7-2
「楽しめましたか?」
そんな心の緩みからか、桜は全く意図せず自然に九条にそう問うていた。
お互いに歩き疲れた頃合いで入った小さなカフェのコーヒーを、九条は舌で転がしながらしばし黙考し、微笑して言った。
「あぁ。楽しかったよ」
その言葉は桜を腹の底から喜ばせると共に、九条に心の老廃物がすっかり吐き出されつつあることを自覚させた。
――それは実に不思議な感覚だった。
たった1日の内に、これほどまでに心持ちに変化がもたらされることが今までにあっただろうか。
以前に地の底へと堕ちた時は、自分の身体に鞭を打ち、自分の両手だけで這い上がって来た。
プライドと意地、それだけを頼りに立ち直ったのだ。
今回もそうやって這い上がるつもりだった。
折れた剣を打ち直し、壁に突き刺して登ってやろうとした。
しかし、何度造り直しても、すぐに剣は刃毀れを起こす。
何度自分に言い聞かせても、砕けたプライドは元には戻らなかった。
気が付けば、剣を打つことも止め、壁を前に途方に暮れる自分の姿だけが残っていた。
燃え尽き炉内の炎が吐き出す灰色の煙だけが、鬱陶しく視界を閉ざしていた。
我ながら単純だと思う。
自分ではどうすることも出来ないと悟ったら、目の前の差し出されたエサがどんなに怪しいものでも、手に取らずにはいられない。
騙されるものか、と言い聞かせながらも、知らぬ間に両手は糸を手繰っていた。
すると、地の底で蹲っていたはずの身体が、やにわに浮かび上がる。
不思議な感覚が、下から自分を押し上げる。
巻き付いていた重りが砕け、壁の向こうが目の前まで下りてくる。
顔を上げれば、天辺は手を伸ばせば届きそうなほどに近づいていた。
あとは、自分が手を伸ばすだけ。それだけだ。
「ここ最近、ずっとあのコンクールのことばかり考えていた。納得の行かない結果を突き付ける世界を呪うことしかしていなかったよ」
「九条先輩……」
「自信があったんだ、かなり。その前のコンクールでのミスも完璧に克服したつもりだったし、小さな大会と言うこともあって、最優秀賞か、それに準ずる賞は堅いと踏んでいた。……まぁ、勝手な思い込みだったわけだけどね」
九条はコーヒーを飲み干し、自嘲気味に言う。
「わ、私も!あの写真は、すごく素敵だと思います……!」
「ありがとう。うん、僕もそう思ったんだけどね。どうやら僕の作品には、何かが足りないみたいなんだ。決定的な、何かが。――でも、それが何かは、いくら考えても分からなかった」
「……」
桜は二の句を継げ無い。
自分は九条の写真が大好きだ。
九条の切り取る世界には、自分の目では追えない、ほんの一瞬の奇跡が写り込んでいる。
そこに何かが足りないなどと、思いもしない。
自分の大好きな作品を否定されるのは悲しかったが、それを産み出した当人に対して、何も分からない自分が無責任に言えることなど無い。
黙り込む桜の心情を察してか、九条は苦笑し、
「どうも、僕は深みに嵌っていたようだ。久しぶりに外出して、いい気分転換になったよ。君にも迷惑をかけてしまったね」
申し訳なさそうに、そう言った。
「い、いえ!良いんです私は!……先輩が元気になってくれたなら」
「君だって、今日の撮影会は楽しみにしていただろう。それを、こんな腑抜けのために棒に振らせてしまうなんて、僕は何て詫びればいいか分からないよ」
「そんなお詫びだなんて!私が勝手にしたことなんですから」
桜が慌てて否定すると、九条はやや怪訝そうに目を細める。
「君が勝手に?誰かからの指示じゃないのか?」
「えっ、違います。部活の人たちは関係ないです。……私が個人的にしたことです。出過ぎた真似だったでしょうか……」
