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京志郎は生まれた時からこの『遠海』の町で暮らして来た。
京志郎の家はどちらかと言えば山に近いあたりにあり、近所には都会の娯楽が無い代わりに、自然の遊び場には事欠かなかった。
面白そうな場所を見つけては、やんちゃな男子と一緒に怖がる女子を引き連れて、怖いもの知らずであちこち這い回ったものだった。
小学校の中学年にもなると、近隣の好奇心をそそるスポットはあらかた靴跡をつけ終えてしまい、行ってはいけないとされていた校区外にもよく足を伸ばしていた。
その中には、山の中に佇むとある寂れた神社も含まれていた。
階段が長いためか人の出入りがほとんどなく、それでいて境内からの眺めは絶景そのもので、かつ子供数人が遊ぶにはちょうどいい広さがあったため、歴代でもトップクラスのスペックを持つの秘密基地として、京志郎たちは度々そこで日暮れまで遊んでいた。
ただ、二百段を超える階段を毎回登らなければいけないのは、子供と言えどはかなりの重労働で、次第に女子たちが敬遠するようになり、さらに、校区外の別の場所に行ったときに呼び出されて大目玉をくらったことを契機に、京志郎たちはこの神社にもさっぱり訪れなくなっていった。
◇
「脚、いてぇ」
寝覚めは最悪だった。
まるで起きるのを待ち構えていたかの様に、目覚めの瞬間から両脚に重い筋肉痛がのしかかって来た。
時刻はまだ六時過ぎ。目覚ましをセットしている時間よりも一時間ほど早いが、痛みが丁度いい眠気ざましになり、二度寝を試みることは叶わなかった。
「っつ、いたた」
ベッドから降りると、それまでぼんやりとしていた痛みの輪郭がより鮮明になってアキレス腱を伝う。立っている分には大したことはないが、歩くのは多少辛いかもしれない。
しかしながら、筋肉痛程度のありふれた後遺症で済んだのは、まさに不幸中の幸いと言えるだろう。
昨日は実際、一瞬は死を覚悟したし、倒れた時に頭でも強く打っていたら、今頃こんな風に暢気に欠伸など出来ていないだろう。
「ふわぁ~……んぐ」
欠伸を噛み殺して洗面台に向かい、顔を洗う。
もう脳みそはすっかりお目覚めモードだった。ということはやはり、昨日の出来事は夢などではないらしい。
神さまにお願い事をしていたはずの京志郎が、次に目覚めたのはもうすっかり日が暮れた後だった。
起きてからしばらくしても脳は夢見心地で正常に働かなかったが、ほとんど帰巣本能だけを頼りに自宅に辿り着いたのだ。
よくも何の問題も無く無事に帰還できたものだと、今更ながら安堵する。
「……あの光、一体なんだったんだろう」
願いと共に現れた謎の光。
あの場面だけは夢だったのではないかと考えてしまうが、それを真っ向否定するように、脳裏には神々しい青白い光が焼き付いていた。
「そういえば、昨日行った神社……夢に出て来たところとよく似てたな」
学校へ行く支度をしつつ、そんなことを考える。
既に夢の中の映像はぼやけ始めていて確証はないものの、昨日訪れた神社と一致する部分は幾つかあった。
昨日は初めて訪れたものだと思い込んでいたが、もしかしたら子供の頃に既に何度か行ったことがあったのかもしれない。
とはいえ、夢に出て来た神社は、灯篭に狛犬、巫女さんがいておみくじを引いたりする建物(社務所って言うんだっけ?)や、手や口をゆすぐ洗い場みたいなところ(名前は知らん)など、よく神社にありそうな設備がキチンと揃っていたのに対し、昨日行った神社はそれらが一切無く、もっとガランとしていた。
別の神社である可能性も大いにあるだろう。何分、夢の中の出来事と、夢のような出来事が起こった場所の話なので、記憶がぐちゃぐちゃに混ざっているだけなのかもしれない。
