紀行・一乗谷/町屋の景観 ノート20150418
一乗谷遺跡・町屋復元模型 南から撮影
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国立歴史民俗博物館研究員で後に副館長となる小野正敏先生の講義を聴講したことがある。記憶が正しければ、以下の通りだ。十五世紀から十六世紀にかけての百年間、いまの福井県北部にあたる越前国を支配していた朝倉氏。その都城をなす一乗谷は当時の京都の街並みを意識して造られているという。南北二箇所にある谷間の出入り口を「城戸」と呼ばれる城門・土塁で閉塞し、内部を都市空間にしている。実をいうと、「城戸」内部のほかに外部にも市域は広がっていた。内部は市民層というべき、上級武士や御用商人たちの店舗が建ち並んでいる。比較的大きい敷地だ。ところが外部はというと、数メートル四方の一人、二人がようやく寝起きできるような店舗や工房を兼ねた小さな住居が溢れ出ていた。町が栄えるにつれ集まってきたよそ者、あるいは、「城戸」内部の人口増加にともなって、「城戸」外部に押し出されてしまった人々が住んでいたと考えられている。
写真は街並み復元地区内にあった展示室にあった模型だ。右側が東で、西にむかって順に一乗谷川、川沿いの大通り、町屋、武家屋敷となっている。
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同模型 北から撮影
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街並みを北側から観てみよう。左手が石の重しがある板ぶき屋根の町屋、右手が武家屋敷の塀だ。町屋は通りに戸口をむけている。
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復元された街並み 南から撮影
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そうそう。この時代の人たちは絹や木綿の衣類をつけることは稀で、大多数は青苧と呼ばれる繊維で織った布をもって着物としていた。――いまの新潟県にあたる越後国産がブランド品で、十一か国で義戦を繰り広げた上杉謙信の潤沢な資金源となっていた。そのあたりの事情は『新潟県史』に詳しく書いてある。
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町屋 南から撮影
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前の写真から奥へ進んでみると茶屋や鍛冶屋の暖簾がはためいていた。
この時代の陶器は能登半島の先端にある公卿の日野家の荘園があった珠洲市で焼かれた珠洲焼、地元産の越前焼、朝鮮半島産の陶磁器類が市井に出回っていた。日本海や河川を往来する交易船により、思ったよりも遠くの物資を日常品にしていた。
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発掘された状態での町屋 南から撮影
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街並み復元地区の北側あたりだ。割れた甕の底の複製が並んでいる。蔵か家の土間のようなところに、穴を穿って甕をすえたわけだ。恐らくは酒とか味噌とかの貯蔵していたのだろう。……昔、群馬県の中世の城下町と考えられる遺跡を調査していた際、葡萄の房を石膏で象ったような穴がぼこぼこ開いた状態になっているのをみつけた。最初は家の建て替えでできた年代の違う複数の柱穴だと考えていたのだが、後に専門書を読んでいると、図解つきで、一乗谷の例が示されていたのを思い出した。
ノート2015.04.18/取材2015.04.02




