7-3
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桜と九条は向かい合って座る。
景色は上から下へゆっくりゆっくりと流れ、ゴンドラは二人を空へと運ぶ。
九条は興味あり気に外の景色を見ていたが、提案者である桜はずっと俯いたままだった。
「観覧車なんて久しぶりだが、結構良いものだね。素晴らしい眺めだよ」
半分ほど上った頃、眼下に広がる景色を瞳に映し、九条が独り言のように呟いた。
釣られて一望した桜も例外なく目を奪われる。
「わぁ……」
朱く染まる街とオレンジ色に輝く海原は幻想の一瞬。
世界を包み込む赤は、時間と空間の優位性を瓦解させ、二人の心を無次元の高みへと押し上げる。
何者にも支配されない絶対的な感性だけが二人を強固に結びつける。
今、この瞬間だけは、二人の心は確かにリンクしていた。
「……この時と場所を、もっと早く知っていれば良かったよ……。勿体ないことをしていた」
雛罌粟の畑のような眼下の景色を目に移し、九条は歯噛みしながら、しかし満足そうな表情で言う。
「でも、見られて良かった。もし君の誘いを断っていたら、僕はここを知らないまま一生を過ごしていただろう。ありがとう、桜くん」
この感謝は桜が意図したものではなかった。
全くの偶然、桜の時間稼ぎじみた思いつきが、たまたま功を奏しただけだ。
しかし、たとえ偶然でも桜の目には、桜が本当に好きな九条の姿が還ってきたように見えた。
九条の中に、写真を愛する気持ちが確かに垣間見えた。
「先輩は、次のコンテストには出ないんですか?」
つい、そんな科白が口を衝いて出る。
目の前の先輩が、自分が憧れた本来の姿を取り戻したことを確かめたかった。
そんな桜の想いとは裏腹に、九条はばつが悪そうに、
「……分からないんだ、まだ」
窓から視線を移すことなく答える。
「僕の作品に欠けているものが、一体何なのか。それの答えが、未だに全く見えないんだ。それが見えないまま闇雲に撮っても、きっと僕が目指す所へはたどり着けないだろう」
「九条先輩……」
「だから僕の気持ちとしては、その答えが見つかるまでは、コンテストには出たくないっていうのが本音。まあ、部長が出ろって言うなら、従うけどね。これ以上、部をないがしろにするのは、君にも悪いし」
まただ。
心臓が強く握り締められたように痛い。
眉尻を下げた九条の申し訳無さそうな表情が、途方もなく腹立たしい。
この人は何もわかってない。何も気づいてない。
今までの九条と桜の関係は、理想的な先輩後輩の関係だったと言えよう。
部活動でも普段から桜は九条を慕っており、高い撮影技術や写真に対する本気の姿勢に憧れていた。
そのことを九条も自覚しており、自分について回る桜を、熱心で写真愛に溢れたかわいい後輩だと認識していた。
二人の関係を繋ぐものはあくまで写真部の活動のみ。それ以上の関係を意識したことは互いになかった。
「私は、先輩が………………先輩の写真が大好きです」
「桜くん……?」
心の底から沸々と、知らない気持ちが湧き上がる。
芽生えた落胆を燃料に、未知の気持ちが燃え上がる。
「先輩の写真に対する本気の姿勢にも尊敬してるし、その表現力に憧れていました。私なんかと比べ物にならないくらい写真が好きで、写真に対して真剣で、私なんかじゃ写せないものを写し出して、でも決して満足することなく、ひたすらに奇跡の一瞬を追い求めて……。私は、そんな先輩に本当に憧れていたんです……。だから、だから今日ここに来たんです!私には何も出来ないけど、それでも先輩に元気になって欲しくて……。だから私、先輩が笑ってくれた時、本当に嬉しかった……!先輩の力になれたって思ったんです……!部活を休んだのは間違いだったかも知れないけど、それでも先輩がいない部活がイヤで、一刻も早く先輩に戻ってきて欲しくて……。だから、だから私は……」
心が書き殴る科白が止めどなく流れ出る。そこに思考や理性は関与出来ない。
堪らず立ち上がって叫びだした。
