ep1~ep10
~ep1~
高校1年の西条薫は時折腕時計を見ながら、自転車で爆走していた。
「ヤバい、あと五分でスタジアムに到着しないとまた監督に張り倒される」
時間がない事で彼の中に焦りを生み、注意力を散漫させる。赤信号で突っ込んできた自動車の存在も普段の彼なら気付いたはずだが、その日に限ってそれに気付かずに交差点へと入ってしまった。
彼が自分に突っ込んできた車を凝視するのと、その車に撥ね飛ばされるのはほぼ同時だった。
早朝の閑静な道路に響く悲鳴のようなブレーキ音と鈍い衝突音、彼は痛みを感じる間もなく意識を失った。
~ep2~
「薫! かおるっ!」
誰だろう? 誰かが俺の名を読んでいる。
目を開けると無機質な白い天井が目に入った。そして、俺の傍に寄り添っている女性。母だろうか?
だがいまいち視界がぼやけていて、はっきりとは見えない。おまけに全身が重い。まるで力が入らない。
「先生! 薫が目を醒ましました!」
先程の女性が、目に大量の涙を浮かべながら白衣姿の男性の手を握っている。あぁ、そうか。俺、あのまま車に轢かれてたんだ。
だが、何かがおかしい。
最初母だと思ったこの女性。明らかに声が違う。別人だ。となると一体彼女は何者なのか?
「そうだ! 薫は眼鏡が無いと何も見えないんだった。ゴメンゴメン」
俺が必死に目を凝らしているのを見かねて、女性は眼鏡をかけてくれた。だが俺は視力は両眼一・五あり、本来眼鏡を必要とする事はないはずだった。それなのに、その眼鏡は不思議と俺の顔に完璧に馴染み、視界のぼやけもなくなった。
しかし見れば見るほど、この女性が何者なのか分からなくなってゆく。自分の母でないのは確かだ。だが、彼女を見ていると妙な安心感が得られるのだ。かといって、どれだけ記憶を辿っても誰なのか見当もつかない。そんな事で俺が煩悶としているとは露知らず、夜になると彼女は病室から出ていった。
何とか立ち上がれそうだったので、俺は外を見ようと窓際へと歩み寄った。だが、そこに映る自分の姿を見て思わず仰天した。
「……寝よう」
俺は現実から逃れるかのように布団に潜り込んだ。
~ep3~
翌朝、看護師に連れられて便所へと入った。
まだ少し朦朧としていたが、鏡で自分の顔を見た時に昨日の衝撃を思い出した。
「やっぱり……夢じゃなかったのか」
鏡の奥からは、線の細い色白の少女が、不安そうに俺を見つめていた。
「これは一体どういう状況なんだ?女体化!? まさか……」
だが、どう考えてもそれ以上にまともな答えは浮かばなかった。
「……とりあえず部屋に戻るか」
先程の看護師に付き添われて、俺は元の病室へと戻った。
~ep4~
幾日か過ごすうちに、色々と分かった事があった。
未だに信じられない事だが、俺の身体が女になったのではなく、元々あったこの身体に俺の魂が入り込んでしまった。と考える方が適切なようだった。そして、あの不思議な女性はどうやらこの少女の母親のようだ。
しかし、そうなると俺の肉体はどうなってしまったのか? そしてこの身体の持ち主である少女の魂は今何処にいるのだろうか?
それに、いつまでも自分の正体を隠し通せる訳ではない。何しろ、俺はこの少女について何も知らないのだ。何故入院しているかすら分からない。
今は手術の影響で喋れない風を装っているが、いずれはこの無知さが露見する日が訪れる。その時俺はどうしているのだろうか?
