チャーチル・ノート/006 ボーア戦争1/3
人間は虫けらだが自分は輝く蛍だ。
(――チャーチルが、ディナーに同席したある令嬢と交わした言葉)
黒犬。
そいつが現れたとき、机の上にはタイプライター。横には炭酸でかなり薄めた、ウィスキーグラスが置いてあった。
彼は失意の中でスーダンでの従軍体験記を母の家で執筆していた。
タイプを打つのを止めて、深々と椅子の背もたれに身体を預ける。するとだ。部屋のドアが開いた。
ゲーテの『ファウスト』にでてくる悪魔メフィストが変身した姿が黒い犬だ。……ブルドックというか、ボクサーというか、ひしゃげた顔をした丈のある犬だった。
黒犬が、音もなく、ゆっくりと近寄ってくる。
椅子にもたれた青年の身体は動かない。
焦燥感を憶えていたのだが、だんだんと、そいつに食われてもいいか、という気になってくる。このまま死ねばどんなに楽だろう。恐怖感が陶酔感に変わり、そして解放感になってゆく。
罵声と嘲笑が耳鳴りになってきこえてくる。
『あの目立ちたがり屋、チャーチル家の小僧め。母親を首相相手の色仕掛けにつかって、特命とやらで勲章がもらえそうな戦場ばっかりいかせてもらい、今じゃ英雄気取り。今度は政界進出だと? ざまあない。落選した。これが民衆の本音ってやつだ』
一九八九年、ウィストン・チャーチルは、オールダム選挙区から保守党議員候補として出馬したが落選。
出る杭は打たれる。
冒険と執筆によって名声を博した青年だったが、社交界の女王である母親との強力なタックでお家再興を目指す彼は、多くの敵もつくっており、バッシングも酷かった。
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黒犬がなおも近づき大口を開けた。
長い牙が椅子にもたれた青年の首にいまにもかぶりつこうというとしていた。
そのときだ。
ドアのむこうから女の声がした。
『大丈夫ですよ、坊ちゃん。私がずっとおそばについておりますから……』
姿はみえない。
しかしその人が誰だかすぐ判った。
――エベレスト夫人。
子供のときに乳母として仕えていた夫人で、孤独な環境にあった少年時代の彼を励ました。プライベート・スクールでの寄宿生活にいて、半ば拷問のような躾けされていたときも、手紙を書いて励ました。
「そうだったね。貴女はいつもそばにいてくれた」
紅蓮の炎にも似たオーラが青年の全身を包む。
夢うつつの双眸に精気がみなぎり凛として輝いた。
ドン。
黒犬が、咆哮とともにのけ反るような感じで、床にひっくり返った。
それには一瞥もくれずに、青年が立ち上がって、窓のカーテンを開けると、強い陽射しが飛び込んできた。しかし目は細めない。
――なんのことはない。名声がまだ足りなかっただけだ!
犬がいた後方から声がした。
『まいったなあ。また伺いますよ、坊ちゃん……』
黒犬は、黒タキシードに片眼鏡をかけた紳士になって、薔薇の飾りがついたシルクハットを外して会釈すると、部屋からでていった。
チャーチルの幸運は、幼少期に、エベレスト夫人に出会えたこと。そして、ハロー校に入学できたことだった。
紳士としての嗜みである古典に精通するため、授業の大半がこれに占めていたため、チャーチルの天才が羽ばたくのを無駄に阻んだ、という指摘が後世の歴史家たちからなされるこの学校時代だった。
しかし、国語教師ロバート・サマベル先生との出会いは、彼の作文技術を高め、やがてはノーベル文学賞受賞者に名を連ねる名文家にした。
下院議員補欠選挙に初出馬して落選した一八九九年。彼はロンドンの新聞に、昔、名将ゴードンを敗死させたイスラム叛乱軍との戦いであるスーダン戦争。その佳境であるオムドゥルマン白兵戦の華・騎兵隊突撃に飛び入り参加したときの従軍記をロンドンの新聞社に寄稿し、その延長戦として、全二巻からなる名著『大河戦争』を執筆した。
そのため選挙に落選はしたものの数百ポンドの原稿料が入ってきた。
金と命は生きているうちにつかうべきだ。
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黒いタキシード紳士がでていったのと入れ違いで、郵便配達員の自転車が路地から敷地に入る音がして、でていた母・ジェニーに手紙を渡した。
彼の母はアメリカ人だ。――陰鬱な英国名家の血に流れる、どろどろ、として音程を崩したような遺伝子を払しょくする陽気さがあった。
窓の下のジェニーが二階の窓際に立った息子に手紙を示して陽気に叫んだ。
「モーニング・ポスト。……いいスポンサーになってくれるといいわね、ウィストン!」
新聞社である同紙が、予備役になったチャーチルに、特派員の話を持ちかけてきたのだった。
――南アフリカ!