「まだこんな時間か。このままだとかなり早く着くなぁ」
などと文句を言いつつも、家にいてもすることも無いので素直に学校へ向かう。
曇天とは言えないが、晴天とも言い切れない微妙な天気の下、中途半端に早い時間のため、通学路には一般生徒はもちろん朝練に向かう生徒もいない。腿に横たわる筋肉痛が歩く邪魔をするが、普段は味わうことのできない静けさの中、早起きするのも悪くない、などと考えながらまだ生活指導の教員もいない校門をくぐる。
京志郎がこの四月から通っているのは県立三守高校。自宅からはほぼ真西に徒歩で十五分くらいのところにある。
偏差値レベルで言うならランクは中の上。勉学面よりもスポーツの盛んな学校で、とにかく敷地が広い。グラウンドは野球部とサッカー部と陸上部がフル活用しても余るほど広大で、中庭がなぜか三つもあり、さらには青々とした木々が生い茂る裏庭もある。
というか、裏庭はもはや森といった感じで、遠目では裏の山とつながっているようにも見える。
京志郎は1年7組に所属していて、まだ入学して一カ月と言うこともあるだろうけれど、見た感じではクラスの雰囲気は落ち着いていて、今のところは割と居心地のよい学級だった。
一番乗りを期待して1-7の教室の戸を勢い開けると、ガラリ、と乾いた音が教室内に響く。
「お、京志郎。なんや今日はえらい早いねんなぁ」
一番乗りではなかった。しかも、朝っぱらから一番会いたくないやつに会ってしまった。
教室内には逢阪が一人でいた。どういうわけか、自分の席には座らずに京志郎の席に陣取っている。
「せやせや、丁度良かった。昨日のこと教えてくれ。どうやった?」
元々細い目をさらに細めて、逢阪は挨拶も無しにそんな問いを投げ掛けてくる。
それがスイッチとなり、静寂の朝の空気に浄化された爽やかで穏やかな京志郎の心持ちは、思い出したかのように、一瞬にして目の前の悪友への憎悪で塗り替えられて行く。
「テメェ!昨日はよくも嵌めてくれやがったな!」
衝動的にヘラヘラしている関西弁の胸ぐらを掴んで持ち上げる。
「ちょ、なにするんや京志郎!」
「なにじゃねぇ!お前が昨日俺に行かせた神社、ありゃなんだ!?めっちゃ山奥にあるは、階段は長いは、建物はボロいは、散々じゃねーか!」
「へぇ、建物はボロかったんや。まぁ、そんな気はしてたけど」
逢阪は胸ぐらを掴まれながらも、懐から手帳を取り出してメモを書き始める。それを見て京志郎は恐る恐る問うた。
「逢阪、もしかしてお前……。あの神社に行ったことないのか……?」
「んん?ないけど?だってあんな長い階段上る気にならんやろ?」
逢阪は、今自分があっけらかんと言ってのけた言葉が、親友の怒りの炎に注がれるガソリンになり得るとは思わなかったのだろうか。
「逢阪……テメェ、許さんぞ……」
「あのぅ、京ちゃん?顔がめっちゃ怖いんですけど……」
「俺がどんな思いであの長い長い階段を、汗だくになりながら上ったと思ってんだ!!ゴルァ!!」
京志郎は掴んだ胸ぐらごと逢阪の身体をぶんぶんと振り回す。
「あはぁあぁ~揺らさんとって~京志郎は~ん」
「るせぇ!あそこが恋愛成就の神社ってのもどうせハッタリなんだろう!俺の純粋な恋心を弄んでせせら笑うために吐いた嘘なんだろ!?」
「それは~嘘ちゃうって~マジなんやって~」
逢阪は目を回しながら弁明を垂れ始める。
「図書館にあった~地域の歴史書に~書いてあったんや~。やから~マジもんなんは~確かなんや~」
「む……。そうなのか?」
「ホンマやって~。せやから~いい加減揺らすん~やめとくれ~」
逢阪の三半規管もそろそろ限界のようだったので、京志郎は渋々手を離した。
「げほ、げほ……。ホンマ京ちゃんは乱暴ものやなぁ」
「然るべき制裁を加えたまでだ」