チャーチル・ノート/022 イタリア戦線1943-45 1/2
十一月から翌四十三年五月にかけて、参戦してきたアメリカが連合国軍に合流し、北アフリカに一斉上陸してきたのを、ドイツ・イタリア軍が、チュニジアにおいて迎撃するのだが、善戦虚しく壊滅する。
なお、英国側従軍記者が、エルアラメインにおける激闘に関するレポートを、『タイムズ』に送り、記事の末尾に、崩壊してゆくロンメル・ドイツ軍団を支えて、最後まで奮戦した勇敢なある敵部隊のことを紹介した。
それが戦線南部に配置されたイタリア軍第185空挺師団『フォルゴーレ』だった。火炎瓶と地雷だけで、十三倍の歩兵と七十倍の戦車を跳ねのけ、残余の兵は枢軸側最後の拠点であるチェニジア・トリポリ陥落のとき、友軍ドイツ軍と運命を共にしている。
モントゴメリ将軍の深謀熟慮の策と勇戦で、下院から不信任案をつきつけられていたチャーチル首相は、なんとか首がつながった。
新聞で、エルアラメインの記事を読んだチャーチル首相は、敵である『フォルゴーレ』を、
「彼らは獅子の如く戦った」
と褒め讃えた。
伝説となった同部隊は精鋭を意味するイタリア旅団の名称として現在も残っている。
エジプト・アラメイン会戦で英国がドイツ東アフリカ軍団を撃破したことについて、十一月十日、チャーチルの演説。
「これは終わりではない。終わりの始まりですらない。だが、おそらく、始まりの終わりであろう」
そして、翌年一九四三年七月。チャーチルが、欧州を女体に例えれば柔らかな下腹部とするところのイタリアに、アフリカに集結した連合国の大軍を上陸させることになる。
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「宰相閣下、お覚悟めされませ」
英国特別機内だ
六十歳を超えたチャーチルは注射が大の苦手だ。大戦中、激務のため心臓発作を三度起こしている。随行する白衣スカートの看護婦が、抵抗するスーツ姿の宰相を羽交い絞めにしたところで、医師が注射した。
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一九四〇年のバトル・オブ・ブリテンに続く、翌四二年の北アフリカ・エルアラメインの勝利によって、大戦そのものの勝利を確信した。
ほどなく大戦に参戦してきた米軍の協力で、北アフリカ戦線におけるドイツ・イタリア掃討作戦「トーチ作戦」が発動され四三年五月十三日にドイツ・イタリア両国軍が激しい抵抗をしつつも降伏。連合軍は三十万人の捕虜を得る大戦最大の戦果を得た。
その最中である同年一月に、モロッコでのカサブランカで、米国大統領ルーズベルトと首脳会談を行った。
チャーチルの随員は八十名からなる各分野に精通した専門家からなるプロジェクトチームで、個別テーマごとに相手側随員と交渉もさせた。
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噴水のある会場の中庭・ベランダに椅子を並べて、英国宰相が米国大統領にいった。
「大統領閣下、北アフリカ戦線はほどなく終結します。余った兵力はそのままイタリア南部及びシチリア島に上陸させましょう。――もっとも、イタリア国王に休戦をもちかけ、揺さぶりをかければ、ムッソリーニを追い出してこっち側・連合国側に寝返り、無傷でイタリアに進軍できるというものです」
「第一次世界大戦終結時、休戦という形でドイツの面子をたててやった結果、連中は敗けていないという妄想に走り、第二次大戦を引き起こした。敗北者には、『無条件降伏』という勝者の絶対的な姿勢が必要なのです」
「枢軸国の無条件降伏」は、日本の真珠湾攻撃に逆上したルーズベルトが開戦以来もち続けているポリシーで譲らない。
チャーチルが反論した。
「では占領国民を奴隷化するとでも? 私ども英国としましては、イタリア王国を降伏させたのちすみやかに仲間に引き込みたいのですよ」
「貴国は日本軍相手に手こずっていらっしゃる。英日間で単独講和をされると、うちら米国にとっては厄介なことになりますのでね。そんなことになったら、英国とも手を切らざるを得んでしょうな」
――痛いところを突く。
日本軍をみくびって香港・シンガポールを落されたことは英国軍の汚点だった。
それにしても、ルーズベルトはときどきわけのわからぬ頑迷さをみせる。素早く戦争は終わらせるべきだ。そしてできるだけ枢軸国と枢軸国が占領していた諸国を、「こっち」の味方につけるべきなのだ。
チャーチルには焦りがあった。
――スターリン!
苦労して育てた林檎園に、ソビエト連邦が横から雪崩れ込んできて、林檎を掻きむしってゆくような気がしてならなかったのだ。
両首脳は、「無条件降伏」というものは、ファシズム思想と体制の打破であり、占領国の奴隷化ではないということで妥協点をみいだした。
チャーチルは、米国側が主張する、イタリアに「無条件降伏」を付きつけるという案を呑むことにした。 しかし同時に、これではイタリアが禍根を残し、連合国軍によるイタリアからドイツの背後を突くという戦略が功をなさず、大戦終結を遅らせるのではないかと危惧した。




