随筆・ざっくり考古学12/塩について
塩はいかようにしてつくるか?
もっとも手間要らずは、岩塩という鉱山から切り出す方法だ。しかし岩塩がない地域もある。そういうところでは、海・湖・地下水脈から塩水をくみあげてから煮沸する方法が採られる。
紀元前三世紀、カルタゴの将軍・ハンニバルに追い詰められたローマ共和国は、まともにハンニバルと戦うのを避けて、彼の軍団が通りそうな町はさっさと撤退して、郊外の農地には農作物が実らぬようにたっぷりと塩をまいた。効率から推測して、これは岩塩だろう。
さて。
古代日本では海水を煮沸する方法が主流だった。海水に何度も何度も降りかけて結晶を作り出し、土器に突っ込んで焼く「藻塩焼」という製塩方法が採られていた。それが中世である鎌倉時代に、中国から伝わってきた塩田法が主流になる。古代ローマや中国にもそいう施設があった。
塩田は水田のような貯水槽施設をこしらえて、塩水を流し込み、天日で乾かす方法で、ユーラシア大陸・アフリカ北岸では主流になっている。
中国の場合だと、解塩・海塩・井塩・土塩と呼ばれていたものがある。土塩を除けば製塩方法はみな塩田法を採っている。
まず解塩というのは内陸部である山西省解県産の塩だ。解池というイスラエル・ヨルダン国境にある死海みたいな濃塩水湖があり、そこの塩水を塩田に引きこみ、天日で乾かす。
海塩は中国海岸地帯のどこでも採れる。
井塩は地下水脈の塩水で、四川省あたりでやっている。
土塩は西海省のような内陸部で、塩水湖が干上がって塩鉱床化したところだ。採掘者は稀に青白い塩をみつけると、皇帝に献上したものだ。見た目にも綺麗でとても美味しいので瑞塩と呼ばれ珍重された。
中国歴代王朝は解池の解塩を専売にしていたのだが、割高で、やや美味しくなかった。中世・唐王朝末期に起きた「黄巣の乱」は、茶とともに塩の専売をしようとする政府と、その他の方法で製塩した闇塩密売業者が流民をかき集めて起こした大叛乱で、結果、唐は滅亡することになる。
再び話を欧州に戻す。
欧州の岩塩は圧倒的にドイツ産が占めている。2003年の世界岩塩生産量は、第1位が米国1630万トン、第2位がドイツ1500トン、第3位がイタリア300万トンとなっており、第1位アメリカには僅差で、第3位イタリアには大差をつけている。
中世ドイツ=神聖ローマ帝国に、ハプスブルク家中興の祖と呼ばれるマクシミリアン一世という皇帝がいる。この人は、街道が交差し、銀と岩塩を産したオーストリア・チロル州・インスブルクに宮廷を構えた。この人の孫・カルロス5世の治世での同家支配地域はスペインを獲得したことから新大陸にまで版図を広げていた。金銀採掘で潤った新大陸と同じ収入があったのが、商工業地帯でベルギー・オランダ・ルクセンブルクにまたがり、さらにフランス東部国境地帯を加えたフランドル地方とも低地地方ともいわれた一帯。そしてチロル州だった。
マクシミリアンの妃・マリーが亡くなると、名目的な統治者だったマリーを慕う民衆はマクシミリアンを排除したいと願った。反マクシミリアン勢力は、息子フィリップと娘マルグリットを誘拐。マルグリットをフランス王太子シャルルの妃として売り渡した。その後マクシミリアンは特殊部隊を送り込んで姫君の奪還を試みたのだが、緻密なフランス諜報網の前にすべて頓挫した。意を決したマクシミリアンは、ドイツ傭兵ランツクネヒトとスイス傭兵の6000名を率いて、フランスが占領していた国境地帯・サランという町を奪回。そこを拠点に20000近いフランス正規軍を撃破してしまう。
サランは井塩の町だ。
欧州人は、なにゆえ塩に人は固執してきたのか? 莫大な富を生んだ理由はなにか? 塩は調味料というだけではなく、冷蔵庫が発明される以前は、肉の保存にはなくてはならない存在だったのだ。せっかく牛や豚を屠殺しても、塩の需要が追いつかなくて、腐らせてしまったという事例はいくらでもある。それだけ切実だった。
閑話余談。
和製英語「サラリーマン」の語源は、英語の“salaried man”とのことで、“salaried”は“saraly”の形容詞形だ。もともとはラテン語の“salarum”からきていて、頭についていた“sal”は英語の“salt”になった。古代ローマ兵の給料は塩で支払われていたのだそうだ。
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