随筆/女神・徳姫を推理する ノート20141005
Ⓒ奄美剣星「徳姫」2008年
拙作「自作画集」より転載 ncode.syosetu.com/n2873br/42/
女神・徳姫を推理する
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二〇一四年十月五日土曜日・昨日は村の鎮守の宵祭りに氏子として参加した。村とはいっても明治時代の市町村合併でとっくに消えているわけだが、共同体の残滓のようなものが残っているのだ。
祭りの準備をしたあとは宴会になり、そこで、神社の祀神である女神について話題になった。それは徳姫という平安時代末期にいたというミステリアスな女性だ。
源義家の異母妹で、奥州藤原氏の養女となり岩城国主の岩城則道公に嫁いできて、夫が亡くなると彼を供養するために白水阿弥陀堂を建立したといわれている。
白水阿弥陀堂は、現在国宝に指定されている中尊寺金色堂を雛形としてつくられた寺だとされてきた。
ところがだ。
シンポジュウムを聴講してきたという氏子の方が、徳姫とされる女性が嫁いできたという伝承をもつ地域が東国に十か所もあり、白水阿弥陀堂を建立したのも岩城氏ではなく、同時代に岩城氏所領の南隣を支配していた同族の岩崎氏によるものではないのかという話をきいた。
レジメをお借りして読んでみる。
それで、問題の徳姫とは何者なのかというので、いろいろ書いてある。各史料・縁起・伝承を時系列別に整理してみた。
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第一説。源義家公の異母妹で奥州清原氏の真衡公の養女となり、同じく、養子となった平成衡と結婚。後三年の役という清原氏お家騒動に巻き込まれて行方不明になったという史料。夫妻が落ち延びて落ち着いたという地が複数ある。
第二説。同じく源義家の異母妹で、奥州藤原氏の初代清衡公の養女となり、海道太郎平成衡と結婚したという史料。
第三説。二代目の基衡公の養女となり岩城氏に嫁ぐ。岩城氏(平氏)の誰が夫になったかというと、隆行・則道・成衡のいずれかだという民間伝承。
第四説。奥州藤原氏の初代清衡公の娘が二人おり、常陸国の佐竹氏(源氏)と岩城国石川氏に嫁いだという史料をもとにしている。この娘のどちらかが徳姫ではないのか。
第五説。二代目基衡の弟・清綱に二人の娘がおり、信夫佐藤氏と石川氏にそれぞれ嫁いでいるという史料。このうちのどちらかが徳姫ではないのか。
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最後に、諸説をまとめた私見を述べさせていただきたい。
中世のお寺は現在と違って、欧州のキリスト教会の礼拝みたいに庶民があしげく通う場所で娯楽施設でもあった。説法のあと、お坊さんたちは、ファンタジックに脚色した物語・説話をして信徒を楽しませたものだ。
信徒である貧しい民衆は、富と仁徳を意味する女神の降臨を切望した。
当時の女性たちは、「○○の女」と家系図に記され、実名は書かれない。ならば、徳姫という名前はどうだろう。
そこで、豊かなる奥州藤原氏、武家の棟梁たる源・平両氏にも連なるサラブレットなスーパーレディー徳姫が誕生した。その説話には、実在の人物やバックグランドに史実も加えてあってリアリティーがでていた。
たまに古代貴族出自の本物の名家も存在するのだが、中世後期にいた大半の武士の出自は百姓からのしあった新興豪族「悪党」だった。それで各地の大名・豪族たちは、お家の箔を高めるため、膨大な資料を駆使して捏造家系図をつくりだす系図屋に依頼。系図屋はせっせと家系図をつくりだす。その際、源平藤橘といった名家の系譜を主軸に、あの、ご当地アイドルの名を加えることを忘れなかった。
他方、岩城氏ではなく、白水阿弥陀堂を建立したのではないかとされる岩崎氏は十五世紀に白土系岩城氏による岩城国統一運動のなかで消滅したらしい。……この名刹を誰が建立したかは別として、十五世紀以降、けっきょく岩城氏が管理することになった。
平泉にある寺院そっくりな白水阿弥陀堂の存在は有力な物証といえた。岩城氏の開祖は岩城則道公だということになっている。ならばこの人の妻という設定はどうだろう。……説話をするお坊さんはそんなふうに脚色した。
そして、他の地にあまたあった徳姫伝説を圧倒し、あたかも史実のように語られてゆく。
いわく女神・徳姫は、川の難所に橋をかけ、あまたの寺社を建立し、彼の地に富と慈愛を施した。
以上が私の推理。
END