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サイダー

作者: KOU

 ふと、甘いにおいが鼻についた。目を開けると、隣の女性が缶のサイダーを飲んでいた。電車の中という公共の場での飲食は感心しないが、扉の前に座り込んでいる女子高生や目の前で姦しくしているおばちゃんの方がよっぽど迷惑である。ので、気にしない。

 その女性は、少しだけ顔を傾けて、こくっこくっとサイダーを飲む。僕は茫然と、彼女がサイダーを飲んでいる姿を眺めていたが、驚くほど白いのどが視界に入り、思わず顔を背けた。いや、実はそれが原因ではない。その女性は、僕の記憶の中にいる、〝だれか〟によく似ていたのだ。肩まで伸ばした黒いストレートの髪、大きな二重の瞳、きゅっと結ばれた唇の端……横顔ではあるが、彼女は〝だれか〟が成長した姿そのものだった。

 もちろん、そんな訳はない。〝だれか〟はこんなところで電車に揺られている訳ないのだから。

 だから……僕は、彼女を意識しないように、目を閉じた。



 電車が目的地に到着する。僕が降りようと立ち上がると、彼女もほぼ同時に立ち上がった。ぎょっとして目を剥くが、何のことはない。彼女と僕の目的地が一緒だっただけだ。、この駅の最寄にある大学に通っているのだろう。この電車の到着時刻は講義の開始にはちょうどいい時間帯なのだ。僕たちと同じように、乗客のほとんどが腰を浮かしていた。彼女もその中の一人に過ぎない。偶然〝だれか〟に似た彼女が、偶然僕と同じ学校に通っていて、偶然今日は隣に座っていて、偶然サイダーを飲んでいた。ただそれだけだ。他意はない。

 しかし、僕はその偶然を意識せずにはいられない。じくじくと、得体の知れない感情が侵食してくる。動悸が早くなるが、僕は必死にそれを押さえ込む。扉が開くと、何かから逃げるように、早足で改札を通り抜けた。

 学校への道すがら、一度だけ後ろを振り返ると、彼女はゆっくりと典雅に、歩みを進めていた。彼女はたくさんの人に追い抜かれるが、そんなこと気にも留めず、自分のペースを守り続けている。

 ……まったく。どうしてそんなところまで似ているんだ?

 僕はさらに足を速める。やがて、彼女は見えなくなった。



 今日の講義は一時限目と三時限目にあり、二時限目は空いている。いや、今日に限らず、毎週火曜日はいつもそうだ。つるんでいる学科の友人たちは、二時限目も講義を入れており、必然僕は一人暇を持て余すのが日課……というか、週課になっている。

 時間の潰し方は様々で、図書館に行ったり、購買の書籍部で立ち読みしたり、PCルームでパソコンをいじったりするのだが、今日は穏やかな天気で気分が良かったため、中庭のベンチに座って本でも読もうかと考えた。

 書籍部で薄めの文庫本を購入し、中庭に向かう。買ったのは最近流行の青春小説だ。こんなに晴れやかなのに、まさか血みどろのミステリを読むわけにはいかない。血みどろは好きだけど、僕だってTPOくらいはわきまえる。

 中庭は、芝生の広場の周りにベンチが設置されており、僕と同じように暇を両手に抱えきれないくらい持て余した学生たちによって、占拠されていた。この中で、僕と同じように二時限目が空いている人間は何人いるのだろう? きっと、講義をサボってタバコを吹かしに来ているだけだろう。

