し、尚も秋留は話続けた。
「魔族が私よりボウストさんを狙う事は、最初からわかっていたのに。ボウストさんは自らを囮にする事で、自分の命を懸ける事で、魔族と戦っているんじゃないですか?」
ボウストは何も言わなかった。
「ボウストさんは魔族への恐怖心に負けてません。負けていたら囮なんていう危険な真似が出来るはずがない」
秋留の一方的な言葉の後、暫く沈黙が続いた。
ボウストは秋留の言葉を心の中で反復した。
「俺は臆病者なだけだ。自分の命を絶つ事が出来なくて、ただ逃げ回っているだけの、臆病者だ!」
ボウストは再び秋留に背を向けた。
「俺に関わるとロクな事がない。無関係なお前を巻き添えにしたくはない。俺の事は放っておいてくれ」
「あの、ごめんなさい。余計な事を言ってしまって」
ボウストは秋留の言葉に答えずに歩を進めた。
「もし良かったら私の村で休んでいきませんか?」
秋留はボウストの態度を特に気にせず、背中に向かって語りかけた。
「俺を狙う魔族がいる限り、町や村に長居するつもりはない」
「少しの間でもいいんです。食料の調達なども必要でしょう?」
ボウストは小さく溜息をつくと、残り少なくなった食料の事を考え、秋留の村に立ち寄る事にした。




