随筆・ざっくり考古学10/車輪&馬
採掘坑から粘土の塊りをとってきて土器をつくるとき、まず輪積みをする。少し時代が進むと、木葉や布、御座のようなものに載せ、地面を回転させていた。ところが8000年前にロクロが発明された。現在、ロクロを発明したのはうちだと、主張しているのは、メソポタミア、エジプト、中国であるが、ミソポタミア南部に興ったシュメール文明がもっとも有力視されている。ロクロは、円盤中央に孔を穿ち軸木を突っ込むことで、円盤を回転させる原理で、スムースに土器を成形できるようになった。
――ロクロ盤を地面で転がしてみたらどうだろう?
子供が車輪転がしのような遊びをしているうちに、荷台をつけてみたら、重たいものを運べるに違いない――なんて考えたのかもしれない。
7000年前、ロクロ発明を受けて車輪が発明され、6000年前には荷車にが発明される。
新石器時代末期から青銅器時代初期のことだ。
他方で。
中石器時代から人間はさまざまな生き物を家畜化していった。まずは犬。新石器時代からは猫。それらで動物を飼うノウハウを覚えると、山羊・羊・豚といった獣、鷹、鶏、アヒルといった鳥類、そして蜂や蚕まで家畜化してゆく。狩猟の助手、象・馬・駱駝・リャマといった乗り物としての家畜はけっこう後になってからだ。このうち馬は6000年くらい前から飼育されるようになった。最初は食糧だったが、やがて、乗り物として使われるようになる。直接背中にまたがるのではなく、同じころ発明された荷車を牽引させてみたのだ。
馬車が使われるようになるのは5000年前あたりからだ。メソポタミア南部の世界古の文明・シュメール文明の壁画には、往時の戦闘用馬車=戦車が描かれている。ロクロと馬車は瞬く間に、ユーラシア大陸のほぼ全域と北アフリカに広まった。
3500年前から3200年前にかけて現トルコ領・アナトリア地方に起ったヒッタイト帝国は、新兵器である鉄器を携えた戦士が戦車に乗っかり、中原たるメソポタミアと、西華たるエジプトを征服してしたが、やがて天災と内戦で荒廃したところを、海賊民族「海の民」にとどめを刺されることになる。
3700年前から2200年前にかけて、カスピ海に臨んだウクライナでは、騎馬民族・スキタイ帝国が栄え、後に勃興するギリシャ文明と小競り合いをすることになる。建国時の様相は判らないが恐らくは戦車を活用していたのだろう。それがいつしか直接馬に乗ることを覚えるようになってきた。
3500年前、西アジアから欧州に乱入し、一時は欧州の森林地帯を席巻したケルト人たちは、青銅と戦車をつかい、ストーンヘンジや支石墓などといった巨石文化をつくっていた、先住民たちを全滅させ、「妖精族は妖精の国にゆきました」と神話で述べることになる。
3000年前から2000年前の間に、直接馬に乗る部族が現れ、轡・鞍・鐙といった馬具が発達してくる。特に2400年前にインドで発明された鐙は画期的なものだった。それまでは両足を馬の腹にピタリと当てて乗る職人芸だったのを、少し訓練すれば誰でも乗れるようにさせてしまったのだ。
欧州にはケルト系であるガリア人が騎馬民族がいて、古代ローマ帝国の傭兵になっていたのだが、鐙は、南欧・東ローマ帝国にきてはいたものの、彼の地に伝わるまでには1400年前・西暦600年あたりまで待たねばならない。
殷・周時代の中国歴代王朝は、戦車戦術が主流だったが、2300年前である戦国時代の王侯・武霊王が、遊牧騎馬民族スタイルである胡服と騎兵を採用。やがて1700年前である南北朝時代である西暦300年代ごろに、鐙は東アジアにも広がった。
日本には1600年前ごろである西暦400年あたりに、馬とロクロが輸入された。古墳時代で、高句麗の好太王にコッテンパンに敗けた。それで慌てて購入したかも、という説を耳にしたことがある。往時の古墳や遺跡からは埴輪や馬具・馬骨が出土する。そのうち、輸入した馬には鐙も一緒についてきた。また一緒に輸入したロクロで緒元的な、釉薬をかけない灰色の陶器・須惠器を成形し、登り窯技術も輸入する。もれなく鉄生産技術までついてくる。そこで700年代の奈良時代あたりまで発達しなかったものがある。
車輪だ。
大平原がある大陸と違って、山がちな島国の日本では、都城の街路や、都城と地方を結ぶ街道が整備する必要があったからだ。650年ごろ、天智天皇による、本格的な中国・律令制導入によって、インフラを整備するのを待たなければならない。
平安貴族が乗っていたのは、馬車ではなくて、牛車だったけれど。
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