8-3
ビニールシートの上に置かれていたポールペンは、触れてもいないのにひとりでに動き出した。
『如何やら、京志郎の中の我への信心を、不信心が上回った様だな』
立ち上がったペンは紙の上を走り、その足跡に達筆な文字で堅苦しい文章を記す。
普通ではありえない光景も、今の京志郎なら、目を疑わずに見ることが出来る。
――筆談。
楓歌曰く、ペンを走らせているのは、目には映らない、目の前の空間いる恋火だそうだ。
(本当に、普通じゃ見えないもんだったんだな……)
『信じて居ない物を感じる事は困難で在るからな。我を恋愛成就の神だと認めて居た心が、故有って我を否定する気持ちに変わったのだろう』
その姿のみならず、声や気配も、今は全く感じられなかった。
「でも、俺は別に、恋火さんが神さまってことを、否定してなんかないですよ?」
『御主の意識上では、然うなのかも知れぬが、信仰に重要なのは無意識の心だ。其れに、神だと認めた上で、否定して居るのかも知れぬ。疫病神、と云う風にな』
スラスラと走るペン先からは、その言葉に乗せられた感情を読み取ることは出来なかった。
『原因は云う迄も無く、京志郎の想い人の誤想に因る物だろうな』
恋火が楓歌からの神入りを解いた瞬間を見られたことが、想依の誤解を招く決定的な要因となっている。
だとしたら、京志郎が無意識的に恋火のせいだと感じるのも、無理からぬこと。
楓歌は唇を噛んで、痛恨たる思いで、小さく呟く。
「申し訳ありません……。私の……私が考え無しに行動したばっかりに、」
「お前のせいじゃねぇって言ってるだろ?……だから、んな顔すんな」
楓歌は黙ったが、その顔からは、京志郎の言葉を素直に受け入れたようには見えなかった。
『責任の所在なぞ如何でも良い。其れよりも、問題は京志郎の信心を如何に取り戻すかだ。如何やら御主の信心は、知らぬ間に可成り大きな物に成って居た様だな。此度の事で、我の中の神力は大きく削がれた。復活には更に時間が掛かるだろうな』
「それなら心配ないです。俺、明日にでも月嶋に会って、誤解を解いて来ますから」
『其れは良いが、恐らく其れだけでは、完全に信心は戻らんだろうな』
「どうして?」
『如何して?御主、自分が我に何と祈ったかを忘れたのか?』
ペン先は毅然とした物言いだった。
『御主は其の想い人と懇意に成りたいと願ったのだぞ?其れなのに、今や其の女子との距離は寧ろ遠退いた。誤解を解いたとしても、その距離が縮まる事は無い』
「……」
それは京志郎自身、忘れかかっていたことだ。
思えばその願いは棚上げされたまま、ずっと放置されていた。
「だったらどうすれば……」
『簡単な事だ。方法は一つ』
無味乾燥なインク文字は、それが全くなんでもないことのように言う。
『御主が、告白するのだ』
◆
翌日の放課後。京志郎は体育館裏の中庭に居た。
ベンチに浅く腰かけて両膝に肘をつき、緊張した面持ちを浮かべていた。
人を待つだけで、ここまで心がざわついたことはなかった。
中庭を取り囲む草木が、そよ風に揺られて微かな音色で奏で合う。
その一音一音さえ気になるほど、彼の神経は薄く尖っていた。
まだ、想いを告げると決まった訳では無い。それなのに、唇は熱砂のように熱く渇いていく。
京志郎の手には、薄紅色の封筒と便箋。
一度は手放してしまったその手紙は、奇しくも、再び京志郎の元にやって来た。
汗ばんだ手で掴まれているそれは、すっかり湿り気を帯びてしまっていた。
それもお構いなしに、さらに強く手紙を握り締める。手繰り寄せた一縷の望みを、今度は決して手放さないように。
◇
『実を云うとな、御主には一度、「恋文作戦」を実行しようとしたのだ』
恋火の持つペンがそう言った後、楓歌が取り出した二通の封筒を見た時、京志郎は驚きを隠せなかった。
見覚えのあるピンク色の封筒と、色以外は全く同じ型のブルーの封筒。
『此れを、今此処で再び御主に託す』
桃色が宙に浮き、京志郎の手元に舞い降りる。もう一方の水色は、もう一度楓歌の手に。
『此れは我の力の結晶だ。必ず、御主の願いを還して見せる。京志郎、我を信じよ』
京志郎の気持ちを全く勘案しない、その強い語調からは、神の威厳が少しだけ垣間見えた。
◇
(恋火さんの、力……。人の心を引き寄せ合う、力)
その力の片鱗を、京志郎はこの中庭で、確かに一度見た。
今なら少しだけ分かる。その力が、確かに自分の背中を押そうとしてくれていることを。
だとしても、心の準備が出来ているわけではない。
告白をすることなど初めてだし、その積もりも、昨日までは無かった。
本来ならば、告白することは京志郎の本意ではない。誤解を解けさえすればいいと、今でも多少は思っている。
それでも自分は、ここに来た。手紙を持って、ここに来た。
想い人に自分の気持ちを打ち明けたいという願望を、自分を受け入れてほしいという切望を、この手紙が高めようとするのだ。
想依もこの高まりを感じているのなら……あるいは……
「あ、いたいたー」
小さな足音と共に、少し舌足らずな声が到着した。
「やっほー久遠くん」
「月嶋……」
「ごめん、お待たせしちゃったかなー?」
「いや、全然待ってない」
微苦笑する月嶋想依に、京志郎はそう答えるが、勿論、これは嘘だ。
本当は気が遠くなるほど待った。
想依に以来、永遠かと思うほどの時を経て、ようやくここに辿り着いたのだ。
「そっか、良かった。――で、どうしたのかな?こんなところに呼び出すなんて」
「わりぃ、部活で忙しいだろうに。でも、どうしても話しておきたい、大事な話があるんだ」
「そうなんだ。うん、いいよ。まだ時間あるし」
想依は笑顔で言う。その振る舞いが、いつもより若干しおらしく見えたのは気のせいなのだろうか。
「でもでも、わざわざこーんなかわいいお手紙くれるなんて、久遠くんも意外とマメだねー」
想依が取り出したのは、恋火お手製の空色の便箋。
「そういうところが、黒咲さんを惹きつける決め手になったのかなー?」
京志郎の顔が険しかったからだろうか。
想依はそんな軽口を叩くが、京志郎はさらに顔を強張らせて、
「……茶化さないでくれ、俺は真剣なんだ」
「えっ、あ、ごめん……。そんなつもりじゃ」
「……いや、こっちこそごめん」
少しの気まずい沈黙を経て、京志郎は口を開く。