 視線を廻らせて、空いているベンチを探す。出来るだけ、あの紫煙がたゆたっている一団からは離れたい。そうして視線を走らせた先には……。

 彼女が、いた。

「…………」

 思わず息を呑んだ自分に驚いた。

 彼女は独りでベンチに座り、厚いハードカバーの本を読んでいた。

 立ち去ろうと思った。しかし、意に反して、足は動かない。目も動かない。僕は、この場所、この時間に固定されてしまった。

 彼女は足を組んで、伏し目がちに本の文章を追っている。その姿はまるで、一つの完結した絵のよう。そのまま切り取ってしまえるぐらい、その絵はその絵だけで完結していた。

 そして傍らには、先ほどと同じサイダー。甘くて、幼い飲み物。


 ――うう……ぐすっ。ありがとう。


「――ぐ……」


 ――……二人でいっしょに飲もうね。


「――っあ……」


 それは、いつかの。

 守られなかった、約束だ。

 堤防が決壊した。先ほどは抑えられた感情が、濁流になって、裡に流れ込む。僕の心身はその濁流に耐え切れない。

 遠くで、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。そちらを振り向こうとした時、既に僕の目の前には地面がそびえ立っていた。

 意識が、消えた。



 

 目が覚める。頭の奥底に、重たくて鈍い痛みが横たわっている。頭の下には、柔らかな感触。やさしくて淡いシャンプーの匂いが鼻腔をくすぐる。そして、視界には白いのど……。

「あ、気づきましたか?」

 身じろぎする僕に気づいた彼女が、下を向いた。このときになって、僕はようやく彼女に膝枕をしてもらっていることを理解した。

「――っ」

 顔に熱が溜まっていくのが分かる。要するに、照れている。僕は今まで女性経験が豊富だった訳ではないし、もちろん膝枕されるのも初めてだ。そして、彼女の白いのどは、あまりに綺麗過ぎて……。

「あの、ご気分はどうですか?」

「え、ああ、うん、大丈夫」

 どもりながら、答える。僕は相当、慌てている。

「いきなり倒れられたのでびっくりしちゃいました」

 コロコロと彼女は笑う。……その笑い方も、〝誰か〟にそっくりだ。

「あ、ありがとう」

 僕は頭を起こす。じくじくと、弱い痛みが明滅しているが、耐えられないほどではない。

「まだ無理をなさらない方がいいのでは?」

「いや、もう大丈夫。ありがとう、ええと……」

「わたし、植田和端うえだ かずはといいます」



「かずはが帰って来ない」

 そう聞いたのは、ある日の夕方だった。

 かずはのお父さん、お母さん、近所のおばちゃん、おじちゃんがみんな心配していた。かずははいつも、4時には帰って来る。そういう約束を、お父さんとしていたからだ。しかし今日はもう、6時を過ぎているのに、かずははまだ帰って来ていなかった。

 みんな、かずはを探しに行った。近くの公園、学校、川辺……。そんなところにかずはは居るわけないのに、みんなそんなところを探していた。

 おれだけは知っている。かずはとの秘密基地を。



浚井さらいさんは経済学部なんですか」

 大学の広場のベンチ。僕はそこで植田和端さんと他愛ない話をしていた。僕の体はもう特に問題はないが、助けてもらっておいて、ハイさよならという訳にはいかない。植田さんはどうやらお喋りをしたい様子だし、しばらく付き合うことにしたのだ。

「わたしは文学部です。主に国文学を勉強しています」

 ベンチはさほど大きくなく、僕と植田さんの肩は、何かを間違えたら触れてしまいそうな距離にあった。その距離故か、僕はずっと緊張しっぱなしだった。単純な距離で言えば、朝の電車で隣り合ったときの方が近いのではあるが。

 当然といえば当然だが、彼女はおそらく今朝、電車で僕が隣に座っていたことは覚えていないようだった。いや、覚えていないというか、知らないのだろう。僕だって、植田さんがかずはに似ていなかったら、隣に座っている人間になんて、興味を示さない。

「植田さんは今何回生?」

「今年、入学したばかりです」

 つまり、一回生ということであり、現役合格しているなら18歳ということだ。いや、既に誕生日を迎えていたら19歳か。

「そうなんだ。学校には慣れた?」

「はい。結構面白いです」

 結構面白いです、か。なかなか微妙な表現をする子である。ともかく、

「それは良かった。大学って、あんまり面白くないって言う人が多いから。いや、遊ぶ人は遊んでて楽しそうだけれど、それは大学が楽しいっていうわけではないから」

「だって、こんなに広いんですから」

 ……。植田さんの言葉の意味を考える。どうやら彼女は比較的、論理が飛躍しやすい……というか、言葉が足りないようだ。ええと、《こんなに広いから》なんだっていうんだ?

