第3話 接待命令
「も、もしもし」
「俺だ」
咲耶の言葉に重なるように、低い声が耳元で響く。電話越しに聞こえる永瀬の声は、なんだかいつもよりセクシーに感じた。しかし、そんなことよりも……
「オレオレ詐欺ですか」
番号を登録していれば、確かに名前がディスプレイに表示されるものの、一歩会社を出てしまえば、もう上司と部下ではない。彼氏彼女の関係であるなら、「俺だ」もありかもしれないが。
「上司の声くらい覚えておけ。毎日嫌ってほど怒鳴られてるだろうが」
「……」
言葉に詰まると、電話の向こうでふーっと息を吐く音が聞こえた。
「もしかして、喫煙ルームですか?」
「あぁ、一服しにきた。誰かさんのせいで俺の仕事が増えたからな」
「わ、私、やっぱり何かミスしてましたか?」
咲耶は突如不安に襲われた。あれだけ大口を叩いておきながらミスを連発していたとしたら、もう一生永瀬には頭が上がらなくなる。いや、そんなことより、月曜日からどんな顔して出勤すればいいのだ!?
もしかすると、出社したところで自分の席はとっくになくなっているかもしれない。本当にクビを宣告するために永瀬が電話をかけてきたのだとしたら、なんとしても汚名挽回をしなければ……!
「い、今からすぐ戻ります」
隣でずっと耳を澄ませていた佐伯が勢いよく振り向き、ぶんぶんと首を横に振る。
「佐伯さん、すぐに車を出して」
「……佐伯?」
電話の向こうで永瀬の声色が変わり、咲耶は焦る。
しまった! 素性がバレちゃう!!
今ここで何か突っ込まれでもしたら、逃れる自信はまったくない。
けれど、運が良いのか悪いのか、永瀬は今の状況をまったく別の意味に捉えたようだった。
「お前、今男といるのか?」
「え? ……あ、はい」
返答に困ったものの、男かどうかと言われれば、間違いなく佐伯は男である。父親と同世代である佐伯を「男」と言うのも、なんだか少し変な気もするが。
永瀬が「男」と言ったのも、別の意味だと分かっていた。けれど、佐伯が使用人だとは言えないし、「佐伯さん」と口にしてしまった手前、今更父親だとは誤魔化せない。
「家族と食事じゃなかったのか」
「聞いてたんですか? さっきの話」
「人聞き悪いこと言うな。聞こえたんだ。しかしお前も清楚を装っていながら、やることはやってんだな」
さすがにその言葉にはムッときた。しかし、反論したくとも今のこの状況ではきっと、永瀬は何を言っても信じないだろう。
「と、とにかく! 今から戻りますから。私のミスはそのまま放っておいて下さい」
「その必要はない」
「えっ、どうしてですか?」
いつもの永瀬ならば、「今すぐ会社に戻って来い!」と怒鳴りつける勢いなのに。拍子抜けした咲耶の頭に、一つの可能性が過る。
「やっぱり私、クビ……なんですか?」
「はぁ? 俺の一存でお前をクビにできるわけがないだろう」
呆れたような永瀬の声。それは遠回しに、権限があるならとっくにお前なんてクビにしている、と言っているようにも聞こえる。
一日も早く永瀬に認められる人材になりたいーーなんて、ただの思い上がりもいいところだ。咲耶は恥ずかしくなり、俯きぎゅっと目を閉じた。
「も、申し訳ありません……」
永瀬には毎日謝ってばかりだ。もちろんそれは自分のミスのせいなのだが。
「なんで謝る」
「だってまた私、ミス……しちゃったんですよね?」
「誰がそんなこと言った? さっきの仕事なら特に問題はなかった。俺がお前に嫌味を言うために、就業後の今、わざわざこうして電話してると思ってたのか?」
「……」
ミスがなかった事実にほっとしながらも、この永瀬ならありうると、咲耶は胸の内で思った。
「おい、否定しろ。俺はそんなに暇じゃない」
「じゃあ、一体私にどんな御用ですか!」
噛みつくように、つい感情的になると、永瀬が少しむっとしたように言った。
「はっ、いい態度だな。お前、自分の立場分かってんだろうな」
「えっ、いや、あの……」
また長い長いお説教が始まりそうな気がして、咲耶は何とか話を逸らそうと試みた。
「そ、そうだ! しゅ、主任、申し訳ないのですが……実は私、もうホテルに着いていて……」
躊躇いがちにそう切り出すと、電話の向こうで「ごほっ」と永瀬が豪快に噎せ、咳込み始めた。なんだかもの凄く苦しそうだ。
「主任? だ、大丈夫ですか?」