恐ろしくてとても想像する気にならなかった。
~ep5~
俺が目を醒ましてから一週間がたった。
だいぶ自由に動けるようになり、最近はよくこの病院を歩き回っている。中でも、食堂から外に出た所にあるテラスがお気に入りだ。ここでコーヒーを呑みながら、一時今の摩訶不思議な状況を忘れてのんびりとするのだ。
今日も夕日を浴びながらそこで佇んでいたのだが、何処からか自分の名前を呼ぶ声がする。
始めは空耳かと思ったが、どうもそうではなさそうだ。俺は声のする方向へと、夜光虫が蛍光灯に引き寄せられるように吸い寄せられていった。
そこでは、ある少年が平行棒に掴まりながら懸命に歩行訓練をしていた。その傍では女性の理学療法士が、時折彼を励ましながら寄り添っていた。
「ほら、頑張って! 薫君。あと少しで10メートルよ」
間違いない。この理学療法士の女性は今、薫と呼んだ。そして懸命に歩行訓練に励む少年、その顔はまさしくーー
こちらに気付いた少年は、俺の顔を見て目を見開いた。
「えっ、私!?」
彼……いや彼女も同感のようだ。
少年の容姿は、何処からどう見ても俺だった。
~ep6~
誰もいないテラスの一角で、俺達は向き直った。とても相手の顔を直射出来ない。そこにあるのは自分なのだから。
「えっと、君の名前は?」
それまでずっとテーブルの木目を見つめていた俺ーー容姿が俺の少女は、救われたように顔をあげた。
「御門薫、です。貴方は?」
かおる……そうか。薫という名前は男女共に使われる名前だ。
「西条、薫……」
「薫……そうですか。名前が一致していたのですね。色々と合点がいきました」
御門は神秘的に微笑んだ。決して俺が見せない表情。だが、彼女の本来の顔ーー大きめの瞳に筋の通った鼻、色白の肌、そして腰まで伸びる艶やかな髪ーーならば容易に想像がつく。本来あのような表情が似合う子なのだ。
「それで、その……俺の身体はどうなったんだ? 車に突っ込まれたような記憶がおぼろげにあるんだが」
先程の歩行訓練を思い出して、急に不安になった。もし二度と走れなくなったら。
俺は一抹の不安を抱えながら、徐々に開かれる彼女の唇に注目した。
~ep7~
御門は少し躊躇いながら、口を開いた。
「奇跡的に外傷は殆どないみたいです。ただ……頭を強く打ってしまったみたいで、全身の神経が少し麻痺しているようです。あっ、でもリハビリ次第でだいぶ治るみたいですよ」
俺の顔がひきつるのを感じてか、慌てて最後に付け加えた。
「そうか。お前はどうなんだ?」
「へっ? 何がですか」
「何って、何で入院したんだ!? 事故か? それとも病気か?」
俺の勢いに圧されてしまったのか、彼女は顔を俯けてしまった。勿論俺の顔で。
「ゴメン。つい……」
「私は生まれつき心臓を患っていました。そのため幼い頃から何回も段階的に手術を受けていて、今回が最後の手術だったんです」
御門は俯いたまま、呟くように言った。
「そうだったのか。安心しろ、手術は成功したみたいだから」
俺は彼女を安心させる為に、手足を動かしてみせた。だが、顔を上げた御門はしかめっ面で俺を睨み付けた。
「えっ?どうした……」
「何でやっと手術が全て終わったと思ったら、今度は貴方のリハビリを受けなきゃならないのよ!?」
そう言って泣き出してしまったので、俺は黙って彼女の背中に手を当てた。その感触は間違いなく俺のものだった。
~ep8~
この身体の持ち主、御門薫はかなりの読書家らしい。その事は、彼女の母親が見舞いの度に持って来る本の量から、容易に想像出来た。
確かに生まれつき心臓を患っていた彼女は、他の子供たちのように外で走り回る事など出来ないので致し方ないだろう。だが俺は、物心ついた頃からずっとサッカーボールを蹴っていた運動バカである。今まで小説など一度も読んだことはなかった。だが、この母親は本を持って来るだけではなくそれぞれの本の感想を訊ねてくるので、読まない訳にはいかなくなった。
