チャーチル・ノート/009 政界進出と結婚
チャーチルの父親が保守党でしかも大臣だった。当然のごとく彼も保守党の議員となった。彼が初当選した一九〇〇年には父親の仲間だった首相ソールズベリ卿がまだいて、二年後、職務を甥のA・J・バルフォアに譲って退く。
バルフォア首相は事務屋で哲学を引用する。この人物とは気が合わなかったのだが、それなりにうまくやった。
議員になる前に真実をありのままに書いた『大河戦争』が槍玉にあげられた。
舞台はチャーチルがインド第四騎兵隊に所属したまま報道員としてアフリカに赴いて、結局戦闘に槍騎兵として参加するスーダン戦争の佳境・オムドゥルマンの戦いだ。このとき、投降してきた敵・叛乱軍ダールウィッシュ国兵士の取り扱いについて、政府報告書では負傷した捕虜を手厚く介護したとしていた。
しかし、総司令官キール将軍は、投降した敵・叛乱軍ダールウィッシュ国の兵士を虐殺していたのだ。
この件で、当のキール将軍はじめ、多くの有力者を敵に回した。
もともとこの戦争は、国民の熱狂がスーダンから引き上げようとする英国政府の尻を叩いて、英雄ゴードンの敵討ちにむかわせたものだ。「祭り」のハイライトに参加したチャーチルだが、それが終わってみたところで、群衆の狂気というものを垣間みたわけだ。
いとこのアイバー・ゲストが訪ねてきたとき、
「例の本だが、あれを世にだしたが、たぶん友達は増えない」
といった。
この人物は、広大なアフリカ大陸を巡って欧州列強が争奪戦を繰り広げる、帝国主義の時代に生まれ、その一員として振る舞った。一介の兵士として従軍し、捕虜となった。勝たなければロクなことにならない、ということを身をもって知っている。他方でハロー校、士官学校を卒業し、記者として活躍もした知識人だった。このことが敗けた側の苦悩というものを理解し同情させた。
英国のボーア人諸国への執拗な攻撃は理不尽なものだ。
「自分がボーア人なら銃をとって戦うだろう。――われわれは、南アフリカのボーア人の処遇を寛大に取り扱い、平和と和解を実現させるべきだ。
と真っ先に主張した。
チャーチルが記者として取材にいって結局は戦ったボーア戦争はまだ続いていた。
国民も議会も、ボーア人など皆殺しにしてまえと声高に叫ばれる風潮のなか、若い議員は、平然とそう主張してはばからなかった。
「勲章あさり」が目的でアクティブに行動したチャーチルだったが、バランス感覚は当代一流で、有能な政治家になりつつあった。
それから欧州全土を巻き込んだ第一次世界大戦を予言した。
スピリチュアルなものではない。
真実を見抜く見識がそうさせたのだ。
まさか。
閣僚も同僚議員も国民も誰も耳を貸さなかった。
同じ意見を持っていたのはSF作家のウェルズくらいのものだった。
そして十数年後の一九一四年に彼の危惧は現実のものとなる。――ことなかれ主義、問題先送りといった現実逃避は自らの首をしめる。
英雄色を好むというのだが、この人に、その手のスキャンダルを捜そうとすると徒労に終わる。
チャーチルという人は、鼻っ柱が強くて、強引に事を進めるので敵を多くつくった。そのわりに、縦割社会の上層にいながら下層の暮らしというものをよく理解していた。強引なところは母親似、やさしいところは幼少時に母親ジェニー以上に彼を愛した乳母のエリザベス夫人の影響らしい。父親ランドルフといえばまったくといっていいほど彼に無関心で影響されていない。
しかし、この人は父親を尊敬し、在職中の精神疾患による引退という不名誉を伝記まで書いて払拭しようとしたので、従兄たちはよくやっているといっている。
社交界では何人かの女性に好意をもったが、例の名言、「人間は虫けらに過ぎないが自分は輝く蛍だ」といった相手とされるアスキス首相の娘・バイオレットほか数名の女性がチャーチルに関心をもった。
当時の英国貴族男性は、名家の娘より資産家の娘を妻に選ぶ風潮があった。
チャーチルはどうか。
単純に愛を選んだ。
一九〇八年八月、彼はクレメンタイン・ホージアに求婚した。
上流階級には違いないが、どちらかといえば中流に近い生活だ。父親は故人で勲爵士、保険組合秘書をやっていた。母親はチャーチルの母親と同じく恋多き女性で、父親が存命中から九人の恋人がいたとのことで、彼女の実父が判らないというほどだった。
しかし双方はそれぞれ母親を反面教師としたのか、浮気をしなかった。
家族の結束の固さは政治家チャーチルを家族問題にかかる無駄な時間とストレスを省き、仕事に没頭させることを可能にしたのである。
――就職先を選ぶとき、会社の実績とともに、オーナーや経営者の犯罪歴・女性遍歴が重要な判断材料になる、とビジネス書翻訳本にあった。色を好む英雄は没落が早いが、その逆は安定するようだ。
彼の選挙地盤がオールダム区で、そこの住民が自由貿易派であった。
ボーア戦争の最中である一八九九年の選挙では、保守党が優勢だったが、それが終わってしまえば自由党のほうが有利だ。次の一九〇六年の選挙では自由党から立候補している。
選挙区も、一九〇〇年から六年まではオーダム区、同年から八年にはスコットランドのダンディー区と変った。一九二二年の選挙で落選し一年以上下野。それから保守党に復党するという離れ業をやり、以降は三十五年間、エッピング・イン・エセックス(ウッドフォード)を地盤にした。
ウッドフォード区での議員活動は、立憲派を一回、挙国一致派を二回、国民保守党一回、残りは保守党に所属した。
風見鶏!
信用できん奴というレッテルが「良識」のある人々に貼られたそうだ。
しかし本人はあまり気にしていない。党に対する忠誠心が希薄で、大英帝国の建設士という感覚と自分の利益「野心」のために働いた。




