チャーチル・ノート/014 敵の名はヒトラー
一九三〇年。
「あの、閣下。御子息のことですが――」
プライベート・スクールの校長が壮年になりつつある父親に小声で近況報告をした。
「ランドルフときたら目立ちたがり屋だ。まったく、誰に似たんだろう?」
「よくおっしゃいますね。あなたそっくり!」
長男坊のことで学校にでかけると、へんな行動をして、しばしばチャーチルは赤面した。 しかしクレメンタイン夫人は亭主の顔をみてクスクス笑っていた。
政権崩壊で下野したものの、選挙区の人々はチャーチルを見捨てなかったし、妻と四人の子供たち家族全員もチャーチルを愛し続けた。大臣でこそなくなったが下院議員であることには変わりない。閣僚という重責から解かれたチャーチルは、豪邸で自ら煉瓦を積んで庭の花壇とかをつくったり、絵を描いたりして過ごした。
そして読書をした。
チャートウェル邸は賑やかだ。
来客者の一人に、T・E・ロレンス大佐がいた。オックスフォード大学で、十字軍時代の城郭史研究でセンセーションを起こし、その後、大英博物館所属の遺跡発掘調査団に加わって、当時トルコ領だったイラクに渡って、メソポタミア文明の遺跡を調査した。しかしこの調査チームは、陸軍参謀本部の意向を受けたスパイでもあった。
第一時世界大戦が始まり、トルコがドイツ側に走ると、エジプト・カイロに本部を置いていた中近東方面の英国軍は、メッカ太守フセインを焚き付けて、トルコ軍に叛乱を起こさせた。その折衝にあたったのは、「アラビアのロレンス」と呼ばれたその人だった。
アールデコ様式の館へバイクに乗って訪ねてきた大佐が怪訝そうな顔をした。
「アドルフ・ヒトラー? ヒトラー著『わが闘争』?」
「懇意にしている出版社に頼んで、ドイツ語の著作を英語に翻訳してもらったんだ。ノートファイルに目を通してみてくれ」
「敗戦で大混乱になったいまのドイツなら、こういう山師って、掃いて捨てるほどいるでしょう?」
「文章を読んでみたまえ。独特のリズムがある。……人の心の闇に巣食う『黒い犬』を呼び出す魔力がハンパじゃない」
大佐は、ざっと、目を通した。
タイトル、序文、目次、書きだし、終りの文、書きだし。――その場では飛ばし読みした。
「良かったら持ち帰って読んでくれたまえ」
応接室ソファに腰掛けた大佐が、言葉を選ぶように、質問した。
「大英帝国でヒトラーを知っている政治家はどのくらいいますか?」
「マスコミも含めてごく少数だ」
「その本を読んだ英国人は?」
「儂を含めて数えるほどの者しか読んでおらん。しかし、ヒトラーという男の論調は、敗戦に打ちひしがれたドイツ国民の『闇』につけいって、ヒンデンブルク大統領の地位を脅かし、いずれは元首の椅子を乗っ取るに違いない」
ノートファイルの表紙には、ミュンヘン一揆の失敗で投獄されたヒトラーが獄中で著したという書籍・『わが闘争』のタイトルがあった。
バトル・オブ・ブリテン前夜である一九三〇年代、英国国民世論の約九割が世界平和武装解除を望んでいた。これを受けて平和派の大キャンペーン運動がなされ、選挙をすれば、勝利して議席の多数を占めるようになってゆき、その主張が通り、軍艦、軍用車両、軍用機が続々とスクラップにされてゆく。
早い時期に、ナチス党指導者・ヒトラーの著書『わが闘争』を読んだチャーチルが、同党の政権掌握と、野望をいち早く見抜いた唯一の政治家だった。
フランスも英国同様に軍縮の方向にむかっていて約七十万人いた国防軍を四十万人に削減すると発表。これにチャーチルが反対すると、与野党を問わず下院全体が、彼に集中砲火を浴びせた。
さらに、ガンジー率いる独立運動が結実してゆき、インドに自治権を与える事態になった。下院の大勢がインド中央政府樹立を認める方針をとったとき、チャーチルと取り巻きごく少数がインド各州にそれぞれ自治権を与えて中央政府樹立は認めるべきではないという主張をして、また、下院全体の反発を喰らった。
