チャーチル・ノート/004 マラカンド野戦軍
チャーチルが、士官学校騎兵科に進むと、よほど性に合っていたのだろう。成績は百五十人中八位のトップクラスになった。
そのころ、父親・ランドルフ卿が突然政界を引退した。
政治家である父親ランドルフ卿の晩年は、一族の遺伝的な問題である鬱病を患って演説ができなくなり引退、闘病生活に入った。また、それまでの政治家としての活動で家の財産はすっかり傾いてしまった。「チャーチルと弟のジャックも成長したから、乳母の必要がなくなった」という理由で、多くの使用人たちと同様に、二人の乳母であるエベレスト夫人は、解雇されてしまった。
チャーチルは両親に抗議したが、両親は双方の実家から相続した財産をほぼ食い潰していて、エベレスト夫人を再雇用することは無理だということが判った。
学生だったチャーチルは、恩義を忘れず、自分の生活費を裂いて、可能な限り彼女に仕送りしてやり、また後に彼女が亡くなると、弟とともに葬式に参列。墓碑を買い、墓碑銘も書いてやって、近所の花屋に毎年送金して管理を頼んだ。
騎兵科の士官候補生は、高値である馬二頭を買わねばならない。飼料を買う費用も自腹だ。そのあたりも自前でやりくりしなくてはならない。――陸軍のエリートがなる歩兵科士官候補生はこういうリスクがない。
電報で父の危篤を知り、臨終を看取りに、寄宿舎から駆けつけた士官候補生は、父親から最後の言葉をきいた。
「いい馬は手に入れたか?」と。
チャーチルが父親・ランドルフ卿と会話した回数はかなり少ない。そのため、彼は父親がいった台詞を一言一句暗記していた。そして、永眠してから、九歳のときに買ってもらった『宝島』をむさぼるように読んだことを思い出したのだった。――けして家族崩壊はしていないのだが、なにか隔絶した家族関係。当時の上流階級特有の不思議な常態がある。
こうして、ウィストン・チャーチルは、文無しの家長になった。
母はまだ若く美しかった。社交界で大物を引っかけて、息子を引き立ててもらおうと売り出しに躍起だ。
新家長の長男坊は、家名存続のため、戦場で名をあげ、出世しなくてはならない。
――目立つためならなんだってやる。
名家の御曹司にしてはハングリーで、だんだん、ワイルドに、目が鋭くなっていった。
そして。
士官学校を卒業したウィストン・チャーチルは、驔騎兵第四連隊少尉に任官した。しかしそこに、若者の野心を満足させる戦場はない。
チャーチルは父親の友人である政府高官を介して、スペイン大使に話しをつけてもらい、同国植民地キューバ島での叛乱鎮圧に、オブザーバーとして参戦させてもらうことになったのだが、仲間と一緒に着いて数日後には休戦になった。
手柄を逸して落胆しロンドンに帰ると、今度はインドでの叛乱があり、所属する第四連隊ごと、彼の地に旅立つことになり、彼は満足した。
*
このころの彼の写真をみると、かなり眼光が鋭くなってくる。戦闘に参加したからだ。
チャーチルが所属する第四騎兵連隊が派遣された亜大陸は蒸したところだった。
部屋の中にいても汗がしたたり落ちてくる。
英領インド帝国の傘下には、おびただしいマハラジャが治める藩王国が存在した。インド南部にあるマイソール藩王国もその一つで、インド独立後はそのままマイソール州となり王都バンガロールは州都になった、かなり大きな都市である。
第四連隊はこの都市の基地に配属された。
安全な都市で、叛乱の気配すらない。
――僕は何をしているのだろう。
訓練が終わり、将校用宿舎に戻る。そこはちょっとした宮殿だった。
各将校たちは数名の地元民を召使に雇って暮らしていた。
「ウィスキー・ソーダを……」
肘掛のついた藤椅子にもたれかかると、召使たちが、大団扇であおいでくれる。
しかし戦闘は起らず、三か月の休暇をもらうことになり、チャーチルは悶々としながらロンドンに戻った。ところが入れ違いに、インドの奥地で、叛乱が発生したというニュースが飛び込んだ。チャーチルはすかさずインドの基地に戻った。
それで、サー・ビンドン・ブラッド将軍の叛乱討伐軍に、「休暇中の身ですが閣下のもと、戦闘にぜひ参加させてください」と手紙を送った。
返書は、「将校の数は足りているから君を必要としていない。ただし報道員として参加ならかまわない」というものだった。……要は、きてもいいが、野次馬の立ち位置だよ。という遠回しの皮肉だった。
皮肉と知っていても、お家再興のためには一刻も早く功名をあげねばならない。ここはあえて、ずうずうしく、その提案に乗っかった。早速、基地の連隊長に許可をとった。
