チャーチル・ノート/005 オムズマン会戦
一九八九年。
英国領インド帝国属領・マイソール藩王国の首都バンガロール。そこに第四騎兵連隊の駐屯基地がある。二十代半ばにさしかかった青年がとある紳士から手紙を受け取った。
「久しぶりだね、チャーチル君。アフリカにいってみないか? スーダンだ。近く、イスラム・マフディー派叛乱軍の殲滅作戦が行われることが閣議決定された。十三年前に、あのゴードン将軍が殺されたところで、弔い合戦になる。君のお家再興のためだ。健闘を祈る」
首相ソルズベリ卿は、未亡人となった母親ジェニーが、社交界で引っ掛けた恋人の一人だ。ジェニーは美貌を武器に、文無しの息子のために、「ひと肌脱いだ」格好だ。
この手紙が封される直前、母親ジェニーが、寝台の横にいる首相に抱きついたのに違いない。
「母上らしい」
チャーチルは苦笑した。
それから連隊長のところにいって、スーダン行きの許可をとって、エジプトにむかう船に乗り込んだ。
母親のジェニーはアメリカの金融家の令嬢で、公爵の三男坊で下院議員のランドルフ・チャーチル卿に嫁いだ。夫妻はロンドンの高級住宅街メイフェアに住んだ。
母親ジェニーは素晴らしい美女で、パーティー会場に姿を現すと、そこにいた殿方のすべてが振り向き、目線は釘付けになったほどの社交界の華だったとのことだ。ご亭主が存命中から複数の恋人がいて、彼が亡くなると「お友達」がさらに増えた。お相手も首相・大臣といった一角の人物。彼女は、「紳士」たちを籠絡して築き上げた自分の人脈網を、夫が存命中は彼のために、夫が死ぬと息子のために活用。そして社交界の女王の座を保持し続けたのである。
サー・ソルズベリ首相は、ジェニーの蜘蛛の巣に引っ掛かった、虫の一匹だった。
母親が首相に、ダンスホールで耳打ちしたのか、ベッドの上でしたのかは判らない。
しかしウィストン・チャーチルが、キューバにゆきたいといえばキューバに、インドにゆきたいといえばインドに、アフリカにゆきたいといえばアフリカにゆくことができた。政治家である父親の死後、文無し同然となってその家督を継いだチャーチルは、母親の身体を張ったサポートを無駄にはしなかった。
キューバでスペイン政府から初の勲章をもらい、さらにインドで武勲をたてて勲章の数を増やした。そして、父の友人で(母の恋人でもあった?)首相ソルズベリ卿の肝いりで、アフリカ・スーダンへ……。
.
チャーチルがノートに鉛筆を走らせた。
『――同年夏、名将キッチナーが、イギリス・エジプト両軍を率いて、エジプトからナイル川を遡っていった。マフディー国を宣言した同国首都の名を、オムドゥルマンあるいはオムダーマン、ないしはオルズマンと呼ぶ。現在のスーダンの首都ハルツームに近いところにあった場所だ。ここが陥落する前にあった野戦は、そこから十一キロ北方にあるケッレーリだ』
砲艦というのは、内陸部にある河川や運河・湖沼地帯で戦闘をするための、船底が浅い戦闘艦だ。そいつをナイル川に何艘も浮かべて後方支援させる。
キッチナー将軍は、岸辺に近いエゲイガ村を囲むように各部隊を配置させた。
英国正規兵八千、エジプト軍一万七千。このうちエジプト軍は、イスラム・マフディー派叛乱軍とは関わりのない、地元スーダン人で構成されている。
「いよいよだな……」
「報道員の驔騎少尉殿、インドに本隊がいるというのに、なんでまたアフリカに?」
「インドはひとまず決着がついた。こっちのほうが面白そうじゃないか」
「軍規ってものがあるでしょうが。そんなのありですかい?」
「ありだよ」
世話係の兵士に片目をつぶってみせる。
広大な平野だった。
敵・マフディー国軍は五万。そのうち三千が騎兵で構成されている。
兵員だけでいえば英国側が圧倒的に不利な立場にあった。
しかし、近代戦というのは、そう単純にはいかない。
マフディー国軍は、約一万名を一つの単位として、隊伍を構成。英国軍と対峙した。
同年九月二日午前六時。
先に動いたのはマフディー国軍だった。
第一波一万の軍勢が押し寄せてきた。
チャーチルが世話係の兵士につぶやく。
「なるほど、敵は一万ずつ、波状攻撃を仕掛けてくるって腹だな」
敵の群れが三千ヤード(二・七五キロ)に達したとき、英国軍の野砲、砲艦艦載砲が一斉に火を噴く。さらに彼らが前進をしようと試みる。
英国側陣地では各部隊の将校たちがサーベルに手を掛け、タイミングを見計らって号令をかけた。
――構え。
報道員であるところのチャーチルが、他の兵士たちと一緒に、ライフル銃を構えた。
――撃て!
