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ヴヴヴヴヴヴヴヴ……
「おお、良いぞー。気持ち良いー。あーうー」
目玉一つ分だけ開かれた襖の隙間からは、スラリと伸びた女の白い脚と、女が腰かけている黒いソファーの様なものが見えた。
女は相も変わらず、悩ましい声で室内を満たしていた。
ヴヴヴヴ…………ゴッゴッゴッゴッゴッゴッ……
振動音は止み、続いて何かを強く叩くような音が響く。
「うおぅ、なん、だ、今度は、腰っ、かぁ、うお、此れは、また、効く、のう、あぅ」
女の言葉は、その音に分断されるかのように同じリズムで途切れ途切れになって、意味はよく伝わらなかった。
ゴッゴッゴッゴッゴッゴッ……
「然し、人間は何処へ向かって居るのやらさっぱり判らんのう。日がな一日歌を詠んで居た頃には、此の様な面妖な物を造り出す等と云う事は想像も付かなんだが……。此れが所謂、進化と云う物なのだろうか。真に度し難い。人は何時から此の様に楽しむ以外の事を求め出したのだろな」
女は、奇妙な言葉使いで何やら意味深な科白を呟いている。
同時に、京志郎の妄想は徐々に現実の色を取り戻していく。気がついたのだ、己の間違い、愚かしさに。
「然れど、此の椅子は真に良い物だ。うむ、気持ちが良い。此の様な機械如きで我を唸らせるとは。いやはや、神をも恐れぬ所業とは此の事よ」
『椅子』……やはりそうか。
そして、空気を読まない情動が背を強く押す。我慢の限界だった。
パァン!
唐突に、襖を勢いよく開け放った。
女がいきなり開かれた襖に驚くよりも早く京志郎の脳は回転し、目の前の事実を確認する。
黒くて、ソファーっぽくて、振動して、気持ちが良いもの。女が座っているものは……間違いない。
京志郎は大きく息を吸って、情動に突き動かされるままに、先ほどからの奇妙な音の発信源の名称を叫んだ。
「マッサージチェアかよおおおおおお!!!!!!」
――彼は絶頂した。
地を駆けている様な、宙に浮かんでいる様な、空を飛んでいる様な、そんな気持ちだった。
縛っていた鎖は全て解け、背負っていた重荷は全て投げ出され、京志郎は一陣の風になる。
なんという爽快感なんだ!この圧倒的な開放感を言葉に出来ない!
やはり堪らない!ツッコミというのは、堪らない!
I love ツッコミ!You love ツッコミ!We love ツッコミ!
――全てのツッコミが、すばらしい。
「…………」
「…………」
後の訪れる、あり得ない重さの沈黙に押し潰されそうになる。
渾身のツッコミを受けた女は硬直し、豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くして、スッキリ満足フェイスの、一見すると賢者タイム中にも見える京志郎を見つめている。
やってしまった。
この女の人が座っている振動する黒いソファーは、今はウィンウィンと音を立てて女の背中を摩っている。
最初の「ヴヴヴ」も、次の「ゴッゴッゴッ」も、今鳴り続けている「ウィンウィン」も全てはこの椅子から発せられていた。
つまり、マッサージチェアだ。
(やっべぇ……、何やってんだ俺……。友達の家の人にいきなりの全力ツッコミ……。最悪だ……)
自分の邪な妄想を呪った。とんでもない勘違いで京志郎は高らかとツッコんでしまったのだ。ただこの女の人はただくつろいでいただけなのに。
不躾なんてレベルではない。
初対面で、しかも相手は京志郎が家にお邪魔してたことすら知りもしないから、自分は勝手に人の家に上がり込んでいきなり叫び出したヤバイやつということに……。
詰んだ。完全に詰んだ。彼は今、黒咲家での立場を完全に失った。
「ええと……、あの、スミマセン、お騒がせしましたー……」
震える声で謝罪し、回れ右をして元いた部屋に帰る。(ていうか、もう家に帰りたい……)
「待て、小僧」
「!?」
グイ、と襟首を掴まれた。
「御主、何者だ?」
退散する京志郎の首根っこを女が鷲掴みにし、後ろから顔を覗き込んで言う。
「大声を上げて部屋に闖入して来た所を見ると、憑き者か何かか?其れにしては邪気が感じられんが。然し、良く我が結界を潜り抜けられた物だ」
京志郎は戦慄した。
女が何を言っているのかは皆目見当が付かない。だが、自分を凝視する女は、切れた目をさらに吊り上げて、眉間に不審を募らせて皺を作っており、視線で自分を射殺さん如き形相だった。
「此処へ来た目的を明かせ。然も無くば我が神力を以って此処で主を祓う」
女の冷たく鋭利な言葉が背に刺さる。意味は不明ながら、明確な敵意だけは感じられた。
背後を取られ、急所を押えられていることもあり、京志郎は怯え切った声で釈明をした。
「え、えっと、俺は黒咲さん……楓歌さんに連れられて来たんですっ。理由は俺自身分かってません……」
「何?楓歌の連れとな?」
「は、はいっ。部屋で待ってろって言われたんだけど、こっちの部屋から変な音が聞こえて、気になっちゃって……」
「ふむ。客人が有る等とは聴いて居なんだが?」
「お、俺もさっきいきなり付いて来るように言われて……。でも、怪しい者ではないんです!ホント、お騒がせしてゴメンナサイ!」
深々と頭を下げると、首から手が離された。
京志郎はすぐさま女から距離を取り、振り向いて臨戦態勢を取る。
こちらに非があるとはいえ、いきなり鉄拳制裁を加えようとする相手だ。用心は怠らない。
「ふむ。確かに徒の童の様だな。見た所、齢も楓歌と同じ位か」
ようやく警戒を解いたのか、睨むのをやめ、同時に京志郎への興味も失ったようで、すぐにマッサージチェアに座りなおそうとする。
対峙してよく見ると、その女は楓歌を超える美人だった。
楓歌を『綺麗』と形容するならば、この麗人には正しく『美しい』という言葉が似合う。
男が十人いたら十二、三人は振り返りそうな、現世の外にすら伝わっても不思議ではない程の眉目。
背は京志郎よりも高く、むき出しの素足はスラリと長い。
楓歌よりもさらに長いその髪はやや青みがかった白色で、縁側から差し込む日光を受けて、キラキラと光を放っているように見える。
やや細身だが、胸や尻の肉付きだけは非常によく、胴回りのくびれは服の上からでもハッキリと分かる。
見たところ二十代半ばの風体は、瑞々しい若さだけでなく、少し年を重ねたからこそ滲み出る色香、艶かしさを持っている。
やけに整った顔立ちもさることながら、そこに存在するのは、彼女から出る絶対的な美のオーラ。脳に突き刺さる様な鋭角な美しさがあった。
凛とした、この鮮烈な感覚には覚えがある。
(昼休みの黒咲とおんなじだ……)
あの邂逅の一瞬に感じたものが、今、具現化して目の前にいるような錯覚すら覚えた。
一方の女は、すでに京志郎に危害を加える気は無いのか、腕組みをし、京志郎のことを品定めするかのように、顔から足の先までを鋭い視線で舐め回す。
女の放つ圧倒的な存在感に、ついたじろいでしまう。
「小僧、楓歌との連れと申したか?」
「は、はい」
「成らば、楓歌と御主の若さに免じで、此度の無礼は不問に付そう」
「はぁ……」
許しを得たのは良いが、なぜこの麗人はこんなにも尊大なのだろう。