「うちの田舎を思い出します」

 ああ、そういうことか。《うちの田舎を思い出す》から、面白いわけね。……それは面白いというのだろうか。

 そんな実益もない会話を続けている裏側で、僕は植田さんとかずはの相似点を感じずにはいられない。例えば会話の中で言葉が足りず、意味が分からなかったりとか、実家が田舎だったりとか、かずはとの年齢の一致だとか。

「にゃー」

 突然、ネコが足元に躍り出た。近所のノラネコが迷い込んだのだろう。あまり毛質が良くない三毛ネコだが、愛嬌のある顔をしている。

「おいで」

 手を差し出したそのとき、左の二の腕がぎゅっとつかまれた。驚いて振り向くと、植田さんが俯いて、震えている。「ごめんなさい……」と、小さく呟く。

 僕は差し出した手を裏返して、ネコを追い払った。三毛ネコは「なんだよ、自分から誘っておいて」という表情を一瞬浮かべ、名残惜しそうに去って行く。彼……あるいは彼女には心の中で謝っておく。

 三毛ネコの尾が見えなくなると、ようやく植田さんは僕の二の腕を離して、安堵のため息を吐いた。

「ごめんなさい。わたし、ネコさんは昔、ちょっと色々あって、苦手なんです」



 おれたちの秘密基地は、少し遠くの公園の、小さな森の中にある。そこは背の低い木々に囲まれていて、少し細工をすれば外から中はまったく見えなくなった。おれたちはそこに色々なものを持ち込んで、おれたちだけの秘密基地にしたのだ。

 おれの思ったとおり、かずはは秘密基地にいた。

 ただ、秘密基地にいたのはかずはだけではなかった。

「ふー!!」

 ネコが総毛立てて、秘密基地の入り口から中を睨み付けていた。耳から尻尾まで、全身びんびんだ。

「えぐ……えぐっ……」

 そして、中からはすり潰したような泣き声。かずはだ。かずはがネコに怯えて、泣いている。

「こらっ!」

 僕はネコに怒鳴った。かずはを泣かしたネコに、腹が立ったのだ。ネコはゆっくりこちらを向くと、今度はおれをその鋭い眼光で射抜いてきた。おれのことを敵と認識したようだ。

 しまった、と思ったときには遅かった。ネコはネコ科特有のバネを活かして、おれに襲い掛かってきた。

 果たしておれとネコの決闘は、文字通りの意味で、血で血を洗う激しいものとなった。流れた血は主に……というか、すべておれのものだったが。何とかネコを追っ払ったときには、おれは全身ひっかき傷だらけだった。

「かずは?」

 痛くて泣きそうになるのを必死で堪えて、秘密基地の中に呼びかける。

「ネコ追っ払ったから、出ておいで」

 中で何かが動く気配。数秒して、かずはが四つんばいで恐る恐る出てきた。

「ネコさん、いない?」

「うん、もういない」

 おれは頷いて答える。かずはは大きな瞳にいっぱい涙をためて、言った。

「帰ろうと思ったら、ネコさんが通せんぼしたの。ネコさんなんて、だいきらい」



 あの時の傷が少し痛んだ。気がした。もう十年以上前の傷だ、治っていないはずがない。にも関わらず、顔をしかめてしまって、それを彼女に見咎められた。

「あの、どうしたんですか?」

「いや、僕もネコにはあんまりいい想い出はないんだ」

 ひっかかれたし、とは言わなかった。

「そうなんですか? じゃあわたしと一緒ですね」

 彼女は笑う。

「ネコさんにはたくさんたくさん泣かされました。かわいい、っていうのは分かるんですけど、どうも体のほうに染み付いていて」

「えっと、どんなことされたの?」

 体に染み付くくらいの苦手意識なんて、そうそうあるもんじゃない。《通せんぼ》でもされないくらいじゃないと。

 僕が尋ねると、植田さんは頬を染めて、答えた。

「それは秘密です」

 ……気になるが、言及するのはやめておいた。

「でも、浚井さんはすごいです。ネコさん、苦手なのに追っ払ったり出来るなんて」

「いや、苦手って訳ではないんだ。ただ、いい想い出がないってだけで」

 ひっかかれたという嫌な想い出があるのは確かだが、ネコにひっかかれたなんてことは、僕のたくさんある想い出の中でも極めて些細なもの過ぎない。トラウマになるほど、心の中で面積を占めていない。

