随筆・ざっくり考古学13/カタパルト&生物兵器
弓矢を機械仕掛けにしたものを、石弓あるいは弩という。石弓に台座をつけ大型化したものをバリスタという。
他方、投石器というのがあった。バリスタの技術の転用で、シーソーの片側に重しをつけてもう片方に大きなスプーンをとりつける。スプーン側に紐をくくりつけておいて、大勢からなる人力で地面まで下げ、石弾を載っけたところで、紐を離す。すると重しが勢いよく地面に落下。石弾は飛んでゆき城壁を粉砕することになる。
中国だと2400年前、欧州だと2300年前あたり・古代マケドニアで登場する。カタパルトは、大砲がつかわれる700年になってもまだ使われていた。攻城戦の際、大砲の性能がいま一つだったので、安定した性能を誇るカタパルトが併用されていた。
700年前といえば14世紀で、英仏百年戦争が行われ、イタリアでルネッサンスが始まるころだった。次の15世紀になると東ローマ帝国が、オスマン・トルコ帝国に攻め込まれ滅亡する。そのあたりでの話だ。
攻城側はなんと、スプーンの先に、疫病で死んだ人間や家畜の遺体を載せ、籠城側の市壁内に、バンバン放り込んでいった。効果のほどは定かではないのだが、雲南省からモンゴル軍が持ちこんだペスト菌、天然痘ほかさまざまな病原菌が蔓延したのは、この手の生物兵器を使用したからなのかもしれない。
1988年に星野之宣が集英社の漫画で発表した『妖女伝説・ボルジア家の毒薬』のエピソードのなかに、背徳のローマ教皇アレクサンデル6世とその私生児チェザーレ・ボルジアに関するエピソードがあり、ボルジア家の毒薬とはペストだとしている。ただし、1984年に、作家・澁澤龍彦が河出書房で発表した『毒草の手帳』は豚の血を腐らせてつくった屍毒系の毒薬だとしている。澁澤の資料は、引用参考文献をだしていたので、こっちのほうがもっともらしく感じる。
15世紀、東ローマ帝国首都コンスタンチノープル(ビゼンチン)がオスマン・トルコ帝国によって陥落する前後、現ルーマニア南部にあった東ローマ帝国傘下にあったワラキア公国は、トルコに降伏するのだが、扱いが酷かったようで、何度か叛旗を翻していた。大胆なヴラド3世は寡兵でトルコ軍をよく破った。その際、敵の戦意を削ぐために、戦死者・捕虜を杭で貫いて国境線に並べていた。さらにヴラド3世は、国内で疫病になった者たちをみつけると、「どうせ死ぬなら敵国で死んでこい」と命じて、敵地に送った。結果、トルコは疫病が蔓延。ヴラド3世が暗殺されるまで、バルカン半島より奥は侵攻できなくなった。この人らしいエピソードだが、史実かどうかは不明だ。お気づきのことであろう、ヴラド3世は、吸血鬼ドラキュラのモデルである。
その後、250年前である18世紀半ば、北米を舞台に、フランス軍と先住民が手を組んでイギリスと戦ったのがフレンチ・インデアン戦争が起きた。双方の凄惨な殺戮の最中、イギリス軍が、先住民に疫病患者がつかっていた毛布を渡して、伝染病を流行らせたという噂があるのだが、真偽のほどは判らない。
もっとも保菌者が新旧大陸を往来。500年強である15世紀末からの大航海時代以来、旧大陸には性病「フランス病」が蔓延し西欧人は共同浴場に入らなくなりしばらくすると体臭を消すために香水が発達する。新大陸ではコロンブスやらピサロが率いてきたスペイン兵たちが天然痘ほか各種疫病を新大陸にもちこんで、数千万いた先住民を数十万に減らした。……これは意図的な兵器ではなく結果論。
人類史のなかで、生物兵器による大っぴらな作戦で戦果を得たという報告は、幸いにして現在のところ皆無である。
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