「私は、先輩が……っ」
ガダッ。
ゴンドラが激しく揺れた。
九条がいきなり立ち上がったのだ。
桜は驚いて口を噤んで仕舞ったが、目の前の九条はそれ以上の驚愕をその表情に呈していた。
「みえた……」
天啓を受けたような、はたまた幻でも見ているような、長年追い求めた奇跡の願いを手にしたときのような。
「桜くん……。カメラは持っているかな……」
「へ?」
「カメラだよ!持っていないのかい!?」
虚を突かれて馬鹿みたいな声を出してしまい、咄嗟に口元を隠すが、九条はそんなことには一切気にも留めずに、桜に迫る。
「も、もってないです……。今日は家においてきました……」
「そうか……。僕もだよ……。くそっ!僕としたことが、迂闊だった……っ!やはりカメラは肌身離さず持ち歩くものだ……!」
いきなり、本当にいきなりすぎるタイミングで自分の用意の悪さを憎む九条。
流れも空気も雰囲気もあったものではない。
出鼻を挫かれ、腰を折られ、桜は居たたまれなくなって赤面する。
このまま舌を噛み切ってしまいたいと思うほどに恥ずかしさがこみあげてくる。
だが九条は、そんな桜にはお構いなしで、
「わかった、仕方が無い。この観覧車が下まで降りるのを待とう」
もう桜には、九条の言動が意味不明だった。
直にゴンドラは円を描き終え、九条はゴンドラから出るや否や、猛ダッシュで売店まで走り、何かを購入していた。
戻ってきた彼の手には、
「インスタントカメラ……ですか?」
「そうだ。よし、桜くん。もう一度、観覧車に乗ろう!」
「え、ええ!?」
有無を言わせずに九条は桜の手を引いて強引にゴンドラに連れ込んだ。
「先輩……一体になにを……」
「見えたんだ、奇跡が」
「……はい?」
「いや、僕にも定かではないけど、君が立ち上がった瞬間、景色が停止したんだ。何が起きたか、僕にも分からない。でも、何か美しいものを見たのは確かなんだ。夕焼けと、水平線と、君の……涙が、僕にそれを見せたんだっ!」
九条は興奮の眼差しで桜を見つめる。
「それが奇跡の一瞬だと気が付いた時には、もう時は進み始めていた。もしあの場でカメラを手にしていたら、あるいはその奇跡を切り取る事が出来ていたかもしれない」
支離滅裂を極める説明だったが、九条の瞳は尋常ならざる熱を帯び、彼の中で燻っていた情熱が燃え上がらんとしていることを桜にも悟らせた。
「何せ一瞬の事だったから確証はないが、僕は何かを掴める気がする。あの一瞬には、僕に足りない何かを教えてくれる。そんな気がするんだ」
目を輝かせ、期待に胸を膨らませ、心躍らせて九条は言う。
今の九条は、桜の良く知る、桜が憧れる、桜が大好きな先輩の顔へと戻っていた。
円の天辺まで来ると、九条が桜に向けてシャッターを切る。
「ちがう……。これじゃあない……。やっぱりインスタントでは限界か……」
九条は苦渋の色を浮かべる。
「いや、時間帯も関係しているんだろうな。もう夕日はほとんど沈んでしまっている。これは僕の見た奇跡とは違う」
九条は心底悔しそうだったが、同時にこの上なく楽しそうでもあった。
桜は拍子抜けだ。
やっと自分の気持ちに気づいて、やっとそれを打ち明けられそうだったのに、もう九条は桜の助けなどいらない程に元気になってしまった。
自分の美学を追及することに夢中になってしまった。
元通りになったことが嬉しいという気持ちも勿論あるが、同時に切ない気持ちも大いにあった。
「桜くん。非常に申し訳ないんだが、1つ頼みごとがある。今日のことについても僕は君に大きすぎる借りがあるというのに、その上さらに懇願など、厚かましいにも程があるのだが、聞いてほしいことがあるんだ」
それでも。写真が恋人の彼でも。今は一緒に居られて、必要とされることが幸せだった。
「またここへ来ても良いかな?君と一緒なら、僕は新しい境地にたどり着けると思うんだ」
「……はいっ!」
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