「まあ、長期休暇中だから、なにをしようと君の自由だ」
「ありがとうございます」
野心的な青年将校は、バンガロールの駅に駆けだし、マラカンドゆきの列車に飛び乗った。……車窓にもたれること五日、汽車はユーラシア大陸・東西幅の三分の一強の距離になる三千三百キロを走った。それで六日目の朝に目的地に着いた。
「座りっぱなしで尻が痛い……」
マラカンドは、現在でいうところのパキスタン・イスラム共和国カイバル・パクトゥンクワ州にある。イギリス統治時代は、英領インド帝国に属していた。
カイバルといえば、初代皇帝バーブルが通ってきた峠の名前だ。
かつてイランから中央アジアにかけてチンギス=ハーンの末裔を称する男・チムールが帝国をつくっていた。同帝国がウズベク人の侵攻を受けて瓦解したとき、生き残りの皇族を担いだ残党が、なんと、インドを乗っ取って征服王朝を樹立させた。それがモンゴルを意味するムガール帝国だ。
近代になると、イギリスが乗り込んできて、ムガールの皇帝一族を追放し乗っ取り、インドが独立するまで、同国国王がイギリス領インド帝国皇帝を称するようになったのだ。
ブラッド将軍の討伐軍はこの町を拠点にしていた。
チャーチルが駅前をみやると、往来する隊商や住民たちに混じって、かなりの数の兵士たちが移動しているのが映った。彼はそこから基地司令部にいって、幹部に面会、事情を説明し隊伍にくわえてもらう。
すると、戦死した将校のだといって、馬を手配してくれた。
連れてきた兵士がいった。
「まったく、こんなド辺境、いったいなんの価値があるんだ。土民どもにくれてやればいいに」
そこで、チャーチルは、初代ムガール帝国皇帝バーブルがカイバル峠を越えてやってきてインドを征服した話をしてやった。
「地政学上の価値。あ、なるほど。さしずめ、いまここを狙っているのはロシアあたりか。騒ぎを起こしている土民どもにあわせて奴らが侵攻してきてここを占領したりしたら、インドは喉元を衝かれた格好になるってわけだ。……それにしてもチャーチル少尉は歴史にお詳しい」
「学生のとき、数学とラテン語は苦手だったがね」
戦闘はママンド渓谷でおこなわれていて、一個歩兵連隊千二百名が派遣されるところだった。チャーチルは第二歩兵中隊に潜りこんだ。
――出発。
馬上の中隊長がサーベルを抜いて号令する。
いくつかの小さな町を越えてゆく。
ムガール帝国は、ここカイバル峠からカルカッタに至るまで石畳の道路を整備した。それが「王の道」と呼ばれるものだ。イギリス統治時代も再整備している。渓谷に沿った街道・各都市には、隊商宿「キャラバン・サライ」があり、この時代もまだそこを利用していた。
このあたりは、峻厳な岩山に囲まれた渓谷に開けたところで、夏は涼しいが、そのぶん、冬になると雪が降る。
風景は、トウモロコシ畑から、山岳地帯になっていた。泥煉瓦でこしらえた原住民の家が点在していたのだが、それも途絶えてきた。
連隊の戦闘をゆく、第二歩兵中隊は、馬に乗った将校四人に対し、徒歩のインド兵八十人で構成されている。
敵伏兵の奇襲に備えて、連隊に属する各中隊は、間隔をあけて街道を行軍していたのだが、どうしたことか、先陣をゆく同隊は突出しすぎて、本隊からはぐれ寸断された格好になった。
そこをだ。
ママンド族が待ち伏せしていて、横っ腹を衝く感じで、射撃。それから抜刀突撃を喰らわせた。
隊伍が撤退する最中、将校たちが殺された。
チャーチルは死中に活とばかりに敵中に躍りかかった。
石つぶての雨。
さらに一人の敵の戦士が蛮刀を振りかざしてきた。
白兵戦だ。
引き抜かれたチャーチルのサーベル。
だが多数に無勢だ、若い将校は、そのまま岩山の頂き駆け上るより術はなかった。
そこを敵が包囲した。
もう駄目かというところで、本隊が駆けつけてきので、敵は撤退した。
チャーチルの武勇伝はブラッド将軍に賞賛された。
喜んだ青年将校は、そのまま歩兵第二中隊に残って戦いたいと希望したのだが、軍規は軍規だ。将軍の説得で、彼はバンガロール基地の連隊に戻された。
休暇期間はとっくに過ぎている。
本当か嘘か、彼が基地に戻るや否や、連隊長から、
「近くポロの試合がある。さっさと練習しろ!」
と叱責されたとかしないとか。
チャーチルはこの体験記を、『マラカンド野戦軍』という小説にして本国の『ディリー・テレクラフ紙』に送ったところ、年末に掲載されて好評を博した。
帰国すると、著作を読んだというサー・ソルズベリ首相に招待され、親しく会話した。そのことが政治家になる道への布石となったわけだ。




