紀行・一乗谷/城戸 ノート20150416
一乗谷概略図(※南北の天地が逆表示)
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舞鶴にゆく途中、私は福井県にある有名な国の史跡・一乗谷に立ち寄っている。
福井県は、古来の越前国と若狭国によって構成されている。若狭国の側にある越前国。そこにある一乗谷は、一四七一年(文明三年)から一五七三年(天正元年)の一世紀にわたって、戦国大名朝倉氏が領国の都城としていたところであった。朝倉氏にとって旧来の支配地で治めやすかったこと、当時の街道近くにあったことから、あえて山間部に築かれている。
屏風のような南北二列に並ぶ尾根筋の谷底に一乗谷川が南流し、足羽川に注がれているわけだが、一乗谷川・谷筋に沿った南北の狭まった入り口に「城戸」と呼ばれる高い土塁と門を築いて都市の防御施設としている。その二つの門の間である一・七キロからなる谷底平野に、に、びっしりと、領主居館・一門・家臣団邸宅、および庶民の町屋が整然と建ち並んでいる。
中世最大級の城下町・一乗谷は、織田信長の軍勢が攻め入ったことで灰燼と化したわけだが、山間部の城塞都市ゆえに、織豊政権期以降、再建されることがなかった。そのため、逆に、火山噴火で灰に埋まったポンペイのごとく、かなり良い状態で往時の遺構がパックされたというわけだ。
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北の城戸「下城戸」
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北の城戸「下城戸」の土塁は失われ、門だけが残っている。門は石垣を積み、敵に内部をみせず、なおかつ、敵が攻め込めば周囲に配した伏兵が四方向から襲い掛けれる空間をもった構造「枡形」になっている。中国に起源をもち、日本では戦国時代から本格導入される。――それが整備されていた。
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南の城戸
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北の城戸「下城戸」と逆に、一乗谷川を溯った上流・南の城戸「上城戸」は、土塁が残り城門が消滅している。土塁は版築技法で構築される。粘土のつぎには砂礫という具合に性質の異なる土を互層状に敷いて衝き固めつつ数メートルの高さまで盛り上げて城壁とするものだ。
ノート2015.04.16/取材2015.04.02




