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神社の社殿は、一般に拝殿と本殿からなる。
参拝者が礼拝を行う参拝用の施設が拝殿で、実際にご神体――神様が宿るとされる物体が祀られているのが本殿である。
他にも、鳥居、参道、灯篭、狛犬、手水舎、神楽殿、摂社、末社など様々な施設があり、これらは多くの神社に共通して存在する。
また通常、鎮守の杜と呼ばれる森林が神社を取り囲むように付随しており、この鎮守の杜は現世と神域との境界線の役割を果たしている。
楓歌の実家であるこの磐蔵神社では、階段を上り切って正面の参道を進むと、境内のど真ん中に大きな古い建物がある。これが拝殿。京志郎が昨日賽銭を入れ、お願いごとをしたのもここだ。
そして、拝殿の裏に回るともう一つ建物が建っている。これが本殿だ。
大きさは拝殿に比べて小さいが、その外観の良さは拝殿のそれと比べ物にならないくらい勝っていた。明らかに、手前のボロ屋敷よりは若く見える。
鮮やかな塗装や煌びやかな装飾がなされているわけではないが、その見た目の差は単純に拝殿よりも新しいということが理由になるものではなかった。
古さは拝殿と変わらないだろうが、そこには滲み出る徳のオーラに明確な差がある。
神様がここにいます、と言われれば、理屈抜き納得してしまうであろう、長い時を思わせる姿の中に厳存する神秘性。
てっきり廃れ切った神社だとばかり感じていたため、そんな感覚的な高貴さを漂わす本殿に、京志郎は少々驚かされた。
京志郎が本殿に目を奪われている間に、楓歌は本殿の、そのさらに奥へと進んで行く。その歩みの先に目をやると、鎮守の杜の中に抱かれるように、もうひとつ建物が建っていた。木造の、一見すると倉の様にも見て取れる平屋建ての建造物。
「おいこれ……もしかして」
「うち」
「だよね!表札付いてるもんね!」
倉チックな入り口の壁に、ロックな(京志郎主観)アルミのプレートが張ってあり、それは明朝体で大きく『KUROSAKI』と名乗りを上げていた。
「神社っぽさ台無しだよ!」
ついつい、他人の家の前だということも忘れて、大声でツッコんでしまう。ご両親に聞かれでもしたらどうしよう、と叫んでからビビったが、楓歌は気にも留めずに、鍵を取り出して玄関の穴に刺し込む。
「意外と中は『洋』なんだな」
和の雰囲気を全力で醸し出す目の黒咲邸の外装とは打って変わって、家内は目新しい洋風造りで、存外広く、外観で印象付けられた手狭さも容易に覆された。
物音一つしない長い廊下を楓歌に付いて進むと、襖に閉ざされた部屋の前で彼女がひた、と脚を止めた。
「ここで待ってて」
襖の奥への入室を目で促し、お茶を用意してくるからと言って、楓歌は廊下を進んで行ってしまった。
「ふむ、どうしたもんか」
なんと不用心な。
京志郎が楓歌の部屋を探し当てて、押し入れを物色して『このふりふりワンピかわいいー!』とか、箪笥をガサ入れして『意外と大胆な下着持ってんだな……』とか、その手の悪行を働くかもしれないのに。
元よりそんなつもりは無いものの、まだろくに会話もしていない自分を、完全に信用し切っているのだろうか?
急に家に招いたりと、どうにも楓歌の心の距離感は謎が多い。
素直に黒咲の言葉に従い、襖の奥で待機することにする。
中は六畳ほどの、客間にしては狭い部屋だった。部屋中央にあるちゃぶ台の傍に、疲れた脚を投げ出して腰を下ろした。
(しかし、生活音のしない家だなぁ。両親や兄弟はどうしてるんだろう。まさか、他に誰もいないということはないとは思うけど)
そして、思い出したように座を正す。ここは他人の家だ。簡単にリラックス出来るわけもない。
しかも、『教室の隅で仏頂面を浮かべ空を眺める寡黙な美女に家へと招待される』というのは、京志郎の短い十数年の人生においては、語り草になるほどフィーバーなイベントだ。
緊張しない方がおかしい。
楓歌の入れるお茶の到着を待つ間、京志郎はレンタル猫のように大人しく、窓の向こうにそびえる森――鎮守の杜を眺めていた。
すると、
ヴヴヴヴヴヴヴヴ……
「なんだ?」
静謐な部屋の中へ、やにわに奇妙な音が流れ込んで来た。
ヴヴヴヴヴヴヴヴ……
連続的に鳴り続けているその音はどうやら何かの振動音の様で、襖で仕切られた隣の部屋から聞こえてきているようだった。
ヴヴヴヴヴヴヴヴ……
「携帯でも震えてんのかぁ?」
鳴りやまないその音は、一度聞こえてしまうとどうにも気になってしまう。耳障りな音波を停止させるべくすっくと立ち上がり、襖の引き手に手を掛けたところで、
「……ん?」
ヴヴヴ、とはまた別の音が聞こえてきた。
「――――――――――。」
ヴヴヴヴヴヴヴヴ……
振動音と被って聞こえるその音は、ヴヴヴに比べれば小さな音だったので正確には聞き取れなかったが、どうやらそれは人の声の様だった。
「なんだ、家の人いたんだ」
原因不明の安堵と失意を練り合わせたような感覚を抱きつつ、「挨拶しておくべきか?」「いや、勝手に襖を開けるのは失礼なのでは?」などと、京志郎の中の常識的好青年な部分が、脳内で議論をし始める。
その間もヴヴヴ音はずっと鳴り続け……
「ん?なんか、また人の声が聞こえるぞ?」
振動音の隙間から漏れ聞こえる声に耳を澄ませると、
「あっ、あん……、あん、んっ……いい……、そこ……いいっ……」
脳内議論は会議机ごと、一瞬にして忘却の彼方へ吹き飛んで行った。
(えええええええっ!!)
(待て待て待て待て!なんだこの声はっ!)
(これは……女の人の声……だよな?なんか、喘ぎ声みたいに聞こえるんだけど……)
顔面の温度が急速に上がり始め、正常な思考を失いかけている京志郎に畳み掛けるように、
「あぅ、あん……、あぁーっ気持ちいい……ぞ……。あっ、んあっ、あっ、そこ……ダメ……イイ……っ!あっ!ああっ!んん……っ!」
(おいおいおいおい。なんだなんだなんなんだ。なんだ気持ちいいって!)
(ダメなのか!イイのか!どっちなんだ!!)
やけにしっとりとした妖艶な声が溢れるエロスを滲ませて部屋の中に響き渡り、京志郎の鼓膜を震わせて脳回路を桃色に染め上げる。
(しかもさっきからヴヴヴって……)
振動音と女性のよがるような声を同時に聞いて、男子高校生が思い浮かべる光景などそう沢山は無い。
というか、大体一つに決まり切っている。京志郎もその例外ではなかった。
(これって、やっぱ……い、いやらしいことを…………)
その間も謎の振動音と妖艶な声は続き、京志郎の歪んだ想像力を加速させる。
彼の目には、襖の向こうで棒状のナニカを股に宛てがい、脚をクネらせて悶えている女性の姿が、あたかも現実のもののように透けて見えた。
ゴクリ……
生唾を飲む音が、髄にまで響く。
既に京志郎の理性は塵芥ほども無く、気が付けば、好奇心と警戒心、そして下心の小片を握って襖に手を掛けていた。