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広大な敷地を持つ三守高校には、旧校舎という古い建物がある。
活動の盛んな運動部と比べ、弱小な文化系クラブの部室棟としてのみ使われていて、大半の生徒が足を踏み入れる事無く高校生活の幕を下ろすと言われている場所だ。
昼休み。
京志郎は、その旧校舎の屋上へ続く階段を、一人上っていた。
屋上は、中庭と並んでランチをする場所として、生徒たち、特に高校生活に彩りを求めるオシャレ女子たちに人気の定番スポットだが、高い金網で囲まれた新校舎の屋上と違い、低い手すりしか設置されていない旧館のそこは、『安全面に不備あり』とのことで一般生徒の立ち入りが禁止されている。
屋上へ通ずるコンクリートの階段には、使用されていないボロ机などが雑多に置かれており、完全に物置場と化している。
それらの机にも塵が積もっていることからも、ここが滅多に人が出入りする場所でないことを表していた。
実際に、一番上まで上がって屋上への扉に手を掛けたが、鍵は閉まっていた。
「……あまつかみくにつかみやをよろずのかみ」
京志郎が言い終えると同時に、カチリ、と軽快に錠が外れる音がする。
扉を開けると、狭く薄暗くカビ臭い校舎内とは対照的な、明るく近い空が視界にいっぱいに広がった。
旧校舎は新校舎よりも最上階が1階分高く、さらに山側に位置していることから、眺めの良さは新校舎のそれを大きく凌駕していた。
見事な五月晴れの下を、町から海までを見渡せる絶景の清々しさは、心に座る少々の懐疑など容易く吹き飛ばしてしまう。
「良い場所だろう?」
振り返ると人が二人いた。――いや、一人は胡坐で浮かんでいるので、人間ではない。
その意見に異論はなかったので、素直に肯いて答えると、神は満足そうに微笑した。
「良く来たな、京志郎」
何の他意も無さげにそう言う彼女の放つ美しい笑みには、気持ちを上向きに修正するような不思議な力を有していた。
「よく来た、ってアンタらが呼んだんでしょ」
溜息交じりに京志郎は返答し、ポケットから紙切れを取り出す。そこには丁寧な手書きの文字で、
『恋火さまがお話があるそうです。お昼休みに旧校舎の屋上まで来てください。お願いします。 1年9組 黒咲』
慇懃かつ無味乾燥な文字が羅列していた。
「わざわざ置手紙で呼び出すことないだろ?同じクラスなんだから直接言えばいいじゃねぇか」
クラスメイト宛とは思えない、よそよそしい文面を送り付けて来た張本人に抗議するが、彼女は浮かんでいる神を一瞥したのみで、何も返してこなかった。
「其れよりも、やけに参るのが遅かったな、京志郎。早く昼食にしよう。余りに遅いので我は待ち侘びたぞ」
「仕方ないでしょ、旧校舎なんか来るの初めてだったんだし。ふつーに迷いますよ。ていうか、何で旧校舎の屋上なんですか?ここ、立ち入り禁止らしいですよ?」
「うむ、成らばこそだ。人が来ぬ故、密会には打って付けで在るし、何よりも此の素晴らしい眺望だ!」
恋火は嬉々と、、まるで溺愛する愛娘をべた褒めする父親のように、眼下の町並みを指して言う。
「拠点としては申し分無い!此れからは、此処を我らの会合の場として使用する」
「いやいや、扉のとこに、『生徒の立ち入り禁止。破った者は厳罰に処す』って張り紙に朱書きしてたんだけど……」
「ふーむ。何故、此の景色を封じて迄、侵入を禁止するのかは甚だ疑問だな。まぁ、鍵をして居れば問題無かろう」
実に楽観的な物言いだ。怒られるのは京志郎や楓歌なのだが。
それに、どうやって鍵の掛かっていたはずの扉の外に出たのだろうか。……浮遊している姿を見れば大体見当は付くが。