「それ、見習いたいです」

 植田さんはそう言って、鞄の中をごそごそ漁り出した。何が出てくるんだ?と訝しんでいると、缶ジュースをずい、と差し出された。

「……なに、これ?」

「サイダーです」

「それは分かるけど」

 いったい、今の文脈をどう解釈したらサイダーが出てくるんだ?

「お礼です。ネコを追っ払ってくれた」



「ほら、もう泣くなって」

 秘密基地を後にして、とぼとぼと夕暮れの町を二人で歩く。影が不気味におれたちのあとを着いてくる。かずははまだ先ほどの恐怖から抜けきれないのか、ぐずぐず泣いていた。

「ったく……」

 おれはまっすぐ家に帰る予定を変更して、寄り道をすることにした。途中の小道を曲がる。かずはは進路を変更したことすら気づかず、俯きながらおれの手を握っている。

「おばちゃん、サイダー一本ちょうだい」

 おれが目指したのは、なんのことはない。近所の駄菓子屋だった。声をかけると、のれんの奥から恰幅のいいおばちゃんが姿を現した。

「あら、禎杜よしとくんじゃない。いらっしゃい」

「サイダー一本ちょうだい」

 もう一回言うと、おばちゃんは首をかしげて、

「一本でいいの?」

「うん、一本でいいよ」

 おばちゃんの疑問はもっともだ。だって、おれたちは二人いるのだから。しかしとても残念なことに、おれの財布には今156円しか入っていないのだ。100円のサイダーを二本も買えない。

 おれは財布から100円を取り出し、おばちゃんに手渡す。おばちゃんは「はいはい」と言いながら、冷蔵庫から瓶のサイダーを取り出して、栓抜きで栓を空ける。

「はいどうぞ」

「おばちゃん、ありがとう」

 サイダーの瓶を受け取ると、中からシュワシュワと泡の音が聞こえてきた。そして、甘いにおい。

「かずは、ほら」

 未だに泣いていたかずはに、サイダーを差し出す。サイダーはかずはの好物なので、機嫌を直してくれると思ったのだ。左腕で目を拭っていたかずはは、それに反応して、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をこちらに向けた。

