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第1話 オフィスに棲む鬼


「お前は……何度言わせれば気がすむんだ!」

「す、すいませんっ」


 オフィスの一室で、この世のものとは思えない鬼の形相をして怒鳴りつける上司を前に、ただ身体を竦めて立ち尽くす。

 知花咲耶(ちばなさや)。今年大学を卒業したばかりの22歳。父親が経営する外食産業グループ《CHIBANA》に入社するも、父親との取り決めで身分を隠し、社内では母の旧姓――相川(あいかわ)を名乗って働いている。


 国内に多くのレストラン事業を展開するCHIBANAは、近年海外へも事業を展開しており、咲耶は新人として海外事業本部に配属された。

 グローバルな仕事をすることが昔からの夢だった咲耶が、配属先の辞令を目にした瞬間飛び上がって喜んだことは言うまでもない。

 脳内で飛行機のビジネスクラスに乗り、タブレットPCを片手に世界中を飛び回る自分を想像しては、輝かしい未来にうっとりしていた。しかし、そんな咲耶を待っていたのは震え上がるほどの恐怖の日常だった。


「お前、配属されてどれだけ経つ? いつまでも学生気分でいられちゃ困るんだよ」

「すみません……」

「すみません、すみませんで何でも許されると思ったら大間違いだ!」


 デスクを書類の束でバンと叩き、一際大きな雷を落としたこの鬼上司は、28歳という若さで主任に上り詰めたスーパーエリートである永瀬陽輝(ながせはるき)

 見た目は社内でも屈指のイケメン。その人気は入社当時、女子社員の間で骨肉の争いが繰り広げられるほどで、今でも当時の出来事は伝説となっているそうだ。

 だけどそんな伝説の彼は、入社後程無くして本性を見せ始める。


「おい、相川。お前……聞いてるのか!?」

「はぃぃぃぃっ」


 そう、彼は……優しさなんて微塵も持ち合わせていない、血も涙もない冷酷な男だったのだ。


「お前に頼んだ俺がバカだった。もういい、早く席に戻れ」

「……はい」


 精一杯の謝罪を込めて深く頭を下げた後、とぼとぼと自分のデスクに戻ろうと踵を返した背中に、「まったく。サポートされるどころか、余計に仕事が増えたな」と、止めの一言が浴びせられる。

 しかし、本当にその通りなので、返す言葉もない。


「大丈夫? 今日は特にご機嫌斜めみたいね、永瀬くん」


 咲耶の隣に座る入社七年目である香川瑞穂(かがわみずほ)が、落胆する咲耶に言葉をかけた。

 

「ーーいえ、主任に迷惑ばかりかけてるのは……本当ですから」

「そう? 私は咲耶ちゃん、頑張ってると思うけどなぁ」


 いつも永瀬に怒られた後、自分はただのダメ人間なんじゃないかと、どんどんマイナス思考に陥っていってしまう。けれど、こうして優しい言葉をかけてくれる瑞穂がいるから、咲耶はギリギリのところで何とか踏ん張り切れているのだと思った。


「瑞穂さんがいて下さらなかったら私、きっと三日ももたなかったと思います」


 自分のミスが原因だけれど、しばらく耳鳴りが残るほどの余韻を残すまで怒鳴られる日々が続くと、自分は一体何のためにこの会社に入ったのだろうーーと、時々分からなくなることがある。

 入社前はあんなに心躍らせていたというのに。


「そんなことないわよ。だって咲耶ちゃん、なんだかんだでもう配属されて三ヶ月でしょ? よく耐えてると思うもの。咲耶ちゃんが永瀬くんの下に来る前はね、毎年新人の男の子が彼の下についていたの。当時はまだ彼に役職はなかったけど、昔からあの調子で、新人くんたちもすぐにびびっちゃって一ヶ月ともたなかったのよ」


 当時のことを思い出してか、瑞穂は深い溜め息をついた。 


「え、一ヶ月で辞めちゃったんですか?」

「だいたいが異動かな。中には辞めちゃった子もいたけど」


 なるほど。そんな選択肢もあるのか。

 もちろん、異動したいなんてそんなことを本気で思っているわけではないが、いざという時の逃げ道があるのだと思うと、途端に心のゆとりが生まれる。

 しかし、それはほんの束の間のことだった。


「残念だが、お前のような中途半端な人間はどこに行っても使い物にならない」

「ひいっ」


 後ろを振り向いて驚いた。いつからそこにいたのか、鬼のような形相をした永瀬が、仁王立ちしながら眉根を寄せ、咲耶を威圧するように見下ろしていたのだ。


「相川、これだけは言っておく」

「な、な、なんですか」

「俺に気に入られなければ、お前の未来はないと思え」

「はっ……」


 今、なんと。

 俺に気に入られなければ……なんて、信じられない台詞が聞こえた気がするのは、気のせい?