「あ、いやいやそんなことはないよ。しかし、僕はてっきり天満さんあたりの差し金かと思っていたよ。僕に業を煮やして君を差し向けたのかと」
顎に手を当て、九条は不思議そうに思案する。
対する桜は、胸の内に言いようの無い落胆を感じた。自分でも正体が分からない、大きな落胆を。
「君が僕のことをそこまで案じてくれていたなんて気が付きもしなかった。部活には行き辛いが……これからは毎日顔を出そう。約束する。もう部のみんなに迷惑はかけないよ。君がここまでしてくれたんだからね」
「……っ」
桜は悲痛な思いで唇を噛んだ。
違う。何かが違う。
自分が伝えたかったことは、そうじゃない。
輪郭の見えないもやもやとしたもどかしさが、心の中で暴れまわる。
「君が今日部活を休んだ理由は、僕の口からも説明しよう。叱られるのは僕一人でいい」
九条の表情は、桜の良く知る憧れの先輩の顔にほぼ戻っていた。
「九条先輩……」
込み上げてくる感情が、無意識に彼の名を呼ぶ。
「ん?どうしたんだい、桜くん」
「最後に、あと一つだけ、私のわがまま、聞いてくれませんか……」
少し間があってから、九条は静かに言う。
「一つと言わず、幾つでも聞こう。今日の僕は、君の言いなりだ」
きっと彼は優しく微笑んでくれているのだろう。
こっちの気も知らずに、まるで「かわいい後輩」でも見るかのような目で。
⇔
「おい、おい黒咲!」
カフェのソファに包まれてうつらうつらする楓歌の肩を京志郎が揺すった。
「う……うぅ……」
朝から歩き詰めで疲れたのか、楓歌は眠そうに目を擦って声にならない呻き声を上げる。
「起きろ!あいつら、店を出るみたいだぜ!」
「うぅ……ううぅ……」
寝ぼけまなこの楓歌を引っ張って、九条たちの後を追う。
「駅に向かってるみたいだな」
時刻は午後5時を過ぎ、会場内の客の中にも帰り支度を始める者があちこちに見られた。
人の群れがそれなりの大きな塊となって、島の出口である駅へと進んでいく。
その流れに九条たちもいた。
「もう帰っちゃうのかな……?」
楓歌が心配そうに問う。彼女も気が付いたらしい。
桜の顔つきが、先ほどまでのそれとまるで別人のように違う。
無理矢理にでも振る舞おうとしていたぎこちない笑顔が消え、暗く物悲し気に頭を垂れる姿は、ぼんやりとした失意の色を呈していた。
カフェにいる間に、二人に何かが起きたのだろう。
それは九条の側からも読み取れることだった。
時間が進むに連れて徐々に柔らかさを取り戻し、微笑が見られるようになった九条の顔は、今は項垂れる桜への憂慮で塗り替えられていた。
遠目ではなんとなく旨く行っているように思えていた二人のデートが、最後の最後で思いもよらぬ事態に陥っていた。
「分からねぇけど……このまま帰っちゃあマズイだろ」
と言うものの、京志郎たちが近寄っても出来ることなどないのもまた事実だった。すると、黙って歩いていた桜が、突然立ち止まって九条の方を向いた。
「あっ、ヤベぇ!隠れろ!」
「きゃっ」
京志郎は楓歌の腕を掴んで、桜の視界の死角へ身を潜める。
「悪ぃ、大丈夫か?黒咲」
「う、うん。ちょっとびっくりしただけ……。それより桜さん、どうしたのかな……?」
覗き込むと、桜はいやに真剣な面持ちで九条に何事かを話しかけていた。
桜の言葉に九条は少々驚いた様子だったが、直ぐに微笑みを取り戻し、1つ首肯をした。
二人は歩く向きを変え、人の波を抜けて行く。
「どこ行くんだろ……」
「とにかく追おう!」
二人の背中を追ってしばらく歩くと、少し開けた場所に出た。
「ここは……」
「うわぁ……」
京志郎と楓歌は二人して空を仰いだ。否、それは空ではない。
二人の視線の先には、大きな赤い鉄の車輪。回る無数のゴンドラがゆっくりと空を裂く。
桜と九条はその足元へと吸い込まれていった。
⇔