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第2話 咲耶と咲希


 けっきょくあの後、永瀬は部長と一緒に会議室に篭ってしまい、定時の鐘が鳴っても出てくることはなかった。

 咲耶は言われた通り、時間内に全ての仕事を終わらせ帰る準備をしていた。しかし、永瀬にそれを報告せず先に帰ってよいものかと、先ほどから落ち着かない素振りで会議室と時計に目をやっては溜め息を繰り返している。

 そんな咲耶を隣で見ていた瑞穂が、含み笑いで言った。


「咲耶ちゃん、仕事が終わったんなら帰っていいわよ?」

「で、でも……」

「今日、デートなんでしょ?」

「……へ?」


 自分とは無縁の響きに、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。


「ち、違いますよ。で、デートなんかじゃないですっ」

「あら、そうなの? 咲耶ちゃん、今日は何か特別な日なのかなぁって思ってたんだけど?」


 一体、何を根拠にそんなことを言っているのだろう?

 咲耶は、首を傾げて瑞穂の続きの言葉を待った。


「今日のそのワンピース、どう考えてもデート服でしょ」

「えっ、これですか?」


 瑞穂に指差され、改めて自分の服を見下ろす。今日おろしたてではあるが、白生地にドット柄の至って普通のワンピースだ。妹が、自分とお揃いだと言ってバーゲンで買ってきてくれたものだった。


「白にジャストフィットなそのデザイン、おまけにその絶妙な丈。男心を擽るのよー。咲耶ちゃん色白だから特に映えるし、身体のラインと足の細さも強調されるし、私が男なら速攻で押し倒しちゃうと思うわ」

「み、瑞穂さん!」


 お、お、押し倒すとか、綺麗な顔をして一体何て台詞せりふを口にしてくれるのだろう、この人は!

 未だ嘗て男性とそのような展開を迎えたことがない咲耶は、想像しただけで身体中の血が沸き立つような感覚に襲われた。

 それを見た瑞穂が「あら」と声を漏らし、口に手を当てる。

 それ以上は何も言わなかった瑞穂だけれど、恐らく気付かれてしまっただろう。自分に男性経験がまったくない、という哀しい事実を……


「きょ、今日は母の誕生日なんです。だから家族で食事をすることになっていて、それで……。だからデートなんかじゃないんです」


 恥ずかしさを隠すように、咲耶は机の上を片しながら引き出しからバッグを取り出し、立ち上がった。とほぼ同時に、後頭部を書類でバシンと叩かれる。


「痛っ!」


 こんなことをする人なんて、一人しか思い当たらない。


「何するんですか! 主任!」


 振り向くと、案の定そこには仏頂面の永瀬が立っていた。

 けれど今の咲耶にとって、永瀬の帰還は好都合。瑞穂に先ほどの話を突付かれる前に、一刻も早くこの場を立ち去りたいと思っていた。


「お前が上司への報告を無視して帰ろうとするからだ」

「ち、違います! 私、ちゃんと今まで待ってたんです!」


 本当なら定時の鐘と同時にここを出ることも出来た。それでも、あれから三十分経った今もここに残っているのは、永瀬が戻ってくるのを待っていたからだ。


「だけど今、帰ろうとしてたじゃないか」

「そ、それは……」


 手にしているバッグにちらりと視線をやった永瀬にそれ以上何も言えず、咲耶はしゅーっと萎縮する。


「ちゃんと終わったのか?」

「え? あ、はい。全部終わりました。資料も主任の席へ戻しておきました」

「そうか。じゃあ、お疲れさん」

「……へ」


 今、「お疲れさん」と言ったのは、目の前のこの男なのか?