 咲耶は口をぽかんと開けたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「おい、間抜け面。聞いてんのか?」

「き、聞いてますよっ。……って、間抜け面って言わないで下さい! そ、それに、中途半端って失礼じゃないですか! 私、これでも一生懸命やってるんです!」


 売り言葉に買い言葉な勢いでつい反論してしまった咲耶は、目の前の永瀬の顔が引き攣ったのを見て「しまった」と思った。


「ほぉ~? お前、一体いつから俺に反抗できる立場になったんだ? あぁ?」


 その迫力と言ったらまるでヤクザのようで、咲耶の身体は恐怖で震え上がった。

 永瀬は間違いなく根に持つタイプだ。こっちが忘れたところで、後からネチネチと嫌味を言われることは間違いない。今後しばらくはまた自分に対する風当たりが強くなるだろう。そう考えただけで、泣き出したくなる。


「口答えする暇があるならそれ、さっさと片付けろ」


 冷たく言い放った永瀬はくるりと背を向けると自分の席へ戻って行く。


 やっと嵐が去った……

 そうほっと胸をなでおろした数秒後、目の前にドサリと落とされた書類の山に、咲耶は再び目を見開く。


「これも今日中だ。できるよな? 俺に一人前に扱ってほしいんだろ?」

「お、お、お……」


 心の中の自分が、永瀬に向かって「鬼ーっ!!」と叫んでいる。しかし、本人を前にしてそれを口にする度胸はない。

 永瀬は軽くポンと咲耶の肩を叩くと、「残業は禁止。定時までに必ず上げろよ」と釘を刺し、フロアを後にした。


 目の前には三つの小高い山。咲耶はそれをただ呆然と見つめる。あと六時間で、これを全部片付けろと……?


「咲耶ちゃん、大丈夫? 手伝おうか?」


 心配そうに顔を覗き込む瑞穂に、咲耶は首を横に振って応えた。瑞穂に手伝ってもらったなんて永瀬に知れたら、更に彼の反感を買ってしまうだろう。それに……


「私、確かに出来は悪いかもしれないですけど……意地はあります」


 世界中を飛び回るキャリアウーマンになることを夢見ているのは本当だ。そしてその理想に最も近い存在である永瀬に、早く認めてもらえる人材になりたいとも思っている。

 すっきりした表情に変わった咲耶を見て、瑞穂は安堵の溜め息を吐いた。





「おい、あと三十分で定時だぞ。進捗はどうなってんだ? ちゃんと報告しに来い。報連相は社会人の基本だ」


 どうせできてないんだろ? さっさと頭下げろよ、とそう言われているような気がした。

 確かに普段のペースで進めていたら、定時内に全てを終えることはできない。けれど、データをシステムに打ち込むのは回数をこなせばどんどん作業が早くなって時間短縮されるし、資料作成も苦手としていたグラフに応用が利くようになった。


「申し訳ありません、主任。一分一秒も無駄にできなかったのでご報告が遅れました。後でお持ちしますが、こちらがもう終わっているものです」


 咲耶の席の右端にできた資料の小高い山を三つ、咲耶は右手でぽんぽんと叩いていく。


「残りの二十枚も、定時までには終わります」


 本来であれば上司の方に顔を向け、きちんと立ち上がって報告をしなければならないところだが、時間に追われている現状を一番永瀬が理解しているはずだから、今日だけは大目に見てもらおうと咲耶は思った。言い出したのは他でもない、永瀬なのだから。


「ーー終わる? これ全部?」


 想定外の咲耶の返答に、永瀬は驚いたような声を上げた。

 永瀬であればほんの数時間で片付けてしまえる作業量ではあるが、相手はまだ頼りなさが残る新人。そんな咲耶のいつものペースからしても、絶対に定時内に終えることは無理だと端から考えていた永瀬は、完全に度肝を抜かれたように言葉を失っていた。


「主任が仰ったんですよ? 定時までに上げろって」


 クールを装っているものの、咲耶の胸のうちは為て遣ったりで、にんまりと口元が緩みそうになるのを必死に耐えた。あの永瀬に初めて勝った。それだけでこんなにも満たされた気持ちになるなんて、なんだかクセになりそうだ。もっともっと仕事ができるようになって、彼を見返してやりたい。


「ふん。これくらいできて当たり前だ」


 少しくらい部下を誉めてやろうとは思わないのか。永瀬は素っ気なくそう言うと、タイミングよく部長に呼ばれてその場を立ち去った。


「永瀬くんのあんな顔、初めて見たわ」

「え? あんな顔?」


 瑞穂にそう言われ咲耶の頭に浮かんだのは、目を見開き口をぽかんと開けた、さっきの永瀬のちょっと間が抜けたような顔。いつも冷たく険しい表情を崩さない永瀬のそんな顔には、入社以来初めてお目にかかった。


「やっぱり私、期待しちゃうなぁ。咲耶ちゃんには」


 クスクスと楽しそうに笑う瑞穂を横目に見ながら、その先の視線に咲耶は気付く。そして次の瞬間、息が止まった。


「え……」


 それは永瀬の視線だった。いつもの無表情のまま、部長の前で堂々と余所見をしている彼の痛いくらいの視線に、咲耶はすぐに捕らわれる。

 ほんの数秒だったと思う。だけど確かに重なり合っていたのに何でもないようにふいっと逸らされ、咲耶は戸惑った。


「何、今のーー」



小説家になろうサイトで初の執筆作品のため、かなり緊張しています。。

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