引き金を引く。
斉射。
堡塁にはライフル兵ばかりではなく、当時最新鋭兵器だった機関銃二十門が配備されていたのだ。
数で倍するマフディー国軍だが、近代兵器を惜しげもなくつぎ込んだ英国軍精鋭の敵する者ではない。英国軍陣地にたどりつくことなく兵員を激減させ、撤退するに至った。
銃声がやむ。
世話係がいった。
「少尉殿、どこへ」
チャーチルが叫んだ。
「敵は首都オムドゥルマンに退き再編する気だ。キッチナー将軍は、掃討のため騎兵突撃をかけるはずだ。僕は、後方の村に隠してある自分の馬に乗って、第二十一槍騎兵連隊に合流する」
連隊は騎兵四百名で構成されている。文字通り手に槍を持った騎兵隊だ。
そこに、見慣れぬ騎兵将校が飛び入り参加してきた。
「な、なんだ、貴様は?」
「首相によって派遣された報道員チャーチルといいます。連隊長殿、御味方します」
「?」
チャーチルの読み通り、キッチーナ将軍が、掃討を命じた。
――槍騎兵前へ。後退した敵が態勢を立て直す前に一気に首都を制圧する。……突撃!
騎兵突撃を砂塵が舞い上がった。
第二十一連隊は、少ない敵が、物陰に隠れて散発的に撃ってくるので、そいつらを掃討せんとして、進路をそちらにむけた。
チャーチルがつぶやく。
「罠だ!」
敵・マフディー国軍は、撤退しつつも二千五百の伏兵を、窪地に潜ませていて、騎兵連隊四百が通りかかったところで、一斉に襲った。四百程度の騎兵なら歩兵でも壊滅できると踏んだのだ。
しかし隊伍は動揺せず連隊長は豪胆だった。
――構わん。このまま敵中を突破しろ。
「面白い」
飛び入りの若い将校が、白い歯をだす。
同連隊は、六倍する敵歩兵の隊伍のど真ん中を突破し、潰走させてしまった。
もちろん、チャーチル青年が獅子奮迅の活躍で武功をあげたことはいうまでもない。
英国軍側が、首都を制圧すべく、追撃態勢に入ろうとする間に、マフディー国軍主力は、素早く部隊を再編していた。敵の指揮官はかなり有能だ。しかし装備が悪すぎた。長銃もライフルではなく、一世代ならいいほうで二世代三世代前のもので、装填に時間がかかるものだったのではなかろうか。そうなると弾丸の飛距離も格段に劣ってしまう。
逆襲にでたマフディー国軍主力が挑みかかったのは、ナイル川を背に村の三方を囲んだ英国軍の北と西側だった。そこに陣取っていたのは彼らと同じスーダン人で構成されたエジプト軍の旅団だった。英国人マクドナルド旅団長が指揮を執っている。
数千人規模の部隊に、数万人規模の敵兵が躍りかかったわけだが、ここでも英国側はライフルと機関銃が待ち構え、十倍する敵と互角以上にやりあい、リンカーンシャー連隊が応援にかけつけたことから撃退に成功した。
逆襲に失敗したマフディー国軍は、負傷者二万三千、捕虜五千をだして壊滅。
対する英国軍は死傷者四百名。圧勝した。
この戦闘によりほどなく敵の首都は陥落する。
チャーチルは勲章を手にした。
早速、新聞社から、体験記の執筆依頼がやってきた。原稿料は数百ポンド。悪くない。
名声は得たし、原稿収入だけでもけっこう稼げそうだ。そろそろ職業軍人を辞めることにしよう。
驔騎兵将校の日当は二十五シリング。これで馬二頭を養い、インド基地の召使二人を雇っている現状を続けていても、破綻したお家の再興はままならない。
早速、母親に手紙を書いた。
『親愛なる母上様、ゴードン将軍の弔い合戦は果たしました。そろそろ記事にするような大きな戦争がなくなりそうです。自分は、国に帰ったら下院議員に立候補しようと考えています。ウィストン』
アメリカの研究者が、同国屈指の名門大学学生に、将来のビジョンを示せとたずねたところ、明確な答えをいった若者の多くが、二十年後に成功を収めているという。二十代半ばの野心的な青年チャーチルにも、それがあった。