「……くれるの?」

「ああ。だから、もう泣くのはやめな」

 ぐすぐすっと鼻水をすすって、かずははサイダーを受け取る。

「うう……ぐすっ。ありがと」

「どういたしまして」

 かずははさっそく、サイダーに口をつけた。小さな小さなのどぼとけがこくっと動く。それがやけに眩しかった。

 そしてかずはは、目元には涙のかけらを残しながらも、嬉しそうに微笑んだ。

「おいしい」

「当たり前だ。おれがごちそうしてあげたんだからな」

 意味の分からない理論だ。しかし、これくらいの意味のない自慢は許されるだろう。

「よしくんの分は?」

 かずはは大きな瞳を開けて、おれに問いかける。

「おれはいいよ。のど、渇いてないし」

 お金がない、とは言えなかった。そんなのは恥ずかしかったし、男の子には弱みを見せてはいけないという意地があるのだ。

「……いらない?」

 かずはは、まだ半分ほど残っているサイダーの瓶を傾ける。おれは首を横に振って、

「おれのことはいいから、かずはが全部飲んだらいいよ」

「……じゃあ今度は、かずはがよしくんにサイダーあげる。それでおあいこ」

「べつにいいよ」

「だめ。かずはだけサイダーもらったら、フコウヘイだもん」

 ぷくーっと頬を膨らますかずは。かずははこうなるときかない。

「わかった、楽しみにしとく」

「で、そのあとは二人でいっしょに飲もうね」

「一緒に?」

「うん、おあいこにしたあとで、いっしょに飲むの。ね、いいでしょ?」

「うん、いいよ」

 おれがそう答えると、かずはは嬉しそうにおれの右手の小指を握って、ぶんぶんと振り回した。

「約束だよ!」



 僕は差し出されたサイダーの缶を思わず受け取ってしまった。

「ご一緒したかったところですけど、残念ながらそれが最後の一本です。あ、遠慮なさらずどうぞ」

 鞄の中をがさごそ漁りながら、植田さんは言う。

「えーと、今日は残念でしたけど、もし浚井さんがよろしいのでしたら、今度一緒にどうですか? わたし、おいしいサイダーを出す店を知ってるんです」

「え……」

 心臓が脈動する。それは、あの時の約束の再現に他ならない。結局果たされることはなかった、約束の。


 ――二人でいっしょに飲もうね?


「だめ……ですか?」

 植田さんは上目遣いで僕に尋ねてくる。僕はそれに答えられない。呼吸を維持するのもやっとな状態だった。

 脳裏には色々な思考が渦巻いている。僕はどうするべきなのか、僕はどうしたいのか。

 あの時果たせなかった約束を、今こそ果たすときではないのか?

 しかし……。

「ごめん、植田さん」

と、僕は切り出す。

「それは、約束できない」

「どうしてですか?」

「君の提案はとても魅力的だ。それこそ、気が狂いそうなくらいに。正直な話、僕も君と一緒にサイダーを飲みたい」

「だったら……」

「それでも……僕は〝彼女と〟約束したんだ」

 僕は、かずはと約束した。一緒にサイダーを飲もうと。たとえ、植田さんがどれだけかずはと類似点があろうと、植田さんは植田さんだ。10年前に死んでしまった人間の代わりにはなれないし、新たに植田さんと約束を交わすということは、死んでしまったかずはへの冒涜になってしまう。

 僕はこれからずっと、一生果たされることのない約束と一緒に生きていかなければいけないのだ。それが、かずはにしてあげられる僕の、唯一の供養だと思う。

「……そっか、他にいい人がいたんですね」

 植田さんは少しだけ寂しそうに目を伏せた。

「じゃあ、しょうがないですね」

「ごめん」

「いえいえ、謝らないでくださいよ」

 淡く微笑んで、彼女は左腕の腕時計に視線をやる。

「わたし、そろそろ行きますね」

「あ、うん」

「いろいろお話していただいて、ありがとうございました。また見掛けたら、声でもかけてください」

「うん、こちらこそ。サイダー、ありがとう」

「それでは、失礼します」

 ペコリとお辞儀をして、彼女は去っていった。

 彼女が去ったことで、僕は独りになった。植田さんはああ言ったが、もう二度と僕たちが出会うことはないだろう。いろいろと積み重なった偶然を、僕は拒絶したのだ。再びその偶然が僕たちに訪れることは、ない。

 結局、植田さんは僕にとって何の意味を持っていたのだろう? これだけの偶然が重なったのだ、何かしらの含意を感じずにはいられない。小さく折りたたまれた意味が、たぶん今日の出会いには含まれている。

 あるいは、この出会いは運命だったのか。僕が〝おれ〟を再び始めるための。しかし、どちらにしろ僕はそれを拒否した。僕はこれからも〝僕〟を続ける。〝おれ〟には戻らない。

 右手のサイダーを見る。プルタブを空けて、口に運ぶ。

 久しぶりに飲んだサイダーはひどくぬるくて、幼くて切なくて、そしてほろ苦かった。




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― 新着の感想 ―
[一言] 爽やかな物語で、とてもよかったと思います。 幼い頃の記憶と上手く絡まっていたのも良かったですし、心からいいなぁと思いました。 お気に入りに入れさせていただきます^^ これからもがんばってくだ…
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