紀行・城崎/志賀直哉の宿 ノート20150415
久美浜湾
丹後半島のつけ根にあたる三一二号線を天橋立から西にどこまでも車でゆくと、丹後半島海岸道である一七八号線に合流する。そのあたりにあるのが久美浜湾だ。湾とはいっても、砂州である「小天橋立」によって海と湾とが隔てられ、実質的な潟湖になっている。カヤックをしている人たちが多くいた。湖の南端をかすめて北西にむかう。曲がりくねった坂になった県道を突っ切ってたどりついた丸山川。そこの谷筋をくだってゆき、海にでる少し手前に、城崎がある。
鴻の湯
駅方向から車できたが、川筋の道をくだってどこまでいっても駐車場がみつからない。もしかしたら停めるところがないかもしれないと思いつつ奥へ奥へとむかう。
そこは大谷川が市街地の真ん中をちょろちょろ流れる谷間に開けた温泉街で、興醒めするホテルタイプの鉄筋コンクリートビルではなく、木造の古い宿が建ち並び、驚くほど古い景観を保っていた。宮崎駿のアニメ『千と千尋の神隠し』にでてくるような温泉宿まであった。するとようやく市営駐車場があり、鴻の湯という日帰り湯屋をみつけた。
温泉開湯伝説では、野生動物・野鳥が温泉につかっているのを山奥に分け入って発見したとか、聖人が杖で地面をつついたところ湯がわきでたとかいう話はよくきくところ。猿は湯に入るが最近のことなので怪しげだ。足を痛めたコウノトリが湯に入って……。しかし大戦中、傷病兵専用の療養所になっていたという話だし効能はかなりあるのだろうなあと感じた。
せっかくきたのだから湯につからない手はない。……率直な感じ、実家のある田舎の温泉・常磐湯本温泉は硫黄臭く、よくも悪くもそれが当たり前になってしまった私には物足りず、なんだか、自宅の沸し風呂のような匂いすらした。水道が普及していない時代、そういうクセのない湯こそが、大名・志士・文豪がわざわざ立ち寄った美湯というものなのだろう。
温泉寺
湯屋の番台をやっている女性係員から、志賀直哉が宿泊した場所をきいて、歩いてみる。車できた道を戻る感じだ。故郷の常磐湯本温泉には温泉神社なる平安時代の神社番付表『延喜式』にも記された古い名刹だが、ここの温泉寺も一千以上も前から親しまれている証拠だ。
外国では、浴衣姿でホテル通路を歩くのはマナー違反なのだというのだが、ここでは盛装としているところが面白い。いまは昼であるが、「……今宵あう人みな美しき」与謝野晶子の短歌にあるように、川の両脇にある石畳の散策路横に植えられた桜並木の下を歩く人々は優雅にみえた。
司馬遼太郎と桂小五郎の宿・つたや
車でどうにか対面通行できる狭い街路に建ち並ぶ古い温泉宿。真新しい石碑があったので読んでみると司馬遼太郎が宿泊し、作品『坂本竜馬』に登場する明治の元勲・木戸孝允こと桂小五郎のエピソードを執筆していたとのことだ。一八六四年に勃発した京都・蛤御門の変に失敗した長州藩のリーダー桂小五郎が、江戸幕府から追われる身となり、つたやに潜伏することになる。通りすがりの見学者である私は中に入らなかったのだが、隠れ家というにはまさに相応しい、気取りのない素朴な外観に思えた。
志賀直哉の宿・三木屋
三木屋も外観だけ見学、中には入っていない。
今回のオプション旅行を思い立った志賀直哉の私小説『城崎にて』。――そのかきだしは、
「山手線の電車に跳飛ばされて怪我をした。その後養生に、一人で但馬の城崎温泉へ出かけた。背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんなことはあるまいと医者に云われた。二三年で出なければあとは心配いらない。とにかく要人は肝心だからといわれて、それで来た。三週間以上――我慢できたら五週間くらいいたいものだと考えてきた」
というものだ。……冒頓なでだし。虚飾のないそのまんまの説明書き。
ストーリーが進んでゆくと、誰かに川に突き落とされた鼠が死ぬまいとあがく残酷描写、偶然に自分が投げた石が当たって死ぬ川のイモリの描写ときて、作家が経験した電車事故がまさに、死と隣り合わせ・紙一重の瞬間であったことをしみじみと述懐するという内容だ。三週間耐えられたら五週間滞在しようという考えだった志賀は、けっきょくのところ三週間いて東京に戻る。なにやら悟りを得たようなふうにも感じられる。
舞鶴を基点にした片道八五キロの旅は、実をいうと半日の日帰りだ。これでは「さわり」を会得しただけで、良さというものが判らない。いつか数日、どっぷりと湯につかってみたいものだと思った。
ノート2015.04.15/取材2015.04.05




