チャーチル・ノート/010 サバンナ
一九〇五年、自由党のサー=ヘンリー=キャンベル=パナマンが首相になると、党を乗り変えたチャーチルだが、植民地省次官に抜擢された。裏切り者という酷評がないでもなかったが、勇気がある奴だという声のほうが大きかった。
当時そのポストは首相への花道といわれ、植民地相は貴族院議員のエルギン卿が担った。卿が貴族院の対応をし、チャーチルは下院の対応一切を仕切って、完璧にこなした。
記者をやって培った古典ではないところの現代語・国語力からくる文才・弁舌は下院を魅了した。省庁の官僚からくる資料を分析し、正しく解釈した上での、情熱的な弁舌の合間にジョークを入れ、機知にとんだ演説をする。それでいて、伝統ある下院の慣習をとても敬愛するように振る舞った。
重要な文書や電報をもってくる制服を着たメッセンジャー、赤い皮でできた文書送達箱、世界各地からやってくるあらゆる人種の重要人物に敬意や愛着をもっていることを態度で示した。
チャーチルは強引なところがあるが、勝手気ままというわけではなく、和の精神・空気を読む力もあった。その上で、やるときはやる、という姿勢もとったということか。そしてアピールが上手い。
さて。
狩猟というのは貴族のたしなみで、ちょっとした金持ちになると、ステータスとして遊んだ。アメリカの小説家がやるくらいだから、メイフラワー号が出発した英国人はもっと盛んで、インドなんかにいった連中は王侯気取りで大々的に虎狩りとかやったもので、当然のごとく貴族家系出自のチャーチルがやった。――ただ少々羽目を外した嫌いがある。
植民地省次官であった青年政治家は、一九〇七年、東アフリカの植民地を訪れた。二十五年間彼に仕えることになるエディ・マーシュという秘書が同行。大陸の東海岸から新設された鉄道でウガンダ高原に入る。
坂道を登る機関車。その最全部には排障器という障害物を跳ね飛ばすマスクのようなものがついている。牛除けだったりするわけだが、この汽車旅行の間、そこの上にチャーチル青年は立って、はしゃいだ。
目的地に到着すると、ポーター三百五十名も雇って狩りにでかけ、キリン、サイ、ヌウ、ガゼルを倒した。仕留めた獲物は本国に送って、ピカデリーのローランド・ウッドという職人により剥製にされた。
要人の公式訪問と、私的な取材を混同した旅で、狩りの取材をやったわけだ。もちろん「取材」部分は、税金は使わずに、ストランド・マガジン誌に負担してもいい、そこで後に、『アフリカ旅行記』として掲載された。
この旅はまさに、
「まるで、豆の木を登っておとぎの国にゆくような旅」
と彼がいう通りのものだったが、野党勢力が、チャーチルのアフリカ旅行をあげつらって、物議をかもしだしたことはいうまでもない。
さて。
アフリカをテーマにした狩猟といえば小説『キリマンジャロの雪』を思い浮かべる。このヘミングェイ作品を読むと、やたらに、ウィスキーソーダというのが目につき、作中の主人公が水がわりに飲んでいた。
チャーチルもそうで、ソーダにほんの少し垂らして香りづけして飲むのだから、ほんとうに水がわりである。これを大量に飲んだというのだが、健康を害することなく、満九十歳という長寿を全うしている。
一九〇七年、アフリカから帰ってきた植民省次官だったチャーチルに、枢密院顧問の肩書が与えられた。
翌一九〇八年、キャンベル=バナマン内閣において、ロイド=ジョージが財務相になることが決まると、麾下のポストである商務長官のポストに就く。ロイド=ジョージは、ビスマルク首相時代のドイツが示した「福祉国家」の理想の英国版をつくりたいと願っており、子供時代に世話になった下層階級出のエリザベス夫人の最後が惨めなものだったことを記憶しているチャーチルは、この案は魅力的なものに映った。
一九〇六年に結婚した愛妻クレメンタインの母親は、チャーチルの母親同様に負けず劣らずのスキャンダラスなところがあった。
しかし本人たちはいたって真面目で、不倫というものには縁がない。クレメンタインの存在はチャーチルにとって有能な参謀で、起伏の激しい夫をうまくなだめた。
コンビを組んだ上司のロイド=ジョージ財務相は、老齢年金を導入した人で、チャーチルの政策と息が合い、この人のもとで、後の世界に影響を与える革新的な法案を次々とつくり、議会を通過させるという実績を積み上げてゆく。下院からの突き上げがあれば、論陣を張って一つ一つ潰し、麾下の官僚から大胆に人材を抜擢して、官僚機構を活気づけさせていった。――ウィリアム・ベバリッジは、チャーチルによって抜擢され、新設された職業紹介所の責任者となった麾下の官僚である。
一九一〇年の商務省法で、「苦汁労働」を廃止し、職業紹介所を設立して、雇い主が労働者を確保できるようにした。
一九一一年の全国保険法で失業保険を創設。未成年の所得税を控除。
鉱山法で、炭鉱労働者の待遇を改善する。
商店法で、商店従業員に、休憩時間を与えることと閉店時間を早めることを店主に義務づけさせる。……これにより数百万人の低賃金労働者が週半日の休暇をもらえるようになった。
当時の英国議会論客は、ロイド・ジョージ、ベバンズ、チャーチルの三人がおり、前二者は役者じみた語りを即興でやって議場を盛り上げるのだが、チャーチルは生前とした理論を散文的にいう。前二者ほどの盛り上がりには欠けるのだが、一貫した理論性という点では彼らよりも優れていた。
若い時代のチャーチルにとって、ロイド・ジョージとのコンビは有益ではあったが、年長で、実力のあった相棒との力関係では、ロイド・ジョージのほうが圧倒的で、主従関係に近い感があり、プライドが高いチャーチルにとっては屈辱的なものであったという。
一九一〇年にチャーチルは内相のポストに就く。
内相の職務の一つに議会閉会中は、毎日宮殿に上がって、国王に報告書を提出するというものがあった。当時の国王エドワード七世は、チャーチルの散文調でジョークをまじえた報告書や会話を楽しんだ。
同年国王が代わってジョージ五世に代わると、生真面目でおどおどした感じの新国王は、チャーチルの報告書は報告書として相応しくないと決めつけ疎んじられた。
新内相は、刑務所に入って受刑者の一人と話し合い、刑務所内に図書室をつくるなどの改善を図った。彼は傍目に社会主義者のように映り、新国王を激怒させることもあった。
かといって、社会主義、労働組合、犯罪者たちに迎合するかといえばそうでもない。
シャーロック・ホームズの手柄話にもでてくるような、トンネルを掘って宝石商店を襲うという犯罪者の潜伏先をつきとめると、チャーチルは絵画収集を趣味とする相棒の秘書と現地にむかった。立て籠もっている犯人は警官二人を射殺し陽動策として民家に火を放った。このとき、現場にいたチャーチルは犯人の腹を読んで、「火を消すな」と命じた。そのことが後に報告書を読むだけで現地を視察しない議員たちの突き上げをくらうことになる。
また秘書のエディーと警察が拷問につかう鞭を互いに打ちあって、どの程度の痛みかテストしてみたりした。
暴動寸前のストライキになれば、軍隊をためらわずに派遣して包囲。このため死傷者0で鎮圧できた。