 否、永瀬がそんな労いの言葉を自分にかけたことは、これまで一度だってなかったはずだ。

 咲耶はしばし呆然と永瀬の顔を見つめた。

 帰宅間際、彼に「お疲れ様でした」と声をかけても、いつもは「あぁ」と言ってくれればよい方で、たいていは無視されている。最も、仕事に熱中しすぎていて声が聞こえない、という可能性もあるのだが。


「なんだ? 帰らないのか?」


 永瀬の眉間に皺が寄ったのを見て、咲耶ははっと意識を取り戻した。


「帰らないなら残業するか? いくらでも仕事はあるからな」

「か、帰ります! 今すぐに! お疲れ様でしたっ」


 慌ててフロアを走り抜ける咲耶の背中を見送った永瀬が、ふっと顔を緩ませたことは誰も知らない。 


「いい子でしょ? 咲耶ちゃん」

「……」


 二人のやりとりの一部始終を見ていた、ただ一人を除いては。





「あっ、もしもし咲希さき? ごめん、今会社出たの。どこにいる?」


 会社を出てすぐ、咲耶は妹の咲希に電話をかけた。

 咲希は双子の妹で、咲耶と違い自由奔放な性格の持ち主でもある。父親の会社に就職するなんて真っ平ごめんだと言って、母親にお金を借り、ランジェリーセレクトショップの経営を始めたばかりだ。


「咲耶の会社の裏側にいる。待ってるから早く!」


 電話を切って会社の裏側に回ると、見慣れた黒のメルセデスを見つけ、咲耶は駆け寄った。

 

「お帰りなさいませ、お嬢様」

「ただいま。佐伯さん、今日はごめんね」


 佐伯はにっこり微笑むと、後部座席のドアを開けた。

 彼は知花家で古くから働く使用人で、咲耶や咲希が小さかった頃から、学校やイベントの送り迎えをしてくれていた馴染みある男だ。

 後部座席に乗り込むと、呑気に咲希がメイクをしていて咲耶は呆れた。


「ちょっと、メイクくらい家でやって来なさいよ」

「そんなこと言ったって、今日は営業であちこち歩き回って汗かいちゃって。さっきマンションに戻ってシャワー浴びてきたばかりなの!」


 そう言う咲希の髪は、確かにまだ少し湿っているようだ。


「しょうがないなぁ。ほら、あっち向いて。髪の毛アップにしてあげるから」

「わーい! ありがと、お・ね・え・ちゃんっ」

「気持ち悪いからやめて」


 二人のそんなやり取りをバックミラー越しに見つめていた佐伯が、嬉しそうに笑って言った。


「こうしてお二人が車に乗っている光景、本当に懐かしいですね」

「そう言えば、高校の時以来?」

「そうなりますかな。お二人を最後に車にお乗せしたのは、大学の入学式の日ですから」


 佐伯は寂しそうに微笑んだ後、静かに車を出した。

 二人は小中高と世間で言うお嬢様学校に通っていたため、どこへ行くにも車で送り迎えする光景は、自分たちに限らず当たり前だったし、何の疑問も持っていなかった。

 しかし、その後共学の国立大学に進んだことをきっかけに、初めて自分たちが特殊な部族の人間だということに気付いたのだ。


「私も咲希もあの日、びっくりしたの……」


 蘇るのは、大学の入学式の日の記憶。

 いつものように大学の前に車をつけてもらい、佐伯が後部座席のドアを開けてから二人は一歩を踏み出した。しかし、外に降り立った瞬間、周囲から浴びせられた好奇な視線。それはあまり居心地のよいものではなかった。

 その意味がまったく分からなかった二人は、入学式で名前を呼ばれて初めてその理由を知る。


「なんだ、知花のお嬢様じゃん。だから使用人に送り迎えさせてんだ」

「なんか嫌味じゃない? わざわざ学校の前に車つけさせるなんて」

「一般人とは違うのよってアピールじゃない?」


 わざと聞こえるように言っているとしか思えない女子の陰口。どうやら、好奇な視線の正体は一種の妬みらしい。

 もちろん二人には、周囲に見せつけたいなんて気持ちは全くなかった。これまでの環境が、二人の世界ではごく当たり前のことだったのだから。

 本当は両親にも、大学もエスカレーター式の女子大に進んだ方がいいと言われていた。けれど、興味のある学部がそこにはなく、あえて受験という険しい道を選んで見事合格を手にしたのだ。

 合格発表の日、両親は二人の合格をどこか複雑な表情を浮かべながら祝ってくれた。それはもしかすると、大事な娘たちが別の世界へ飛び込んで行くことを案じてのことだったのかもしれない。

 今までの常識がことごとく通じない、そんな世界……


「だけどね? 私も咲希も、やっぱり外に出て良かったって思ってるの。外の大学に行って初めて知ったこともたくさんある。最初はもちろん戸惑ったけど……私たちは恵まれすぎてるんだってこと、十分思い知ったから」


