1-6
「いえ、」
「……」
「……」
「へ?」
用件は済ませたとばかりに、また前に向き直ろうとする楓歌。
否定の語を初めに置いて「いいえ、○○です。」といった風に答えるのかと思いきや、楓歌の口はその二文字だけを音にして閉じられた。
「え、ちょっと待て。だからどこなんだ?」
虚を突かれたが、京志郎は慌てて訊ね直す。楓歌は俺の方へ向き直り、やはり無表情で、
「だから、いえ」
いえ、イエ、家。
「私の家」
(は?え?家?今コイツ、家って言ったか?)
戸惑う京志郎を置いて、楓歌は前を向き、先に進もうとする。
「ま、待て待て待て!家ってまさか、黒咲の!?」
「そう」 こくり。黒咲は首肯を一つし肯定。
「えっ、ええぇ……マジかよ……」
「まじ」 こくり。落ち着いた声が答える。
楓歌が何故そんなにクールでいられるかが分からなかった。自分はこんなにも急速に焦り始めているというのに。
京志郎の中の常識では『家に呼ぶ』という行為は、ある程度の友好関係が築かれている人間同士で起こり得るもの。
もしくは、招待した側からの『これからお友達になりましょう』という意思を表示するものだった。
前者はないとしても、仮に楓歌が友達作りのターゲットに自分を選択したのだとしたら、それはそれで光栄なことであり、その意向に沿うのも吝かではないのだが――もし本当にそうだとしたら、楓歌は見かけによらず相当に大胆な人物だ。
何せ、二人は会話をしたのも、ついさっきが初めてのことなのだから。
相手の腹を読もうと必死に思考をめぐらす京志郎に、
「何で驚くの……?」などと宣う黒髪ロング。
「いや、何の脈絡も無く家にお呼ばれしたら多少は慌てるのが普通だろ。こっちにも心の準備ってもんがだな、」
「?」
「な、なんだよその『キョトン』って擬音が聞こえて来そうな顔は」
楓歌は本当に純真な眼で首を傾げる。しばらく思考を巡らせ、
「次からは前もって言う……」
と、楓歌なりに反省したんだろうか、次回での改善を約束した。こんなこと、わざわざ言及するまでも無く分かりそうなものだが。
(ていうか、次があるのかよ)
それからしばらくは2つの足音だけが二人の間を行き来した。
黒咲楓歌は京志郎が思っていたよりもさらに無口で、言葉数が少ないというレベルを遥かに逸脱していた。
道中に会話は一切無く、楓歌は時折振り向いて、斜め後ろを歩く京志郎がちゃんと付いてきているかをチラリと確認し、目が合うとすぐに視線を逸らして前を向き、若干早歩きになる、という一連の行動以外は何のアクションも無かった。一体何の意思表示なのだろう。
自分から会話を振るべきだったのかと一瞬思いもしたが、京志郎も口数が多い方ではないし、今はなんとなく無駄話出来るような心境にはなかった。
黙然と右斜め半歩前を歩く楓歌の横顔を横目に覗き見る。その整った顔つきは、無表情、と言うよりは無感情。顔色からは何を考えているのかまるで見当もつかない、全くの無を呈していた。
手持無沙汰な道のりは、周りの景色を色々と眺めることで何とか埋める事が出来た。
この辺りは京志郎の家の付近よりも山に近く、特別な用事でもない限り滅多に来ることもないので、見慣れない街並みを見るのは暇つぶしくらいにはなる。
ただ、目的地に近づくにつれて、京志郎の中にはある予感が芽生えていた。虫の知らせ、とでも言うのだろうか。
二人は山肌の傾斜に面する、所々にひび割れの出来たアスファルトを歩く。
――と、言うのも、京志郎には滅多に来るはずのないこの道を、ごく最近通った記憶があったのだ。
そして直後に、その予感が気のせいでなかったことを思い知らされた。
「あの、まさかだけどさ、黒咲ん家って……あそこか?」
反対側の歩道にある斜め前の『そこ』を指差すと、楓歌は京志郎の人差し指の延長線上に目をやってから、瞼を持ち上げて驚きを露わにする。
「そう」 コクリ、肯定。
やはり……
その真向かいまで来て楓歌が脚を止めた。
「ここ。この上」
目的地を見上げる楓歌。その視線の先には、鬱蒼とした木々に抱かれた長い長い石階段が天まで続いている。
京志郎は舞い戻って来てしまったのだ。昨日訪れた神社に。
◆
まさかクラスメイトの実家だったとは思いもよらなかった。
言及しなかったということは、逢阪も知り得ない事実だったのだろう。
森の中に吸い込まれていく楓歌を追って、京志郎も階段に足を掛ける。
「お前、毎日この階段通って学校来てんの?」
「うん」
「よくやるぜ。俺なら学校に着く前にくたびれちまうよ」
「下りはそんなに辛くないよ……。上りも慣れればだいじょうぶ……」
(慣れればって、そんなことすれば脚筋だけが競輪選手ばりに発達ちまって、身体のバランスがおかしくなりそうだけど)
と思ったが、数段先を上る楓歌の、制服から少しだけ見えている脚は非常に細く白かった。とても綺麗なのだが、華奢な身体でこんな階段を上っているのを見ると、倒れないかと少し心配になる。
一方の京志郎はと言うと、
「はぁ、はぁ、……きちぃ」
上り始めてしばらくした段階で両脚の筋肉痛が思い出したかの様に自己主張をし始め、運動エネルギーを位置エネルギーに変換する作業は、昨日以上に困難だった。
注釈しておくと、彼がはぁはぁ言っているのは、階段の高低差のせいで楓歌のスカートの中身が覗き見えそうになって興奮しているからではない。
楓歌は、スカートを折って丈を短くする、と言う、多くの女子が日常的に行う簡易制服改造をしていないらしく、スカート丈は膝が余裕で隠れるほど長いので、中なんか覗けるはずがない。
(……って、これじゃあ俺が、覗けるチャンスがあればいつでも覗くやつみたいになってるじゃねーか!)
「どうしたの……?」
「え、いや、なんでもない」
「そう……。もう少しだから、その……頑張って」
楓歌からエールを受けて、京志郎は苦笑い。なんとも情けない気持ちになる。
しばらくすると、参拝者を境内へと迎え入れる石色の鳥居が見えて来た。
ボロの注連縄で二本の柱が繋がれた姿は、昨日に見たままだった。
楓歌は、たったったっと頂上まで駆け上がり、京志郎がそれにつられるようにしてゴールを潜ると、制服のスカートを翻して振り返り、掌を上に向けて右手を伸ばしてきた。
新緑に囲まれた境内では、風に棚引く楓歌の黒い髪は良く映えて、とても絵になった。
手を差し伸べる彼女は、教室での物憂げな面持ちでも、放課後に見せた困惑顔でも、道中の淡白な無表情でもなく、京志郎の目には、その表情は確かに笑みに映った。
初めて見る楓歌の頬笑みに京志郎はまた、目を奪われる。
(不意打ちだぜ。まったく)
何の前触れも無く向けられた、柔和で朗らかな微笑。少し照れたように頬を染め、嬉しそうにこちらを見つめる。
そんな顔も出来るんだな、と京志郎が下手な照れ隠しを言い放つ前に、楓歌は言った。
「磐蔵神社へようこそ」