紀行・舞鶴/田辺城 ノート20150411
京都府舞鶴市・田辺城。
舞鶴城の別名もあるこの平城は、十六世紀第四四半期に、室町幕府最後の将軍・足利義昭の近臣で、織田信長にも仕えていた、細川幽斎功績によって丹後国を与えられ、居城として築いたことで知られている。隠居後は忠興を入城させ、自分は宮津城に移った。しかし、
一六〇〇年(慶長五年)、関ヶ原の戦いにおいて、息子・細川忠興が、徳川家康派・東軍につくと、石田三成派の軍勢・西軍一万五千が押し寄せた。主力を戦場に連れていった細川方の軍勢は五百。五〇日の籠城の末、開城することとなる。細川藤孝は古今集の相伝者であったため、御陽成天皇の仲介があって、開城し一命をとりとめる。
この間、大阪屋敷に詰めていた、忠興夫人にして明智光秀の娘でもあるクリスチャン・細川ガラシャの自刃が、多くの大名を憤激させ、東軍に走らせることになる。
江戸時代になると細川家は九州に大領を得て入封し、跡地には、これまた室町幕府以来の名門・京極家が入る。京極家はやがて封国を三分割し、本家を宮津に置き、次男と養子に、田辺城のある舞鶴と、峰山にそれぞれ分藩させた。その後、一六八八年(寛文八年)田辺京極家は転封となり、代わって牧野氏が田辺城に入封し、維新を迎え、建物が取り壊され、石垣・土塁の一部が残った。
堀割は明治以降の市街化造成により地下に埋没した。近代のモノクロ写真には、本丸の石垣と土塁が水田の真ん中にポツンと立っている風景が、再建された二層の櫓内にある資料館に展示されていた。
田辺城は、西舞鶴駅から北に歩いて数百メートル先にある。
ノート2015.04.11/取材2015.04.05/校正2016.08.28
田辺城城門
田辺城本丸