 大学に入って出来た友達の中には、学費もアルバイトを掛け持ちして自分で稼いでいるんだって子が何人かいた。

 地方から上京してきている子も多くいて、学費を払ってもらう代わりに、親からの仕送り援助は一切なく、生活費を自分で稼いでいるという子も珍しくなかった。

 咲耶と咲希は、学費は全額両親が出してくれているし、実家暮らしだったから生活費はかからない。そして十分すぎるお小遣いももらっていたので、アルバイトなんてする必要もなかった。

 それまではそんな生活が当たり前だった二人だが、両親に甘えきっている自分たちがだんだんと恥ずかしく思えてきて、少しずつ自立の道を歩み始めたのだ。

 とは言うものの、いきなり学費を稼ぐ、なんてことを世間知らずのお嬢様が簡単にできるわけもなく、まずはアルバイトをしてお小遣いを自分たちで稼ぐことから始めた。

 そして大学4年間、アルバイトを続けてお金の有り難味を実感した二人は、社会人になったと同時に実家を出た。二人で都内のマンションを借りて一緒に暮らし始めたのだ。

 お嬢様はやっと、「自立」のスタートラインに立ったのである。


「旦那様も奥様も、お二人がこうして自立されたことをとても悦んでおられます。ですが、たまには顔を見せに帰ってあげて下さい。特に奥様は、一度にお二人がいなくなったことで、とても寂しい思いをされていますから」

「そうね。社会人になってまだ日が浅いから、正直余裕がまったくなくて……。だけど、たまには咲希と一緒に実家に顔出すようにするわ」

「ぜひそうなさって下さい。いつでもお迎えにあがりますから」

「ありがとう」


 ラフマニノフのピアノ協奏曲が流れる車内。クラシック好きの佐伯は、いつもラフマニノフやショパン、リストなんかの曲をかけて運転する。

 子供の頃はそれが退屈で仕方なく、その音が子守唄のような役割を果たしていたのだが、大人になった今は、気分がリラックスできてとても居心地のいい空間になった。


「間もなく到着しますよ」


 その声に窓の外を見ると、両親と待ち合わせしているホテルが真正面に見えた。


「はいっ、咲希の髪もちょうど終わり!」

「ありがとう、咲耶」


 鏡で自分の姿を確認して満足そうに笑う咲希を見て、咲耶も自然と顔が緩む。

 ホテルの敷地内に入ると、すぐにベルボーイが誘導を始めた。


「お母様たち、もう着いてるかな?」

「待ち合わせ五分前。確実に着いてるでしょ」


 咲希が腕時計を確かめながら、脱ぎ捨てられていた靴に足を伸ばす。

 車が停まるとすぐ、ベルボーイが後部座席のドアを開けてくれた。


「行くよ、咲希」

「ちょっと待ってよー」

 

 パーティー用の小さなバッグを持って身体を乗り出した時、会社用のバッグの中で携帯が鳴っていることに気付いた。

 急いでバッグを手繰り寄せ、それを取り出して着信の相手を確かめる。


「えっ……」


 思いも寄らない人物の名前がディスプレイに浮かび、咲耶は固まった。

 不思議に思った咲希が、後から携帯を盗み見る。


「ながせ……はるき? えっ、咲耶、男じゃん!」

「ちょっ、何勝手に見てんの!」


 咲希の黄色い声に、咲耶は慌てて携帯を隠した。しかし、時既に遅し、というやつだ。完全に名前を見られた上、それを読み上げられてしまったのだから。

 咲希だけじゃなく、佐伯までニヤリと意味深な笑みを浮かべてこっちを見ているじゃないか!


「ち、違うから! この人はただの私の上司で主任なの!」

「ふ~ん? ただの上司が、仕事の後に一体何の用なの~?」


 完全に疑われている!!


「そんなの知らないよ! どうせ仕事のことで難癖つけるために決まってる!」

「じゃあ早く出れば~? 電話、切れちゃうよ?」


 そう言って楽しそうに反対側から車を飛び出した咲希は、きっと今のことを両親に話すに違いない。

 咲耶としては一刻も早く阻止したいところだが、鬼の永瀬の電話を無視することもできず、仕方なく電話に出た。



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