6-1
それから数日後の朝。ちょうど京志郎が登校してきた時のことだった。
「久遠くん……」
「……」
「久遠くん……?」
「……」
「久遠くん……!」
「……」
「……」
「……ぇぃっ」
「!」
小さな掛け声は京志郎には届かなかったが、背中に掛かった圧力はしっかりと彼の身体のバランスを奪う。
「おおぅっ!」
背を押され、転倒しそうになったが、ギリギリで持ち堪えた。
驚愕と困惑の顔で京志郎が振り向くと、黒髪ロングの女生徒が、掌をこちらに向けて両腕を前に突き出すという奇天烈な体勢でありながら、驚くべき無表情で静止していた。
「……んだよ、やんのか?黒咲」
「やるって……何を……?」
「何をじゃねぇよ。相撲だろ?負けねぇぞ」
「……?」
「なにその顔!何で俺のこと『急に相撲ふっ掛けて来る変な奴』見たいな顔で見てんの?」
「河童、かな……?」
「『かな?』じゃねぇ。何?バカにしてる?」
「してないけど……何で相撲?私、相撲なんてルール良く知らないし……」
「お前が仕掛けて来たんだろ!俺の背中を押してくれやがっただろ!」
「『背中を押す』……?私が久遠くんを励ました……?」
「ちがう、慣用表現じゃなくて……物理!物理的に!俺のこと押し出したよな!土俵際に追いやったよな!」
「背中から相手を押す場合は『押し出し』ではなく『送り出し』という特殊技で、」
「お前絶対ルール知ってるだろ」
「お父さんに教えられて……」
「なんだその言い訳。なに、お前の父さん、力士なの?」
「相撲は『五穀豊穣』とか『無病息災』の祈願っていう、神事としての側面もあるから……」
「なるほど……。って、そんな神聖な行事を、何で俺に喰らわしたの?俺がそんなに御利益ありそうに見えるか?」
「………………うん」
「なにその間!ふつーに否定すりゃいいんだよ!ちょっと気ぃ使ってんじゃねぇ!」
「だって……久遠くんが急に相撲とか言うから……。相撲、好きなのかなって、思って……」
「急じゃねぇ。お前が俺を押したんだっ」
京志郎が、ピシッとデコピンをすると、楓歌は「あう……」と額を押えて、不服そうな顔をした。
こういった他愛もないやり取りも、最近ではよくするようになっていた。
「で、何か用か?」
「うん……。ちょっと話が、あるの……」
「じゃあ初めからそう言やぁいいじゃねーか。それとも、お前ん家では、朝一で人に合った時は、そいつを突き飛ばすことから始まるのかよ。どんだけ荒ぶった育て方されてきたんだ」
「…………」
楓歌は再びジトっとした目で京志郎を睨め付けた後、
「いじわる…………」
と、そっぽを向いた。
◆
聞けば、楓歌は7時半ごろから校門近くで待機していたらしい。
と、言うのも、急ぎで伝えておきたいことがあったそうだ。それだけ重要な案件なのだろう。
わざわざ校舎裏に行くということは、他人に聞かれたくない話ということ。
京志郎の予想通り、それは恋火や磐蔵神社関連の話だった。
京志郎としても、神様だ、信仰だなどと、所謂電波な内容を公然と口にするのは避けたかったので、人目に付かないのはありがたいことだった。
「昨日、ウチに来た人がいたらしくて……」
「ふーん。新聞の集金か?」
「えっ……?ち、違うけど……?」
「じゃあヤクルト?」
「ち、違うよ……!お参りに来てくれたんだよ……!」
「へぇ~またかよ」
楓歌は嬉しそうに微笑んで肯く。「それも、またウチの高校の生徒なんだって……!」
「案外、流行ってんじゃん。お前ん家」
京志郎を含めれば、もう今週だけで三日目だ。社は寂寥の粋を極めており、神自信が『信仰が薄い』と嘆いているわりには盛況だった。
勿論、一般的な神社のことを思えば、日に一人程度の参拝者で歓喜していては、合祀まっしぐらの絶望的な状態だろうが。
「こんなこと、今までに無かったのに……!」
楓歌は目を輝かせ、やや興奮したよう言う。
磐蔵神社にとっては、これはお祭り騒ぎに発展しかねないほど異例かつ希望的な事態のようだ。
その参拝者は、京志郎が帰った後、またしても楓歌が買い物に行っている間に訪れたそうだ。
今回は楓歌もその人物を見なかったのだが、唯一参拝者を見た恋火が、その者が制服を着ていたことを覚えていたので、三守高校の生徒だと判明したらしい。
「私と同じ格好だったから、分かったって……」
「ってことは、その参拝者は女の人ってこと?」
「そうみたい。『そのヒラヒラを身に着けていた』って言ってたから」
と、楓歌がスカートの裾をつまみ上げると、白く小さな膝小僧が顔を覗かせた。
しかし、それ以上の情報は恋火から得られなかったらしい。
「つまり、その人の名前も特徴も、何年生かすら分かんないってことか」
楓歌は力なく首肯する。
参拝者が誰か分からなければ、手紙を渡すことも出来ないので『恋文作戦』は使えない。
使うとしたら、その人物を探すことから始める必要があった。
「……」「……」
二人は黙り込む。
三守高校は1学年に300人強の生徒を抱え、全校生徒数は1000人に近い。
単純に男女が半数ずつ在籍していたとしても、候補となる女子生徒は500人。
参拝者の願いを叶え、その祈りを恋火に還すには、まず500人の中から、たった一人のその女生徒を見つけ出す作業から入ることになる。
京志郎と楓歌はお互いに顔を見合わせ、相手の表情から、状況の絶望性を一層深く感じさせられた。
そんな無言の二人の間に、けたたましい予鈴の鐘が鳴り響く。
京志郎が「とりあえず、教室行くか」と言うと、楓歌は黙って肯く。
「そうだ。黒咲、今ケータイ持ってる?」
「え……?持ってるけど……?」
「じゃあ、ついでだからさ、連絡先交換しようぜ?」
「えっ、れ、れん、連絡先……!?」
「あぁ。これから先、無いと不便だろ?こういう連絡も、いちいち口で伝えなきゃだし」
「あ、う、うん……。わ、わかった……」
楓歌は慌てて鞄から携帯電話を取り出し、使い慣れていないのか「えーと、うーんと」と唸りながらようやく連絡先の交換の画面に辿り着き、それでホッとしたのか、持っていた携帯電話を取り落として、あわや靴底で画面を踏み砕きそうになりながら、やっとの思いで京志郎の連絡先を登録した。
(何をそんなに慌ててるんだ、コイツは……)
楓歌は、画面上に一件だけ増えた連絡先を、
「……………お父さんとお母さん以外の人の名前がある」
などと呟きながら、ウットリとした目で見つめていた。
◆
昼休み。
「天津神国津神八百万神」
カチャ、と乾いた音がする。
ドアを開き、大空へ吸い込まれる。
5月、正午過ぎの天は高く、雲一つ無い晴天が海へ山へと続いている。
見上げる程に心が浄化されるようだ。
全ての悩みに対し、些細なことだと、その途方も無い広さで以って教え、あらゆる憂いに対し、『決して堕ちはしない』と、その見果てぬ高さで以って応えている。
「まぁ、然う感傷的に成るな。成るように成る。心配は要らぬ」
と、恋火は自信満々に言う。
対する人間二人は、簡単には同意しかねた。