随筆・ざっくり考古学06/大器晩成の覇王、青銅器時代(5500年前)
青銅器時代
石器を作る際、炉の灰の中に石材を入れておくと、割れやすくなるということを5500年以上昔である石器時代の人たちは知っていて、石器をつくっていた。炉の温度は600度から900度というところだろう。鉄鉱石は1200度がないと無理で次の段階を踏まないとできないのだが、銅鉱石だと囲炉裏とさして変わらない鍛冶炉でも、十分に溶解を始める。こうして柔らかくなったメタルで、意のままに形を作れる。
そういうことを誰かが発見した。
鉱石を砕き、メタル部分を集めて、熱を加える。そうすることでさらに効率的に銅を精製してゆくことができる。錫を混ぜてやると強度が強まることも知った。錫を混ぜてやった銅を青銅という。
5500年前。
青銅器革命は、新石器革命がなされたところと同じ、メソポタミアからエジプトにかけてのあたりでなされた。
青銅器時代。デンマークの考古学者クリスチャン・トムセンは文字がない時代・先史時代をざっくりと、石器時代、青銅器時代、鉄器時代とにわけた。それが有名な「三期区分法」だ。後の科学の発展で、石器時代は700万年前から5500年前の間、青銅器時代は5500年前からヒッタイト帝国が鉄器で当時の世界を征服した3500年前直前までの間。以降が鉄器時代というわけだ。もちろん地域による時代差はある。
銅鉱石には副産物の鉱石があった。まずは金だ。そして、毒物である砒素なんかも混ざっていた。そういうわけで銅を精製すると砒素がでてきて、明治期日本の足尾銅山のように、鉱山下流は不毛の土地と化してしまう。
2万年前に起きた中石器革命・新石器革命によって、森林伐採技術を獲得で丸木舟の発明による漁業開始、農業・牧畜革命により人々に貧富の差が生じる。宗教が発生して神官たちは貧民をうまくなだめる。内部に矛盾を抱え込んだ氏族は隣の氏族を襲って富を奪って内部成員のガス抜きもした。つまり戦争も発明された。戦争が発明されると各氏族・各都市は、周囲に城壁を巡らすようになる。
都市・原始的な記号・宗教なんかも発明されてゆく。
そこにきて青銅器が発明されたことで、農業ほか各種生産力が飛躍的に向上。都市国家から人々が周辺の荒地に繰り出して村落をつくりはじめ、王様はそういう村々も自領に加えてゆき領土国家へと成長して行く。中原メソポタミア文明と、ローカル文明ながら優雅に花開いたエジプト文明なんかがこれにあたる。
都市国家段階では、なんとか把握できていた戸籍や穀物管理が、領土国家段階になると複雑膨大化して破綻しそうになった。そんなとき、神官たちが神様に上奏する記号列を、国家管理用に使い始めた。それが文字だ。
他方で。
青銅器時代が始まった。エジプト・メソポタミア地域から地中海を経由した諸文明だ。欧州最古の文明が5000年前から始まったギリシャの諸文明だ。ここでは、ご存知のように、哲学・舞台・芸術が発展した。
青銅器を用いたギリシャ諸文明は、初期が5000年前と、中・後期が4000から3000年前にあたる。
初期は、エーゲ海に浮かんだクレタ島・ミノア文明が始まる。エジプトを交易して巨万の富を得て宮殿を築く。未解読ではあるが文字も発明している。ここの文明は3500年前のサントリーニ島・火山爆発と、災害につけこんだ海賊軍団「海の民」の侵略で壊滅した。島であったためか城壁がなかったというのも、瞬く間に滅んだ一因である。
それ以後はギリシャ本土に文明の舞台は移り、ギリシャ半島の先端部・ミケーネ半島でミケーネを中心とした諸都市が発達し、覇権を競い合うようになる。ミケーネ文明は城壁を都市に巡らした。しかし繁栄は長く続かず、3200年前から3100年前の間に、異民族の侵略を受けて壊滅した。
そしてギリシャ本土・ドーリア人系に覇権が移り鉄器時代になってゆく。
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青銅器時代の、個人的に、気になるエピソードがあるのが、2800年前くらい前の中国・春秋戦国。揚子江地域一帯の覇権を確立した楚の国が、実質・小国に転落した周王朝の都城・洛陽に軍団を進めて包囲し、国王に禅譲を迫った事件がある。
楚侯は王を僭称していた。荘王を名乗っていた若く野心的な青年は、即位したてのころ、有力大臣・若傲氏一門が宮廷での実権を握っていたため、目立った動きを避け、日々どんちゃん騒ぎの宴を催していた。相手に馬鹿だと思わせ、油断させていたというわけだ。国を憂いだ臣下たちが殺されるのを覚悟で諌めにゆく。そのときにだされたクイズだ。
「立って三年間鳴かず飛ばずの大鳥がいます。それはなんでしょう?」
「おまえのいいたいことは判る。大鳥とはこの自分のことをいっておるのだな。だがその大鳥がひとたび咆哮すれば大地を揺るがし、羽ばたけば旋風を巻き起こすことだろう」
みんなで馬鹿だと思ていたらとんでもない英雄だったということが後で判る。――「大器晩成」のモデルはこの人だ。
やがて。
辺境蛮族討伐の名誉指揮官を買ってでた荘王は、ちゃっちゃと仕事をこなし、さらに軍勢を北に進めて、深い森林地帯を突破して、周帝国の都城・洛陽に忽然と大軍を出現させた。
さて。
都城から全権大使として対応にでてきたのが王孫満という貴族だ。
会見場所となった陣。
若い荘王が使節にいう。
「周王家には王位継承の証し・九鼎なる国宝があるときく。楚に譲らぬか?」
「確かに周室は衰えていますが、天命はまだ変わっておりません。第一、貴国・楚はまだ中国全土・九つの州を一統なさっておりませんよね」
「なるほど。それなら、九州を併合したのち改めて国宝を戴きに参ろう。……しかし王孫満よ、忘れるな。わが楚は、古びた青銅剣の折れた先っぽを国中から掻き集めれば、九鼎程度の容器を一夜にしてこしらえるだけの国力があるということを」
王孫満は、理路整然と荘王の脅しをかわした。
荘王は、有無をいわせず滅ぼせばいいものを、中国全土に、暴力ではなく人徳によって国王の位を譲り受けたと主張したい。この人は、高笑いをしつつマントをひるがえし、颯爽と戦車にまたがって楚の大軍とともに帰国してゆく。
そして国内最大の政敵・若傲一門を滅ぼし、中原制覇の野望実現を目指す。
楚の荘王は、行く手を唯一阻んでいた周の分家・晋侯国を撃破し天下一統直前としたものの、30代・志半ばにして病魔に倒れた。そのため、ずたぼろながらも周王朝は、かろうじてさらに500年以上も延命できた。
荘王と王孫満の会談で、荘王がいった言葉は、権威をもった高飛車な相手の足元みすかすという意味である。――ご存知、「鼎の軽重をはかる」ということわざの語源はここに始まる。
春秋時代、青銅の量産がなされたのは揚子江一帯である。そして、次の戦国時代に鉄生産を開始するのも彼の地であった。
(『史記・世家』より)
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