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彼女は切れ長の眼を尖らせ、緊張した面持ちで下駄箱の蓋を開ける。キョロキョロと人目を憚るように辺りを見回すと、スカートのポケットから何かを取り出して、慎重に下駄箱へと入れる。
その白魚のような指に摘まれたものは、京志郎には小奇麗な封筒のように見えた。
「あっ……(しまった!)」
思わず声を上げてしまった。慌てて口を噤んだが、手遅れだった。
バッ、と彼女は京志郎が発した間抜けな声に振り向き、目が合った途端、その大きな目は驚愕の色を呈してさらに見開らかれていく。
彼女は左手で下駄箱の蓋を開け、右手に封筒を握った体勢のまま固まってしまった。
よく見ると、セーラーの胸のあたりに結ばれたリボンが赤色なので1年生だ。まさか同い年とは。
黒髪女子は京志郎をじっと見つめて微動だにしない。対する京志郎もなんとなく目を逸らせず、気まずい空気が30秒ほど二人の間を包み込む。目力がものすごい。
「あの、」
びくっ!ばたん。ひらり。
京志郎が耐えきれずに口を開くと、その女の子は驚いたように少しのけ反り、解放された下駄箱の蓋が物理法則に従い音を立てて閉まる。
そして彼女は、京志郎が二の句を告げる前に、走って逃げて行ってしまった。
相当慌てていたのだろうか、手にしていた封筒をその場に落としたまま。
◆
「うーむ」
京志郎は自分の席に座して、腕組みして唸る。正直、授業なんか一切耳に入らなかった。
それもそのはずだ。5限の国語の授業は、『モンゴル文化における「ありがとう」の価値観』とか言う内容だったが、京志郎の目の前にはもっと重大な問題が鎮座してのだから。
机の上に置かれた一枚の薄紅色の封筒。封はされておらず、中には同じ色の便箋らしきものが入っているのが確認できる。宛名は記されていなかった。
無論、昼休みに会った女生徒が落としていったものだ。
「うーむ……」
さらに頭を抱えて唸る。モノがモノだけに昇降口に放置するのも気が引けたので持って帰って来たものの、こんなものどうすればいいのだ。
下駄箱、封筒、とくれば、中の手紙に書かれている内容も自ずと察しが付く。
――ラブレター。古風ではあるが、あのどことなく奥ゆかしい麗人ならばむしろ似つかわしいくらいだ。だとすれば、これは今すぐにでも持ち主の手に返すべきだろう。
だが、事がそう上手く行かないのは、京志郎があの女子のことを全く知らないからだ。返そうにもクラスも分からないし、今まで見かけたことさえない。
問題はそれだけではない。と言うか、これが京志郎の頭を一番悩ませている原因でもある。
あの美人が手紙を忍ばせようとしていた下駄箱、京志郎の記憶が正しければ、その中には京志郎の靴が入っていたはずだ。つまり、この手紙の宛先は……
「うむむむむむ……」
しかし解せないのは、万が一この手紙の宛先が自分だったとしても、京志郎とあの娘には全く面識がないことだ。
(あんな綺麗な娘が俺に一目惚れを?……いやんいやん、ありえん)
自分でも不細工ではないと思うが、一目惚れされるほど容姿がいいとも思えない。
背は高いほうかも知れないが、今時それだけで惚れる女がいるとも思わない。
正式に渡されたわけじゃないので、もし自分宛じゃなかった時のことを考えると、中を見るのは気が引けた。
一体これをどうすれば良いのだ。
「……わからん」
「なにがや」
京志郎が机に突っ伏していると、上から関西弁が降ってきた。逢阪は、前の空席に勝手に座って、
「授業の内容が理解出来んかったんか?」
「ちげーよ」聞いていなかったので、理解出来なかったと言えばそうなのだが。
「まぁ、せやろな。京志郎は国語と体育だけは得意やし」
おいおい、勝手に人の成績を脳筋標準に設定するな。音楽も割りと得意だよ。と、抗議しようかと考えた時、ふと思いついた。
逢阪ならば、彼女が誰か分かるのではないか?
情報通を名乗っており、新聞部の活動から顔も広い逢阪なら、可能性はある。
「……お前さ、この学校で一番の美人って誰か分かる?」
「はぁ?なんや急に。オレを魔法の鏡か何かやと思ってんのか?」
「なに訳分からんこと言ってんだ。いいから教えてくれ」
京志郎が促すと、逢阪は一瞬たりとも思案せずに、当たり前みたいに答える。
「そりゃあ、3年の『佐々倉一姫』さんちゃうの?」
佐々倉一姫。
その人なら京志郎も知っていた。有名な学校のアイドル、いやマドンナなので、知らない方がおかしい。
高校のパンフレットの表紙にも載っていたし、校内で名前も良く聞き、写真やポスターなども度々見かける。だが、
「いや、佐々倉さんじゃないな……。1年生だったから」
「んん~?1年の女ぁ?他に特徴は?」
京志郎が彼女の特徴を告げると、
「それって、アイツのことちゃうんか?」
糸目男は思案顔を満了させて、教室の左端の角に向けて人差し指を伸ばした。(って、え?まさか……同じクラス!?)
予想外すぎる身近さで示された回答に驚きながらも、慌てて逢阪の指さす方へ体ごと振り返って目線を移す。そこには、
「……どこだ?」
誰もいない。
そこにあるのは現国の時間から眠りこけっている短髪ツンツン頭の男子の屍だけだった。この惰眠を貪るイガグリ頭のことを指しているのだとしたらとんだご冗談だ。
出鱈目を抜かす悪友に抗議の言葉を浴びせんようとした瞬間、
「あっこや!よう見てみ」
逢阪はガッ、と頭を両サイドから押さえ、京志郎の視線が先ほど指し示した方向に固定する。目じりが間抜けに垂れ下がった京志郎の眼に映ったのは、
「えっ……?」
いた。そこには女の子がいた。
自堕落に脱勤勉を果たした生徒が席替えで手に入れた日には思わず小躍りしだすであろう、教室の一番隅の席。
近眼の者にとっては悪夢かもしれないが、多くの生徒にとっては授業という束縛された時間において最も自由を獲得できる特等席。
そんな、みんなが羨む窓側最後方、掃除用具入れの前の席に彼女はいた。
彼女は椅子に深く腰掛け、頬杖をついてぼんやりとガラスの向こうを眺めている。
丸まった背を漆黒の長髪が覆っており、窓の外の空だか海だかを見つめる若干の憂いを含んだ横顔は、やはり桁外れに整っていた。
――しかし、何かが違う。
「京志郎、おんなじクラスの女を覚えてないってのはアカンやろ~。一緒の組になってもう1ヶ月やで?」
「いや、覚えてないって言うか……」(ちょっと待て、話しかけるな。今俺は混乱してるんだ。)
「しかも、あんな美人を全く眼中に入れずにいたとは、さすが、月嶋に釘付けなだけあるわ。……んや、でも急にあの子のことを聞きたがるってことは、もしかして、あの子のことが気になり始めたとか!?ついに鞍替えの時か!?」
逢阪が横で何か喋っているが、京志郎の耳にはほとんど入ってこなかった。
◆
――彼女の名前は、『黒咲楓歌』というらしい。
逢阪曰く、楓歌は京志郎たちの隣の中学出身で、教室ではいつも誰とも話さずに静かにしているのだと言う。
彼女が同じクラスだったことにも驚いたが、なんと出席番号が京志郎の次だったのだ。嫌でもニアミスしているはずだが、どうして今まで気が付かなかったんだろうか。大人しい子だったとしても、そんなことがあり得るものなのか?