一九三一年、インド問題で保守党幹部を辞任した。悪いことは重なるもので、この年、ニューヨーク滞在中に自動車にはねられ重傷を負う。
一九三六年、対ドイツ問題と国王退位問題が起った。
英国がもっとも重要な市場であるインドにむかう交易路は、大西洋、スペイン・ジブラルタル海峡を抜けて、地中海に入り、イタリア沖を抜けて、エジプト・シナイ半島のスエズ運河をまた抜けて紅海に入り、そこからインド洋にでるというものだ。
英国政権は、地中海ルートの生殺権を握るイタリアの立場が、ドイツ寄りになってきているのに、英国にとってどうでもいいアフリカ・エチオピアの植民地化をめぐって、譲歩することを嫌ってムッソリーニ率いるイタリアをみすみすドイツ側に走らせてしまった。
一連の愚行に対してチャーチルは当然批判するとともに、きたるべき対ドイツ戦に備えて軍拡の必要を訴えた。この件に関しては少し味方を増やしたものの、若い国王のスキャンダルによって政治生命が絶たれる寸前にまで追い込まれた。
独身だった若い国王エドワード八世が、二回の離婚歴があるアメリカ夫人と恋に落ちて国民や議会からバッシングを受け、出来の悪い兄よりも弟でヨーク公だったジョージ六世のほうが相応しいという世論が大勢を占めていた。ここで忠義の臣を演じて擁護したチャーチルは、同士がたったの七人にまで減り、自身の発言権を大いに弱体化させる結果になった。
一九三八年、オーストリアを併合したナチス・ドイツ軍が余勢をかって、チェコスロバキアに侵攻した。
このころチャーチルが属していた自由党は与党となっていたのだが、当時の英国首相チェンバレンは、
――ドイツのヒトラーは平和を望んでいる。
と、主張。ドイツがつぎつぎにホコにしてゆく条約「ミュンヘン協定」を、英国側は生真面目に守って、戦力差を拡げていった。
そこにきて、ようやく、英国陸軍参謀本部から、軍事力の現状報告書が提出され、
「首相よ、いい加減に目を覚ませ」
という突き上げを喰らった。
下院も、「チャーチルのいっていたことが正しかった」という意見がだんだん増えてきた。
一九三九年九月、さらにナチス・ドイツが、ソビエトと盟約を交わしてポーランドに侵攻し領土を分割した。
英仏両国がドイツに宣戦を布告し第二次世界大戦が勃発すると、チャーチルは海軍大臣に任命され、閣僚に返り咲く。
しかしチェンバレンの対ドイツ政策は迷走し明確な指示が出せない間に、ドイツ軍が中立国オランダ・ベルギーを突破、フランス版「万里長城」とでもいうべき大要塞・マジノ線を迂回する格好で、フランスに雪崩れ込まんとするところまできていた。
下院から、
「チェンバレン、いい加減に首相の座を降りろ!」
という怒号が飛び、同首相が辞任。
そして……。
「フランスは陥落目前。スペインはドイツびいきだ。ヨーロッパ自由主義国家で生き残っているのはイングランド島の大英帝国だけになってしまった。産業革命以来、欧州をけん引してきた英国文明が滅びるか否かの瀬戸際だ。緊急事態を収束できる指導者は誰か?」
「ウィストン・チャーチルはもう爺々だぞ。それに前国王の退位騒動で、現国王陛下は奴を憎んでいる。上手くやっていけるか?」
という議員からの声もあった。
「ならば誰がやるんだ?」
「やはりウィストンだ!」
政争・階級闘争をやっていた各政治勢力・あらゆる階層の国民も団結した。
一九四〇年、チェンバレン首相の辞任をうけ、下院はウィストン・チャーチルを首相兼国防大臣に指名。ほどなく、ドイツ空軍のおびただしい航空機がロンドン上空に襲い掛かる。――そして国権の全てを掌握したその人が、自国文明の存亡をかけて迎撃の指揮を執った。
史上名高いバトル・オブ・ブリテン……。