というわけで最近は、ひたすら慣れない読書に勤しみ、そして隙あらば本来の彼女が存在する俺の実体へと本を持って訪ねていた。
「お前の母さん、また訳分かんないもの持ってきたぞ」
今日は『エンキョリ片想い』という聞いたこともない作者の書いた恋愛小説を持って、御門の病室へと赴いていた。
「そんな事ないよ。雪季ちゃん可愛いし」
「そぉか? 俺はああいうよく分からない子はタイプじゃないなぁ」
御門は『エンキョリ片想い』を、音もなく机に置いた。
「別に貴方のタイプなんて訊いてないわよ」
そう言いながらそっぽを向く御門の表情は、少し淋しげだった。
「じゃあもう行くな」
俺は自室へ帰ろうと、腰を上げた。
「うん。次も何か本持って来てね」
「わかったよ」
自室のベッドに潜り込んだ時、不思議な事に心臓の鼓動が異常に早くなっているのに気付いた。
「おっかしいなぁ。そう言えば何か熱っぽいし」
そう言ったところで誰かが答える訳でもなく、狭い病室に寂しく響いただけだ。
「まぁいいや、寝よう」
俺は布団を頭から被り、眠りについた。
~ep9~
「それでは薫ちゃん、身体拭きますね」
入院していると風呂に入れないので、女の看護師が身体を拭いてくれる事になったのだがーー
「……目のやり場に困るな、こりゃ」
何しろ、身体は御門のもので、当然女だ。便所に行くときだって物凄く気まずいのに、今は殆ど裸同然だ。目をつぶりたい気分だが、看護師に不審がられるのでそうもいかない。
「何か言った?」
「いぇ、何も」
考えるな。心を無にするんだーー
「ぶっ!」
気を紛らわす為に外を見ようとしたら、窓ガラスに顔を真っ赤にして身体を拭かれている少女が目に入った。ヤバい、目が離せない。
「では、デリケートな所は自分で拭いて下さいね」
「は、はい!? 分かりましたっ!」
慌てる俺をよそに、女看護師は部屋を出ていってしまった。
「……拭ける訳ねぇだろ」
溢れ出しそうな欲求を抑えながら俺は、彼女の寝巻きを羽織った。
~ep10~
「でね、ここでーーがーーで……」
今日も小説を持って御門の病室へと訪ねていた。
彼女の話には適当に相槌をうちながら、俺の友人が持って来たであろうサッカーボールを弄んでいた。
「ねぇ、聞いてる?」
「あ、悪い。何だって?」
「もぅ。それ、貴方の友人が持ってきてくれたみたいですよ」
彼女の視線は、俺の手の中にあるサイン入りのサッカーボールに注がれていた。
「そう言えば、試合がどうなったか聞いたか?」
「惨敗だったそうです。薫がいればどうにかなったのに、って言われましたよ」
「そうか……」
ボールには、「早く退院しろよ」とか「俺らは薫がいないと駄目だから」という励ましの言葉で溢れていた。
御門が本を読み始めてしまったので、俺は久しぶりに外を見ようと窓際へ行った。開け放した窓からは、心地よい風が吹き込んでくる。このような魂が入れ替わるという不思議な状況に陥ってなければ、今の時間を楽しめるのだろうが。
ーー
「サッカー、か。あの人は今どうしてるのかな?」
本に目を落としながら御門が、呟くように言った。
「あの人?」
「あっ、聞こえてたのですか?」
御門は、窓辺に差し込む夕陽のように顔を真っ赤にしながら俺を見つめた。
「昔の話ですよ。私が初めて好きになった人が、サッカーをしていたのです。最も、凄く昔ですから、彼が今でもサッカーを続けている保証はありませんが」
普段は冷静沈着な御門が珍しく狼狽する所を見ると、可笑しくて思わず笑みが溢れた。
俺は認めざるを得ない。姿形が俺であるにも関わらず、俺はこの少女の内面に惹かれているのだと。
御門薫に惚れたのだと。
「本っ当に昔の話だからね!」
「わかってるよ」