紀行・一乗谷/武家屋敷 ノート20150419
武家屋敷跡
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よく保存されているとはいっても、土台部分しか残らないのがふつうだ。鎌倉の寺社仏閣のように建物が完全に残っているという性格のものではなく、見学者はパッと見、なにがなんだか判らないだろうし、面白みがない。そこで、研究者たちは土台部分や出土した遺物の図化と写真撮影をして記録する。その上で、当時の絵図、図面、宮大工の意見をまじえつつ、立体的にどうなっていたのかを再現してゆく。
一乗谷の武家屋敷は三十メートル四方の空間に建てられているのが標準的だ。
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武家屋敷の通り
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土塀の先に門がみえるのでのぞいてみたい。
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屋敷内部から門のむこうの通りをみる
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通りから門をくぐると、井戸を中心とした空間が目につく。正面にあるのが蔵。左手が納屋あるいは使用人用の離れのような施設にみえた。右手が母屋だ。これらの建物は、いずれも板ぶき屋根になっている。
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井戸まわり
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通りに面した門を背に井戸左手にある離れ
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同じく井戸の奥にある納屋
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同じく井戸の右手にある母屋
母屋内部の客間
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屋敷の主が訪問客と将棋をさしている。よくみると奥にある寝室側と、左手の縁側のふすままがはめこまれた一間の間に、邪魔くさい柱がそれぞれツッカイ棒のようにはめ込まれている。これは政敵などの刺客が突然襲ってきたとき、柱が邪魔でいきなりは斬りこめない。僅かな隙の間にこちらは、手元の得物を引き抜いて応戦できるというものだ。
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囲炉裏の間
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居間の奥には厨房を兼ねた囲炉裏の間があり、土間から勝手口にでれば、そこから井戸のある空間にでられる。
閑話余談。
中世は寒冷期だった。こういう時期は条件のよい耕作地、水利権を巡って抗争する。食べ物に限りがあるもので栄養状態が悪く、総じて体型も変質した。古代・近世以降の日本人は球形に近い頭蓋骨をしていたのだが、栄養状態の悪い中世はアフリカ人に多いとされるラクビーボールのような頭蓋骨をしていた。子供は十人産んで一人がどうにか成人に達するという状況だった。……この事情は、数年前に聴講した日本考古学協会大会での聞きかじり。遺跡調査で出土した人骨を分析した医師や専攻する研究者の話による。
ノート2015.04.19/取材2015.04.02