青年が失ってはならないのは野心だ。もちろん異存はない。
居間のテーブルに座ってお茶を口にしていた母親がカップを置いた。
「もうゆくの、ウィストン?」
「はい、いってまいります」
二十代半ばになったその人が敬礼して部屋の扉を開けた。
なんともまぶしい世界だ。
チャーチルの新たな冒険が始まる。
*
一九八九年十月十一日。
二十五歳で下院議員選挙に立候補しつつも落選したチャーチルは、新聞記者となり、イギリス本国サウサンプトン港から南アフリカ・ケープタウンにゆく汽船ダノーター・カッスル号に乗った。
この船には、第一軍団が乗り込んでいて、船室をはみだした兵士たちは船倉で毛布にくるまって雑魚寝していた。お世辞にも優雅なクルージングとはいえない。
船が出港した翌日十二日、宣戦が布告され、ボーア戦争が南アフリカで勃発した。
欧州列強による帝国主義の絶頂期だ。戦いに正義などない。国家という蛇が、飢えて、他の蛇を食べているようなもので、敗ければただの餌になる。ひたすら勝ち進まねばならない。
アフリカ沖・南大西洋の海岸線をどこまでも南に下ってゆく。
嵐に見舞われることもなく航海は順調だった。
太陽が容赦なく照りつける。
空がどこまでも青い。
赤道を越えてなお南にむかうと少し涼しくなってくる。
船はもうアフリカ南部ナミビア沖にきていた。
英国亡命を望んだナポレオンを、同国は不法拘留し、死ぬまで幽閉したセントヘレナ島。そこに船は錨を降ろした。
下船し町のパブにでかけた野心的な青年記者は、攻勢をかけてきたボーア軍が、ベン・シモンド将軍を敗死させたことを知った。
――敵はけっこういい武器を装備している。
島で補給を終えた汽船が、ふたたび、大西洋にむかって出航した。
デッキでは、将校と下士官が話をしていた。
「小隊長殿、自分は無学なもんでおききしたいんですが、俺たちが戦うボーア人ってどういう奴らですか?」
下士官はドワーフみたいなずんぐりむっくりした男で、相手をしていた将校は、ノッポだった。
「いいか、アフリカ大陸の南端には喜望峰があって、尖った三角形のような形をし、大西洋とインド洋を分断している。そこにあるのがケープ植民地だ。かつてはオランダ東インド会社が支配していたんだが、ナポレオンが欧州を引っ掻き回していた時期の少し前に、われらが祖国・大英帝国が奪った」
「で、ボーアってどういう意味ですかい?」
「オランダ語でいうところの『どん百姓』。オランダ人移民の子孫たちを指す差別用語だ。連中は自分たちのことをアフリカーナっていっている」
「で、戦争の動機は?」
「奴らは、原住民を奴隷化して農園経営をしていたのだが、イギリスが植民地経営に本腰をいれてくると奴隷制が禁止され、また二等国民という扱いで差別した。怒ったボーア人どもは内陸に分け入ってナバール共和国というのを建てた」
下士官が小首ではないところの猪首を傾げた。
「ナバール……きかないっすねえ」
「だいぶまえに、祖国・英国がそこをぶっ潰した」
「じゃあ、小隊長殿。ナバール共和国がぶっ潰されたんだったら、どこのボーア人と戦うんですかい?」