「ほ、ホテルって、お前……大胆すぎだろ。俺は一応、お前の上司だぞ」
「え? ごめんなさい、よく聞こえないんですけど……」
「いや、何でもない。これからはお前の見方を改めることにする」
「は?」
咲耶は意味が分からず、首を傾げた。何がどうなったのかは分からないけれど、永瀬は何かを彼の中で自己完結したらしい。
「邪魔して悪かったな」
「邪魔?」
「手短に言う。明日の夜、時間とれるか?」
「明日ですか? はい、特に予定は、……ないですけど」
あぁ、また急ぎの仕事が入って残業をしろと言いたいのだろう。咲耶はそう思い、少し気分が沈んだ。明日は華の金曜日だからだ。
とは言うものの、恋人もいない咲耶にとっては、アフター5に何かウキウキするようなイベントが待っているわけではない。仕事が終わればショッピングをするか、デパ地下で食材を買い込んでマンションで妹の帰りを待つか、くらいしかすることがない。
金曜の夜に暇な人間なんて、あのオフィスでは自分くらいかもしれない。明日の残業は永瀬と二人っきりか──きっとヘトヘトになっているであろう明日の自分が頭に浮かんで、咲耶は自嘲気味に笑った。
「残業なら、大丈夫です」
「残業? いや、そうじゃない。明日の夜、急遽接待が入った。もちろん部長も一緒だ。詳しくは明日話すが、相川、お前も同行してくれないか」
「せ、接待? 私が?」
入社して三ヶ月。咲耶はまだ接待どころか、外回りにも連れて行ってもらったことはない。そんな自分が、いよいよ外交デビュー!? それも、永瀬から直々のオファーで!!
胸躍らせる咲耶は、嬉しさのあまりその場で小さくガッツポーズを作った。
しかし、本当は連れて行きたくないんだけどな、という続きの言葉が聞こえた瞬間、ぴたりとその動きが止まる。
溜息交じりに心底嫌そうに話す永瀬は、部下の心をガツンと落とす天才かもしれない。
「明日は失態が許されないんだ。ああいう場に不慣れなお前が、例えばビール瓶を倒して相手方に被害が及んだ場合、契約が簡単におじゃんになる」
「そんなっ! 確かに心証はよくないかもしれないですけど、仕事とは関係ないことじゃないですか」
「そこだ、俺が恐れてるのは。接待はただの親睦会じゃない。大事な仕事で商談の場だ。酒が入って和やかなムードに見えても、裏ではお互い腹を探り合ってる。明日の商談相手は特に厄介で、契約もその時の気分にかなり左右されるって有名な話だ。そんな場所にお前のような『雛』を連れて行こうなんて、まったく部長の気が知れない」
最後の言葉は、ぐさりと咲耶の心にこたえた。どうやら大きな勘違いをしてしまっていたようだ。
永瀬の話を聞く限り、大方部長が「若い女の子を連れて行け」とでも言って、フロアで一番若い自分を指名したのだろう。永瀬に望まれているわけではなかった事実は、先ほどまでの咲耶の高揚した気持ちを一気に下降させた。
よくよく考えれば、主任が私を……なんて思うわけがない。いつもあんなに、失敗ばかりしているのだから。
まるで耳の垂れた兎のように、咲耶はしゅんと項垂れる。
「とにかく、そういうことだ。どうしても部長はお前を連れて行きたいらしい。行くからにはしっかり働いてもらうからな。もしへましやがったら、その時は……」
何かとてつもなく恐ろしい気配を感じとり、今度は背筋がピンと伸びた。
「し、死ぬ気で臨みますっ!」
「その言葉、忘れんなよ」
ぷつっと切られた電話。一気に肩の力が抜け、咲耶はそのまま後部座席に仰向けに倒れこんだ。頭の中で、最後の永瀬のセリフが何度もリピートされる。あの様子では、失敗したら絶対にタダじゃすまされない……。
たかが接待だと軽く考えていた。若い女の子は、席に座って相手の話に適当に相槌を打ち、ただ微笑んでいればいい。そう思っていた。それが、一気にハードルを上げられたのだ。
お嬢様育ちの咲耶は、誰かに酌をしたり、という経験もほとんどない。実家ではいつも使用人任せの生活で、大学生だった頃も、コンパや飲み会には誘われても参加しなかった。飲み会くらい参加しておけばよかったと、今になって後悔する咲耶だった。
「……佐伯さん」
「はい」
「私に、接待の心得を教えて!」
「……はい?」
こちらの作品を最後まで書き上げるべく、更新再開いたします。どうぞ宜しくお願いいたします。