「この最後の暗号みたいなのは?」
京志郎は楓歌からの手紙を見せ、
『追記 鍵が掛かっているので、扉の前でこう唱えて下さい。「天津神国津神八百万神(あまつかみ くにつかみ やをよろずのかみ)」』
呼び出し文の最後にあった、不可解な文字列を指差して言う。ご丁寧にふりがなまで振ってある。
「ああ、其れは祭事の際、毎回宮司が初めに唱える祝詞の一部だ。唯の合言葉として用いたのみで特に意味は無い。万一、御主以外の者が来ては困るのでな」
つまり、オートロックを解除する音声パスワードということか。
この言葉の口語訳は『天を司る神々、地を司る神々、八百万の神々』で、京志郎も字面だけでもなんとなくだが意味が分かっていたので、それ以上追及しない。
それに、もしかしたらこれから何度も唱えることになるかもしれない言葉が、神秘的なのは少し好印象だった。
――などと、暢気に構えていたが、これはよくよく考えれば、錆びついた鍵穴しか持たない、何の変哲もないアナログな門扉が、恋火のミステリアス謎パワーによって、ハイテクを超えた超高性能の自動施錠システムを手に入れた、ということになるわけで……
(……いとも容易く起こる人智の及ばない現象。寒気がする)
周到な楓歌が持っていたビニールシートを広げ、その上に三人で三角形を形成するように座る。「いただきます」と、京志郎と楓歌は合掌。
京志郎は購買部で買った惣菜パンを、楓歌はコンビニ弁当を、恋火は楓歌が持参したお汁粉を、それぞれ個々に食す。
昼休みに屋上で美人二人(内一人は生徒じゃないどころか人ですらないが)に囲まれてランチとは、自分の高校生活も華やかなになったものだ、と京志郎は冷静に考える。
この上楓歌から『お弁当作ってきたから食べてー!』などという、女子力の塊のような科白が飛び出した日には、京志郎は、校内のありとあらゆる場所に顔写真入りの手配書を貼られ、学校中の非モテ男子たちから命を狙われるという、激烈な日々に急転直下すること間違いなしだろう。
……リアルが充実しすぎて胸やけがしそうだ。そんな面倒くさい展開は御免被りたい。
「では、本題に入るか」
ずりゅりゅ、と先にお汁粉を体内に流し終えた恋火が口火を切る。
「先ず確認だが、我の目的は信仰の復活と神力減退の阻止だ」
京志郎は肯き、「で、どうやってその信仰を集めていくんです?」
「まぁ、方法は多々在るのだが、一番効果的な策は『実際に人々の願いを叶える事』だな。我に捧げられた祈りを成就させれば、其の者の喜びは、必然、我への信仰心へと成り替わる」
「確かに、願掛けに効果があるって思えば、参拝者も増えそうですしね。単純だけど、分かり易いです。――そう言えば、恋火さんは恋愛成就の神さまでしたね?」
「然り。即ち、我々は当面の間、人々の恋煩いを癒す事に専念すると云う訳だ」
「でもそれって、恋火さんの神力ってやつで、その辺の人間の片思いを、ちょちょいって叶えてやりゃあ良いんじゃないですか?」
そうなれば、そもそも楓歌の身体に這入る必要もなく、京志郎の手助けも必要なくなるだろう。
「然う簡単に云って呉れるな。口惜しいが、今の我の力は本当に微々たる物に成って仕舞って為、人心を操作する事等出来ぬ。其れに、元より其の積もりも無い。産子の願いを無暗に叶える事が目的では無いのだからな」
恋火は、少し怒ったのか、やや険しい顔で言う。
「産子自身も努力をし、其の努力に神の助力が在ったと知れば、即ち、願いは信仰へと昇華する。肝要なのは、産子自身の力では如何にも叶わぬ部分を、我が肩代わりし成就へと導く、と云う事だ。我は縁結びへの糸口を作って遣るに過ぎぬ」
恋火の強い語調には、彼女自身の矜持のようなものが感じられた。