「ナバールからさらに奥地に落ち延びた連中が、トランスバール共和国と、オレンジ自由国っていうのを建てた。大英帝国政府はいろいろと思惑があって、両国の独立を承認したんだが、直後、トランスバールで金鉱が、オレンジ自由国でダイヤモンド鉱山が発見されてしまった。そうとなりゃ話は別だ。儲かる植民地はぶんどるっていうのが今のご時勢だろう。……それで、始まったのが第一次ボーア戦争だ」
「結果は?」
ノッポな将校がコホンと咳払いする。
「こってんぱんに敗けた。われらが大英帝国は面目丸潰れ」
「するってえと、なんですか。リベンジですね」
「そういうことだ。実はボーア両国には英国系鉱山主や技師がけっこう入植している。両国政府は彼らに重税を課したり、公民権を不平等にしたりしている。連中が打倒政府を声だかに叫んでいる。大英帝国は彼らの意向を組んでやっているというのが大義名分だ」
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十月三十一日。
第一軍団を乗せた船はケープタウンに到着。
同日、ホワイト将軍麾下の部隊が、レディスミス市に場所での野戦で、ボーア軍に大敗する。そのため大英帝国側は兵力をケープタウンに集結させ、ナタルで反攻する計画を立てた。
チャーチルは、南大西洋に面したケープタウンから東にむかう列車に乗って、ケープ植民地を縦断、インド洋に面したイースト・ロンドンで下車。百五十トンの小型貨物船に乗って北上。そこからかつてボーア人たちが建国し大英帝国に滅ぼされた旧ナバール共和国跡地・同名州にあるダーバンの港に上陸。さらに列車に乗って北上、オレンジ自由国との国境に近いレディスミス市にむかおうと考えた。
前線で孤立した同市は、市民と少ない兵員の守備隊が、援軍の到来を心待ちにしていた。戦線は北にある。鉄道沿線から、負傷兵がこの港湾都市へ送り込まれ、病院にあふれかえっていた。住民はいつ自分の町が戦場になるか戦々恐々としている状態だった。
ドームのある聖堂のような白亜の市庁舎。欧風の建物群。
椰子の木が揺れるリゾート地としての景観を備えたダーバンには、軍の駐屯地があった。 テントで寝そべりながらチャーチルは、敵のゲリラ攻撃で、寸断された鉄道の旅客列車がつかえない現状で、どうやったらゆけるか頭を悩ませていた。
するとだ。
ホールデン大尉という人物が訪ねてきた。
跳び起きたチャーチルに握手を求めてきたのは、英領インド帝国北部・カイバル峠付近・マラカンド野戦軍のとき、中隊を指揮していた中隊長だった人物だ。
「明日、俺の部隊を含む二個中隊を乗せた装甲列車がナタルの広野を突っ走る。ここダーバンからレディスミス市までの路線を偵察するためだ。チャーチル、君がここダーバンで立ち往生していて、レディスミス市にゆけずにいるって話を将校用のバーの噂話できいたもので、訪ねてみた。どうだ、この列車に乗らないか?」
「いや、願ってもない」
野心的な若い特派員は、グッドニュースを持ってきてくれたインド時代の戦友の両手を握って感謝する意を表した。
十一月十四日。
目的地がどういう状態になっているか判らない鉄道の、旅客列車ではないところの装甲列車に、チャーチルは飛び乗った。
汽笛が鳴る。
――出発進行!
それは北にむかって走りだしていった。




